エッセイ**縄文土器とやりたいこと
岡本太郎の書籍を読んだことをきっかけに縄文土器に興味を持ち、博物館へ足を運んだ。
実物をこの目で見たその興奮が冷めないまま、帰りにそのまま図書館へ立ち寄り、縄文土器が掲載された本を数冊借りて読んだ。
博物館には、縄文中期の火焔型土器のような、口縁部に炎が燃え上がるような立体装飾を持つものは展示されていなかったが、それでも縄文初期の深鉢を見ることができた。
縄文土器特有の文様には、火の通りをよくするための実用的な役割もあったといわれるが、それ以上に、呪術的な厳かさというよりも、もっと生々しく、おどろおどろしい何かを肌で感じさせた。
隆起した文様の多くは左右対称ではなく、破綻を恐れないまま、ぐるんぐるんと螺旋を描いてうねり、掴みどころがない。
しかしそれが『整っていないこと』など、どうでもよくなる。ただ先入観を手放して見つめていると、腹の底が熱くなってくるのだ。
縄文土器を見ていると、純黒の中に一滴の鮮血が混じり合ったような、強烈なうねりを感じる。
ハラワタがぐわんぐわんとうねりをあげて、自分の生命時間を太陽のように無償かつ無条件に消費し続ける何かを、無意識が探し求めている。
現代を生きる日本で生活する私たちはは物に溢れ、生きる上では何不住なく生活することができている。大変ありがたいことだが。
それでもなぜか、空しくなるときがある。
自分の本当にやりたいことを諦めて、社会が世界が素晴らしいといったことをやっていても、その虚ろは何色にも満たすことができない。
とりとめもなくただ熱量のまま書いてしまったが、縄文土器を見て感じたことは、これがすべてだ。
最後に、岡本太郎の言葉を借りて締めたい。
無邪気な驚きと、喜びに我を忘れさせる。
カラッポにすると、次の瞬間、真空状態の容器を開けたとたん爆発的にまわりの空気が押し入ってくるように、猛烈な新しい知的エネルギーが湧き上がる。




