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◆第9話『“ママ”として、“女優”として――そして、あのベッドの上で』



 


 その日。

 俺は、人生で最も自分の感情を抑え込まなければならなかった。


 撮影スタジオ。

 セットの中、白いシーツが張られたベッドの上に、

 妻――如月美咲が、ランジェリー姿で腰を下ろしている。


 ……そして、その対面に立つのは、AV男優の一人――橘凌真たちばな・りょうま


 


 彼は、知っている。


 俺たちが「夫婦」であることを。

 そして、今日が出産後、初めての本番撮影であることも。


 


「よぉ、悠人。……今日は、いろんな意味で、大事な日だな」


 現場入り前、控室に入ってきた凌真は、飄々とした態度でそれだけ言った。

 そして美咲を見て、いつもより少しだけ、敬意を込めた笑みを向ける。


「無理だけはしないでくれ。もし途中で止めたくなったら、合図出していいから」


 


 その言葉に、美咲はゆっくりと頷いた。


「ありがとう。……でも私は、“やり切る”って決めてきたから」


 


 その空気は、静かで、強くて、プロフェッショナルだった。


 でも――


 俺の胸の奥には、まるで針のようなものが刺さっていた。


 



 カメラリハーサル。

 監督が細かく段取りを指示する。


 「美咲さん、最初はリビング風セット。そこから誘導されてベッドへ。前戯長めで、本番は一度抜いてから再挿入の流れで。照明は自然光っぽく」


 「接吻、クローズで抜きます。……例の“あのカット”やります」


 


 ――“あのカット”。


 カメラが女優の口元をクローズアップでとらえ、

 男優とのキスシーンを“リアルに”見せつける、AV業界ならではの“主観接吻”。


 観ている側にとっては“最高のリアリティ”。

 でも、俺にとっては――地獄だ。


 


 俺の妻が、別の男と舌を絡ませ、

 腰を重ね、快感を演じながら、いや、時に本気で感じながら――演じる。


 それを、俺は“撮影スケジュール”として管理している。

 プロとして。マネージャーとして。


 


 だが、夫としての俺は、

 そのすべてに嫉妬し、憎しみすら覚える瞬間がある。


 正直に言えば、今日も、吐きそうだった。


 



 そして本番。


 カメラが回り出す。

 セットの中、ソファに腰かけた美咲の髪が揺れる。


「……ん、ぁ……んっ……」


 凌真が彼女の耳元に唇を寄せ、指先が太ももを撫で上げる。


「緊張してる?」


「少しだけ。……でも、大丈夫」


 


 カメラが切り替わる。


 接吻。

 美咲が目を閉じ、凌真の唇に吸いつく。

 最初は軽く、次第に深く――舌が絡み、湿った音がマイクに拾われる。


「ちゅっ……んっ、ちゅ、く……ふ、ん……んぅっ……」


 


 ――やめろ。


 心の中で、俺は叫んでいた。


 だけど、止められなかった。


 止められるはずがない。

 俺はマネージャーだ。

 彼女が“やる”と決めたこの仕事を、最後まで完走させなければならない。


 


 凌真が彼女のブラを外し、胸元を舐める。

 カメラがズームし、汗ばむ肌が艶めかしく照らされる。


 背中を撫でながら、美咲は細く喘ぐ。


「んっ……あっ……だめ、そこ……くすぐったい……でも、気持ちいい……」


 


 ……その声を、俺は何度も聞いてきた。


 収録済みの映像で、編集室で、配信の確認で。


 でも、“今”それが目の前で起きていると、

 もう、心臓が持たなかった。


 


 凌真がゆっくりと彼女をベッドへ寝かせ、

 覆いかぶさる。


 そして挿入――。


 


 スタジオの空気が、ぐっと張り詰める。


 「んっ……んぁっ……う、くぅっ……!」


 美咲が小さく声を上げる。


 カメラが角度を変え、彼女の顔の汗、息づかい、指先の動きまで映し出す。


 


 ――これは、演技だ。

 けれど、演技じゃない瞬間もある。


 AVの世界は“演じる快感”と“本物の反応”が混在していて、

 観る側にとってはその“曖昧さ”こそが醍醐味だ。


 


 凌真がリズムを速め、彼女の腰を引き寄せ、

 ふたたび唇を重ねた。


「ちゅ、ん……んちゅ、んぅっ……好きだよ、如月……」


 ――台本にはなかった。


 だが美咲は、笑って返す。


「……私も。……この瞬間だけは、ね」


 


 そして、カメラが止まる。


 



 撮影後。


 控室で、凌真が俺に近づいてきた。


「……悪かったな。“旦那”の前でやるのは、やっぱり慣れねぇよ」


「いや……仕事だからな」


「でも、あいつ、いい顔してたぜ。“母”にも、“女優”にもなってた。……最高の二面性だ」


 そう言って、肩を叩いて去っていく。


 


 美咲が戻ってきたのは10分後。

 汗を流したあと、いつもの私服姿で。


「……ごめん。見せたくなかったかも。でも、どうしても、見ててほしかった」


「……見てたよ。全部」


 俺は、彼女の手を取った。


「帰ろう。お前の帰る場所は、俺と――あの子たちが待ってる家だから」


 


 彼女は、その手を握り返し、優しく微笑んだ。


 


 たとえ何度だって、

 彼女がステージに立つなら――


 俺はその舞台裏で、支え続ける。


 



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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