第27話:感情の名前【前編】
騒動の余韻も完全に冷めやり、豪奢な部屋の空気は穏やかな遊戯の時間へと塗り替えられていた。
最終局面を迎えた二人の『ババ抜き』勝負。残る手札はドレイクが二枚、プリメッタが一枚。
そして手番はプリメッタ。彼女が当たり札を引いた瞬間、ドレイクの敗北が確定する。
これまで懸命にポーカーフェイスを装い続けてきたドレイクだったが、幾度となくジョーカーを回避し続けるプリメッタに追い詰められ、ついに一筋の冷汗が頬を伝い落ちる。
対するプリメッタは、勝利を確信したような余裕綽々の笑みを浮かべ、最後の一枚となった手札を優雅にうちわ代わりに振りながら、少年の反応を心ゆくまで堪能していた。
「さぁ〜、どっちを引こうかなぁ〜」
「うぅ……ッ……」
二枚の手札の間をゆっくりと行き来するプリメッタの指先に、ドレイクの視線は磁石のように引き寄せられ、不安げに泳ぎ続ける。
そして、プリメッタの指が片方のカードに触れようとした、まさにその時だった。
「ご、ごめん! ちょっと待って!」
ドレイクが咄嗟に手札を引っ込め、自分自身にもどちらがジョーカーか分からなくなるようシャッフルを始めた。
額に滲んだ冷たい汗を拭い、微かに震える指先を落ち着かせるために、深く長い呼吸を繰り返す。
「すぅ〜……はぁ〜……すぅ〜……はぁ〜……」
「命でも賭けてんの?」
「……」
(……カワイイ。ババ抜きで、こんなに真剣な子っていないんじゃない?)
プリメッタは呆れたようなツッコミを入れながらも、内心では愛おしさに胸をムズムズさせていた。
ただのカードゲームにこれほどの熱量と真剣さを注ぎ込むドレイクの純粋さが、彼女には堪らなく眩しく、そして可愛らしかったのだ。
しばしの静寂。呼吸を整え、意を決したドレイクは、自ら考案した『ある秘策』と共に手札を差し出し、静かに目を見開いた。
その秘策とは、自分の手札を見ないこと。
目の前にいる少女は、些細な感情の揺らぎすら鋭く読み取る。ならば自ら視覚を放棄し、ジョーカーの位置を己の意識から消し去れば、読み取られる感情の動きすら生まれることはない。
このまま勝負を進めれば、勝率は実質ゼロに等しい。だが、呼吸すら封じ込め、すべての情報を完全にシャットダウンすれば、確率は純粋な二分の一へと跳ね上がる。
勝負を天運に委ね、少年は一切の雑念を捨て去った無我の境地へと至った。
しかしその顔は、まるで異国に生息するスナギツネのような、形容しがたい虚無の表情だった。
どこを見つめているのか、何を考えているのかすら全く読み取れないシュールな顔付きに、プリメッタが盛大に吹き出した。
「ぶッッ……あはははは! な、なにその顔!?」
「……」
「あははは! そ、そんな必殺技隠し持ってたなんて! あはは! 卑怯だよ、ドレーくん!!」
「……ッ……ッ……!」
腹を抱えて大爆笑するプリメッタ。その耳元では、決定的瞬間を逃すまいとイヤリングに偽装された小型カメラが、カシャカシャと連続駆動音を響かせる。
一方のドレイクは、完璧な『無』を保とうと意地でも呼吸を止め続けていたが、酸欠と羞恥心で徐々に顔の赤みが増していき、ついに限界を迎えた。
「ぶはぁ!! ぷ、プリ姉! 早く引いてよ!」
「はい、こっちー!」
「あっ……!?」
その一瞬の隙を突き、プリメッタが躊躇なく当たり札を抜き取る。手元に残された忌まわしいジョーカーへと虚ろな視線を落とし、ドレイクはがっくりと肩を落とした。
「くふふ、甘い甘い。どれだけ面白顔をしようと、丸分かりだよぉ」
「そ、そんな……ぼくでも手札は分からないようにしたのに、なんでプリ姉には分かるの!?」
「それはね〜」
ドレイクからジョーカーを受け取り、プリメッタはその場でカードをひっくり返した。
カードの裏面には、芸術品のように繊細な金箔の装飾が施されている。彼女はその模様の一部を指差したが、ドレイクには何を示しているのかすぐには理解できなかった。
「ここ。すこーしだけ傷があるでしょ?」
「え、ほんとに?」
「ほら。ここと、ここと、ここにも。上下左右に一箇所ずつ。アタイ的には、分かりやすくしたつもりなんだけどな〜」
「……あ、ほんとだ! 爪で引っ掻いたような傷がある!」
それは、『言われてみれば』ようやく気付く程度の、極めて微細な引っ掻き傷。
プリメッタはカードをシャッフルするほんの一瞬の隙に、爪を立ててジョーカーの四隅に印を刻み込んでいたのだ。
「ほんと、ロヴァニア人っておバカだよね〜。トランプにこんな装飾したら、イカサマしろって言ってるようなもんじゃん」
「……」
あっけらかんと種明かしをし、印の付いたトランプにもう価値はないとばかりに、プリメッタはジョーカーをヒラリと遊戯台の上に放り投げた。
その事実を聞かされたドレイクは、ぷるぷると小刻みに身体を震わせ始める。
それは、イカサマで敗北したことへの屈辱ではない。信じていた相手に騙されたことへの怒りでもない。
一瞬の隙を突いて極小の細工を施し、それを最後まで悟らせることなく完遂してみせた彼女の神業に対する、純粋な感嘆と尊敬の念だった。
「すごいなぁ。ぼく、全然気付かなかったよ」
「勝つためなら何でもする、って人は多いからね。ドレーくんも、アタイが相手だからって油断しちゃダメだよぉ」
「うん。この後の、試合もそうだよね」
プリメッタが、単なる悪戯心だけでイカサマを仕掛けたわけではないことを、ドレイクは理解していた。
これもまた、これからの戦いを生き抜くための教訓なのだ──と。
少年の口元には柔らかな笑みが浮かんでいたが、その瞳の奥は確かな決意で引き締まっていた。
「ドレーくんは、殺気を感じて戦うことに慣れてるけど、絶対に『自分の目』を疎かにしちゃいけないよぉ。肉眼でしか見破れない攻撃をしてくる人だっているんだからね」
「うん。胸に留めておくよ」
それは、戦いに限った話ではない。だが、それを伝えずとも、この少年は全てを理解し、教訓として胸に刻んでいる。
そんな頼もしき相方に、プリメッタも満面の笑みを返すのであった。
「それにしても、ぶふっ……あはは! あのドレーくんの顔ときたら、あはははは!」
「そ、そんなに変だった?」
「変だよぉ。あ〜、涙出てきちゃった。笑い過ぎで喉乾いちゃったよぉ」
「あ、何か飲み物持ってくるね!」
感極まったように涙を拭い、再び笑いのツボに入るプリメッタ。そんな彼女を気遣い、ドレイクは軽やかな足取りで壁際に備え付けられた豪奢な戸棚へと向かった。
ずらりと並ぶ年代物の酒瓶の隣に、密閉容器に入った澄んだ水を見つける。その容器とグラスに手を伸ばそうとした瞬間、ドレイクの脳裏に『ある疑問』がふと蘇った。
グラスに伸びかけていた手を止め、くるりと踵を返してプリメッタの方へ振り返る。
そして、少年らしい無垢な瞳を瞬かせながら、唐突に問いかけた。
「ねぇ、プリ姉。お酒って飲んだことある?」




