第28話:感情の名前【後編】
数多の国を渡り歩き、世界中の食文化に通じているプリメッタ。その卓越した料理の腕前を知るドレイクは、当然その土地ならではの酒にも親しんでいるのだろうと推測していた。
しかし、興味本位で尋ねたドレイクに対し、彼女は意外な反応を返した。
「お酒かぁ。飲んだことないんだよぉ」
「え、そうなんだ」
ドレイクが目を丸くすると、プリメッタは気恥ずかしそうに苦笑いを浮かべ、ポリポリと頬を掻いた。
「飲む機会はいっぱいあったんだけどさ〜。お酒って、飲むと豹変する人がいるでしょ?」
「あー、そういう人もいるよね」
「前に言ってた『ルジーちゃん』がさぁ、いつもは人を食ったような態度のくせに、お酒を飲んだら無言で甘えてくるんだよぉ。ゴロゴロ〜って」
「へぇ〜。なんだか猫みたいだね」
「それそれ! マタタビ食った猫だね、あれは。そんなの見ちゃうと気後れしちゃって。アタイも取材に影響したら困るから、飲まないようにしてきたんだよぉ」
「そっか〜」
その理由にドレイクは素直に納得し、迷うことなく水を手に取った。プリメッタが避けてきたものを、わざわざ勧めるつもりなど毛頭ない。
そうしてすっかり酒への興味を失ったドレイクだったが、対するプリメッタは、どこかソワソワと彼の横顔を窺っている。
「……ドレーくん、飲んでみたいの?」
「ううん、大丈夫だよ。プリ姉が飲んだことあるのか、気になっただけだし」
「んー……」
この時、プリメッタの胸の内で渦巻いていたのは、複雑な感情だった。
先ほどのカティナの件で刺激された対抗心と、何より、目の前の少年と『初めての体験を分かち合いたい』という無意識の独占欲。
彼が皇帝になれば、いずれ貴族たちとの晩餐で酒を口にする機会も増えるだろう。ならばその『初めて』は、ここで自分が経験させておくべきではないか。それにジャーナリストとしても、未知の味を知らずにいるのは不誠実だ。
そんな言い訳を脳内で並べ立て、彼女は意を決したように酒瓶が並ぶ壁棚へと歩み寄った。
「一緒に飲んでみようか」
「え、でも大丈夫なの?」
「まぁ大丈夫でしょ。へ〜、色々あるね……あっ、『光の王冠』じゃん!」
プリメッタが目を輝かせたのは、最上段に鎮座する豪奢なボトルだった。背伸びをして手を伸ばす小柄な彼女の横から、ドレイクの手がスッと伸び、いとも簡単にボトルを抜き取って見せる。
「これ?」
「ありがと。へ〜、あるとこにはあるんだね〜」
「有名なの?」
「幻の酒って言われてるよぉ。これ一本で、家が買えるくらいの価格がついてるらしいね」
「家!?」
想像を絶する価値を聞き、ドレイクが思わずボトルを取り落としそうになる。そんな彼をよそに、プリメッタはどこからか取り出したコルク抜きを迷いなくねじ込み始めた。
「あ、開けちゃっていいの!?」
「ドレーくんはロヴァニアの皇帝(予定)。故に、ガリ公のモノはドレーくんのモノ。そして! ドレーくんのモノは〜、アタイのモノ!!」
とんでもない暴論を言い終わると同時、キュポン、と小気味良い音が室内に響き渡った。
封印から解き放たれた極上の香気が瞬く間に広がり、二人の鼻腔を甘くくすぐる。
「わわ。すごい香り!」
「ほんと。林檎の宝石って感じだね〜」
それはまさに『宝石』と比喩するに相応しい、芳醇で高貴な香りだった。用意された二つのグラスにトクトクと注ぎ入れると、揺らめく琥珀色の液体がより一層の特別感を演出する。
「さすがは幻の酒。まま、とりあえず飲んでみようか。それじゃあカンパーイ!」
「かんぱーい」
澄んだグラスの音色を響かせ、二人は同時に液体を口に含んだ。
芳醇な林檎の香りが口いっぱいに広がり、鼻腔をふわりと抜けていく。
そして──
「ヴォエ!!」
「く、口が……ッ!?」
喉元を焼かれたような強烈な熱と刺激に襲われ、二人は盛大に咽せ返った。
この最高級ブランデーのアルコール度数は55度。酒の味を知らない初心者が飲むには、あまりにも刺激が強すぎた。
当然、高貴な香りを感じる余地も無い。
「まっずーーい! なにこれ!?」
「お酒って、こんな感じなんだ……」
「このブランデー、帝国産じゃないよね?」
「ラベルには、『パラメル連合国のシエロ』って書いてるね」
「えー。あの国の料理美味しいのに、なんでロヴァ味がするのぉ……」
「ろ、ロヴァ味……」
「ぐすっ……せっかく、ドレーくんと飲もうと思ったのに……ひぐっ……」
「え、えっ? プリ姉!?」
涙目で咳き込んでいたドレイクが顔を上げると、そこには信じられない光景があった。
突如として嗚咽を漏らし始めたプリメッタが、おぼつかない足取りでフラフラと歩き、そのままベッドの上へと『ぼふんっ』と倒れ込んだのだ。
「プリ姉! どうしたの!?」
「ぐすっ……あうぅ……えうぅ……」
(えぇぇ!? どどど、どうしよう!?)
