◆第3話『“妻”がファンイベントに出る日、俺はマネージャーとして見守るだけ』
「……ほんとに出るのか? このタイミングで、ファンイベントに」
「うん。“如月美咲”として、今まで通りを見せておきたいの。むしろ今が大事だから」
控室の鏡前で軽くリップを塗り直しながら、美咲はいつもの笑顔で言った。
ステージ衣装――白の膝上ワンピースに、控えめなヒール。妊娠しているとは思えない完璧なスタイル。
誰よりも“清楚”を体現しているこの姿は、まさしくファンが憧れる「如月美咲」そのものだった。
でも――。
(本当に……大丈夫なのか?)
彼女の妊娠は、すでに4ヶ月目に入っていた。
お腹のふくらみは、服で見ればまだ隠せる程度。だが、無理をすれば、たちまち体調を崩すタイミングでもある。
けれど、彼女は今日のこの場に立つことを、自ら選んだ。
「“仕事してる美咲”を見せられなくなったら……多分、心が死んじゃうと思う」
彼女はそう言った。
だから俺は、止めることができなかった。
彼女の仕事は、誰かに誇れるものではないかもしれない。
でも、彼女の生き方は、誰よりも堂々としていて、誇り高い。
だから俺は、夫としてではなく、マネージャーとして彼女を見守る。
◆
開場15分前。
列は会場外まで伸びていて、スタッフはてんやわんやだった。
ファンは老若男女、そして異様な熱気を帯びている。
「“如月美咲、生で見られる”だけで一生の思い出っしょ!」
「今日サイン当たったら、マジで一生神棚」
会場スタッフに交じって仕切りをする俺の耳にも、そうした声が漏れ聞こえてくる。
そのたびに、胸がざわつく。
――この中の誰かに、もし妊娠がバレたら?
彼女の目の前で、誰かが急に触れようとしたら?
想像だけで手汗がにじむ。でも、それでも。
「行ってきます。……マネージャーさん」
袖口から、彼女が小さく手を振ってきた。
「“旦那さん”は控えといて。今は私、如月美咲だから」
そう笑って、彼女はステージへ出ていった。
◆
「みなさーん! 今日は来てくれてありがとうー!」
マイク越しの透き通った声が響く。
客席のあちこちから「美咲ちゃーん!」という叫びが飛び、サイリウムが揺れた。
“女優”としての彼女は、本当にプロだった。
どこから見ても、完璧な立ち振る舞い。
アイドル的なファンサに、絶妙な距離感を保ちながら、それでも全員に「自分だけを見てくれている」と思わせる話術。
ステージ上の彼女は、美しくて、強くて、そしてどこか、少しだけ儚かった。
(……そうだ、俺はこの姿に惹かれたんだったな)
まだ彼女と交際すらしていなかった頃。
撮影現場の隅で、そっと汗を拭っていた彼女。
カメラを離れたあとの、その素顔を知っているのは、きっと今では俺だけだ。
◆
イベント後半、抽選で選ばれた10人との“個別サイン&握手会”。
ひとりずつ丁寧に名前を聞いて、言葉を返し、握手をする。
「ずっと応援してます。これからもAV界の女神でいてください!」
「美咲さんの笑顔が、俺の生き甲斐です!」
「……結婚とか考えてないですよね? ずっと俺たちの天使でいてください!」
――その言葉に、彼女はどう応じるのだろうと、内心ヒヤヒヤした。
でも彼女は、さらりと笑って言った。
「ありがとう。私は、変わらないよ。ずっと“如月美咲”として、あなたたちの記憶に残れるように頑張るから」
それは嘘ではないけど、真実でもない。
だけど、今ここで「実は結婚してます」「妊娠してます」と言うのが誠実だとも思わない。
ファンの前では、彼女は“夢”であるべきなのだ。
だから俺は、黙っていた。
彼女の夫であることも、これが“妻が子を身ごもっている身体”だということも。
◆
イベント終了後。
ステージ裏に戻ってきた彼女は、ソファに崩れるように座り込んだ。
「……ちょっとだけ、休ませて……やっぱ、お腹が……」
顔が少し青い。
「やっぱり、無理させすぎた……っ」
慌てて水を渡し、冷却シートを額に貼る。
医療班を呼ぶほどではないが、彼女は確実に限界ギリギリだった。
でも、その手を握ると、彼女は微笑んだ。
「見てた? ……最後まで、“女優”だったでしょ、私」
「ああ。……すごかったよ。マジで、“清楚派No.1”のプロだった」
「ふふ、よかった。……それでこそ、マネージャー兼旦那に褒められる価値があるってもんだね」
この人は、母になっても、女優であり続ける。
その矛盾のなかで、それでも笑って立ち続けることを選んだ彼女の強さに、俺は今日、また惚れ直した。
◆
帰り道。
助手席で寝息を立てる彼女の手を、そっと握る。
そのお腹には、俺たちの子どもがいる。
それは、誰にも知られてはいけない“秘密”だ。
でも――この瞬間だけは、俺だけが知っている。
この美しくて、強くて、危うくて、どこまでも愛おしい“如月美咲”のすべてを。
俺は夫だ。マネージャーだ。
そして、きっとこの人の一番の“理解者”で在り続けたい。
そんな思いを胸に、俺はハンドルを握り直した。
秘密の夫婦生活は、今日もまた、続いていく。
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