◆第9話『“ママ”として、“女優”として――そして、あのベッドの上で』
その日。
俺は、人生で最も自分の感情を抑え込まなければならなかった。
撮影スタジオ。
セットの中、白いシーツが張られたベッドの上に、
妻――如月美咲が、ランジェリー姿で腰を下ろしている。
……そして、その対面に立つのは、AV男優の一人――橘凌真。
彼は、知っている。
俺たちが「夫婦」であることを。
そして、今日が出産後、初めての本番撮影であることも。
「よぉ、悠人。……今日は、いろんな意味で、大事な日だな」
現場入り前、控室に入ってきた凌真は、飄々とした態度でそれだけ言った。
そして美咲を見て、いつもより少しだけ、敬意を込めた笑みを向ける。
「無理だけはしないでくれ。もし途中で止めたくなったら、合図出していいから」
その言葉に、美咲はゆっくりと頷いた。
「ありがとう。……でも私は、“やり切る”って決めてきたから」
その空気は、静かで、強くて、プロフェッショナルだった。
でも――
俺の胸の奥には、まるで針のようなものが刺さっていた。
◆
カメラリハーサル。
監督が細かく段取りを指示する。
「美咲さん、最初はリビング風セット。そこから誘導されてベッドへ。前戯長めで、本番は一度抜いてから再挿入の流れで。照明は自然光っぽく」
「接吻、クローズで抜きます。……例の“あのカット”やります」
――“あのカット”。
カメラが女優の口元をクローズアップでとらえ、
男優とのキスシーンを“リアルに”見せつける、AV業界ならではの“主観接吻”。
観ている側にとっては“最高のリアリティ”。
でも、俺にとっては――地獄だ。
俺の妻が、別の男と舌を絡ませ、
腰を重ね、快感を演じながら、いや、時に本気で感じながら――演じる。
それを、俺は“撮影スケジュール”として管理している。
プロとして。マネージャーとして。
だが、夫としての俺は、
そのすべてに嫉妬し、憎しみすら覚える瞬間がある。
正直に言えば、今日も、吐きそうだった。
◆
そして本番。
カメラが回り出す。
セットの中、ソファに腰かけた美咲の髪が揺れる。
「……ん、ぁ……んっ……」
凌真が彼女の耳元に唇を寄せ、指先が太ももを撫で上げる。
「緊張してる?」
「少しだけ。……でも、大丈夫」
カメラが切り替わる。
接吻。
美咲が目を閉じ、凌真の唇に吸いつく。
最初は軽く、次第に深く――舌が絡み、湿った音がマイクに拾われる。
「ちゅっ……んっ、ちゅ、く……ふ、ん……んぅっ……」
――やめろ。
心の中で、俺は叫んでいた。
だけど、止められなかった。
止められるはずがない。
俺はマネージャーだ。
彼女が“やる”と決めたこの仕事を、最後まで完走させなければならない。
凌真が彼女のブラを外し、胸元を舐める。
カメラがズームし、汗ばむ肌が艶めかしく照らされる。
背中を撫でながら、美咲は細く喘ぐ。
「んっ……あっ……だめ、そこ……くすぐったい……でも、気持ちいい……」
……その声を、俺は何度も聞いてきた。
収録済みの映像で、編集室で、配信の確認で。
でも、“今”それが目の前で起きていると、
もう、心臓が持たなかった。
凌真がゆっくりと彼女をベッドへ寝かせ、
覆いかぶさる。
そして挿入――。
スタジオの空気が、ぐっと張り詰める。
「んっ……んぁっ……う、くぅっ……!」
美咲が小さく声を上げる。
カメラが角度を変え、彼女の顔の汗、息づかい、指先の動きまで映し出す。
――これは、演技だ。
けれど、演技じゃない瞬間もある。
AVの世界は“演じる快感”と“本物の反応”が混在していて、
観る側にとってはその“曖昧さ”こそが醍醐味だ。
凌真がリズムを速め、彼女の腰を引き寄せ、
ふたたび唇を重ねた。
「ちゅ、ん……んちゅ、んぅっ……好きだよ、如月……」
――台本にはなかった。
だが美咲は、笑って返す。
「……私も。……この瞬間だけは、ね」
そして、カメラが止まる。
◆
撮影後。
控室で、凌真が俺に近づいてきた。
「……悪かったな。“旦那”の前でやるのは、やっぱり慣れねぇよ」
「いや……仕事だからな」
「でも、あいつ、いい顔してたぜ。“母”にも、“女優”にもなってた。……最高の二面性だ」
そう言って、肩を叩いて去っていく。
美咲が戻ってきたのは10分後。
汗を流したあと、いつもの私服姿で。
「……ごめん。見せたくなかったかも。でも、どうしても、見ててほしかった」
「……見てたよ。全部」
俺は、彼女の手を取った。
「帰ろう。お前の帰る場所は、俺と――あの子たちが待ってる家だから」
彼女は、その手を握り返し、優しく微笑んだ。
たとえ何度だって、
彼女がステージに立つなら――
俺はその舞台裏で、支え続ける。
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