いついかなる時も太陽のように明るい無敵の少女が、シーツに顔を埋めて子供のようにシクシクと泣いている。
未知なる異常事態にドレイクの頭は完全にパニックに陥ったが、どうにか彼女を慰めなければという一心で必死に記憶を探った。
(泣いてる女の子がいたら抱きしめてあげる、って『キュンとこ☆』には書いてあったけど……)
恋愛指南書の教えを縋るように思い出し、ドレイクは恐る恐るベッドへと近づく。縁に腰を下ろし、横たわって震える背中を、迷いながらもそっと後ろから抱きしめた。
拒絶されて払いのけられたらどうしよう──そんな不安で心臓が破裂しそうだったが、彼の腕の中にいる少女は、回された腕を自分の両手でキュッと愛おしげに握り返してくれた。
その確かな体温に安堵の息を吐くと同時に、ドレイクは驚いた。
いつもエネルギーに満ち溢れ、自分を力強く導いてくれる彼女の身体は、こんなにも小さかったのか──と。
「プリ姉、何がそんなに悲しいの?」
「ぐす……アタイのせいで……マズいお酒飲ませちゃった……」
「そんな……言い出したのは、ぼくだよ」
「せっかく、二人とも初めてだったのに……」
「美味しくても不味くても、どっちでも構わないよ。プリ姉と一緒に飲めた事が、ぼくにとって最高の『色』だから」
「ドレーくん……」
その温かい言葉に、プリメッタがゆっくりと振り返る。
亜麻色の柔らかな髪の隙間から覗くラベンダー色の瞳は、涙でしっとりと潤み、頬は熱を帯びて艶やかに染まっている。
普段の活発な彼女からは想像もつかない、無防備で甘い色香がそこにあった。
上体を起こしたプリメッタは、トロンとした視線でドレイクを見つめ──
「……眠い」
「え?」
糸の切れた操り人形のように、船を漕ぎ始めるプリメッタ。ドレイクが慌てて肩を支えた時には、すでに彼女のまぶたは半分近く閉じかかっていた。
「ドレーくん……膝枕して〜」
「う、うん。どうぞ」
「ゴロゴロ〜」
「痛くない?」
「いたくない〜」
促されるまま太ももの上に頭を乗せると、プリメッタはさながら甘える猫のように、スリスリと気持ちよさそうに顔を擦り付けた。
くすぐったいような、それでいて胸が締め付けられるような可愛らしさに、ドレイクの口元から自然と安堵の笑みがこぼれる。
(もしかして……じゃなくて、やっぱり酔っ払ってる?)
理由は明白だった。
怪我や病気を感知すると、強烈な眠気に襲われ超回復モードに入るプリメッタの特異体質。アルコールという『毒』を摂取したことで、彼女の肉体は防衛本能を働かせ、全力で微睡みの海へと沈み込もうとしていたのだ。
やがてベストポジションを見つけたのか、少女の動きがピタリと止まる。
ドレイクからは亜麻色の髪に遮られて表情は見えないが、きっと安らかな顔で目を閉じていることだろう。
「ドレーくん……結婚しちゃうの……?」
寝言のように囁かれた、とても小さな質問。
「プリ姉は、どう思う?」
少年ならこう聞いてくることは、少女にも分かっていた。
「それでドレーくんが幸せになれるなら……アタイは祝福するよぉ」
それは、少女の根幹にある偽らざる本心。でも、本当に言いたかった言葉は違う。
「もしアタイが結婚するって言ったら……ドレーくんはどうする?」
こんな質問をして、少年がどう答えるのかも分かっている。
「それでプリ姉が幸せになれるなら、ぼくも祝福するよ」
ほらね。と、少女は薄れゆく意識の中で、静かに微笑んだ。
でも、聞きたかった言葉はそれではない。増していく胸の痛みに、瞼に少しだけ力が入る。
「でも──」
膝枕を通して、少年の鼓動が高まっていくのを感じる。少年もまた、酒の影響を受けたのか、あるいは別の要因か。
その鼓動は、熱に染まりきった少年の顔を想像できるほどに──
「プリ姉が誰かと結婚するのは……なんだかイヤだな」
運命的な出会いを果たし、一日で親友となった『闇に生きた少年』と『光に満ちた少女』。
そんな二人が、互いに特別な感情を抱くようになるのも、また運命だったのかもしれない。
だが、その感情にまだ『名前』はない。
少年が恥ずかしげに囁いた『聞きたかった言葉』を聞き、胸に感じていた痛みが心地よい痛みへと変わっていく。
もはや眠気に抗うことなど、できようはずもなかった。
「アタイも──……」
それだけを言い残し、少女は静かに寝息を立て始めた。
かつて少女が戦いに疲れた少年を見守った、『奴隷と聖女』の図。
それとはまるで逆の構図になったこの光景も、またどこまでも純粋で美しいものだった。
少女が安心して眠れるように、いつまでも見守る少年。
そんな二人の感情に『名前』がつくのも、そう遠くはないのかもしれない──。




