〈春れ磁石〉第六章・雨宿り (2006年夏)
「ばってん、それは『ばってん』の使い方が違うとよ」
「えー! だって『しかし』って意味やろ?」
「意味は合っとる。けど、文の頭に毎回つけたら、ただの口癖たい」
「……今のは本物っぽい」
「本物やけん」
六月の終わりの土曜日。表参道の真新しいビルの前で、水緒と涼は並んで信号を待っていた。
空はどんよりと曇り、今にも降り出しそうだった。それでも通りは、休日の若者たちであふれている。二月にできたばかりの商業ビルの、ガラスの壁面に、灰色の雲が映り込んでいた。
「水緒さん、ここ来たかったんでしょう」
「テレビで見たけん。……でも、来てみたら、なんか、場違いかも」
「どうして」
「みんな、おしゃれやもん」
水緒は、自分の服を見下ろした。甲府のデパートで、天野に付き合ってもらって選んだ水色のワンピース。それなりに頑張ったつもりだったが、通りを歩く東京の女の子たちと並ぶと、どこか垢抜けない気がした。
「似合ってますよ」
涼が、前を向いたまま言った。
「……え?」
「その服。似合ってます。今日、駅で見たとき、ちょっとびっくりしました」
「び、びっくりって、どういう意味」
「いい意味です」
涼は眼鏡を押し上げた。耳が少し赤かった。
四月の夜、止まった特急の中で出会ってから、二か月が経っていた。メールは毎日のように交わした。最初は博多弁の「授業」という名目だったが、いつの間にか、その日の仕事のことや、食べたもののことや、何でもない天気の話になっていた。
東京で会おう、と言い出したのは、水緒のほうだった。研修のついで、という言い訳を用意していたが、今日は研修などなかった。
「お腹すいた?」
「すいた」
「何か食べたいもの、ありますか」
「……もんじゃ」
「もんじゃ?」
「食べたことないけん。東京っぽいやろ」
「表参道まで来て、もんじゃ」
涼は吹き出した。
「いいですよ。月島、行きましょう。地下鉄で二十分くらいです」
「ほんとに? ここのおしゃれなカフェとか、やなくていいと?」
「水緒さんが食べたいものが、いちばんいいです」
信号が青に変わった。二人が歩き出したとき、ぽつり、と大粒の雨が水緒の頬に落ちた。
「あ」
次の瞬間、空が抜けたような雨が降り出した。通りの人々が悲鳴を上げて、一斉に軒下へ走る。
「こっち!」
涼が水緒の手首をつかんで、近くのビルの軒先へ駆け込んだ。狭い軒の下に、二人は肩を寄せ合って立った。
「……びしょびしょやん」
「すみません、傘、持ってくればよかった」
「天気予報、降らんって言うとったもん」
「東京の天気予報は、当てにならないんです」
「山梨のも、当てにならんよ」
二人は顔を見合わせて笑った。涼の眼鏡に雨粒がついて、レンズが曇っていた。
「眼鏡、見えとる?」
「あんまり」
「貸して」
水緒は涼の眼鏡を取り、ハンカチでレンズを拭いた。眼鏡を外した涼の顔は、思っていたよりずっと幼かった。
「……涼くん、眼鏡ないと、高校生みたい」
「よく言われます」
「はい」
眼鏡を返すとき、指先が触れた。二人とも、少しだけ手を止めた。
雨は、なかなかやまなかった。軒先から落ちる雨だれが、二人の足もとで小さな川になって流れていく。
「水緒さん」
「ん」
「どうして、博多弁だったんですか。ドラマを見てっていうのは聞きましたけど」
「……なんで、そんなこと訊くと」
「十年も続けるのは、何か理由があるのかなと思って」
水緒はしばらく黙っていた。雨の音だけが聞こえていた。
「お兄ちゃんがね、東京の大学に行ったのが、あたしが中学のとき。それから、ほとんど帰ってこんかった」
「……」
「家は、お母さんと二人。お父さんは、その前にいなくなっとったけん。都留の町はちっちゃくて、みんなうちの事情を知っとって。なんか、息が詰まりそうで」
水緒は雨の向こうの通りを見ていた。
「そんなとき、テレビで見たと。福岡の、海の近くの町の話。主人公の女の子が、すっごい強い言葉でしゃべっとって。その子がしゃべると、どんな悲しいことも、なんか大丈夫な気がして」
「……」
「だから、あたしも真似した。どこか遠くの町の子になったつもりで。そしたら、ちょっとだけ、強くなれた気がしたと」
言い終えて、水緒は急に恥ずかしくなった。
「……ごめん、なんか暗い話して」
「いいえ」
涼は少し考えてから、言った。
「久留米弁で、こういうとき、なんて言うか知ってますか」
「なんて言うと?」
「『よう頑張ったね』」
「……標準語やん」
「そうなんです。標準語と同じなんです」涼は笑った。「でも、言う人が違うと、違って聞こえるでしょう」
水緒は涼の顔を見た。涼は、眼鏡の奥で、まっすぐ水緒を見ていた。
「よう頑張ったね、水緒さん」
雨だれが、軒先から絶え間なく落ちていた。水緒は何か言おうとして、言葉が出てこなかった。喉の奥が熱くなって、慌てて通りのほうへ顔をそむけた。
「……雨、やまんね」
「やみませんね」
「もんじゃ、遠いね」
「遠いですね」
「……でも、ここも、悪くないね」
「はい」
二人は肩を寄せ合ったまま、雨がやむのを待った。誰も、急ごうとはしなかった。
◇
月島の路地は、雨上がりの湿った匂いがした。
「……これ、どうやって食べると?」
「僕も、初めてなんです」
「えっ、りょうくん東京に八年もおるのに?」
「東京の人って、案外もんじゃ食べないんですよ」
鉄板の上で、キャベツと具材が土手のように囲まれている。その真ん中に、店の人が流し込んだ汁が、ぐつぐつと泡を立てていた。
「で、この土手を崩して、混ぜる……」
「りょうくん、崩しすぎ! 汁が逃げよる!」
「あっ、あっ」
鉄板の上を、茶色い汁が四方八方へ流れ出した。涼が慌ててへらで押さえようとして、かえって土手を全部崩してしまった。
「……大惨事やん」
「すみません、不器用で」
「信玄餅のときも、そう言いよった」
「そうでした」
見かねた店のおばさんが、笑いながらへらを取り上げ、あっという間に形を整えてくれた。
「お兄さん、彼女の前でかっこつけようとしたら駄目よ。もんじゃは、かっこつけると失敗するの」
「か、彼女じゃ……」
「あら、違うの?」
涼と水緒は、同時に黙った。おばさんは「あらあら」と笑いながら、奥へ引っ込んでいった。
二人は、しばらく無言で、小さなへらでもんじゃをすくって食べた。焦げたところが、香ばしかった。
「……美味しい」
「美味しいですね」
「見た目、すごいけど」
「見た目、すごいですけど」
水緒は、へらを置いて、窓の外を見た。路地の向こうに、新しい高層マンションが雨上がりの空に伸びていた。
「りょうくん。次、いつ会える?」
言ってしまってから、水緒は耳まで赤くなった。
「……七月は、ちょっと忙しくて。八月なら」
「八月か」
「すみません」
「謝らんでいいよ。……八月、待っとる」
「はい」
涼は、少しだけ迷ってから、言った。
「水緒さん。さっきの、『彼女』の件ですけど」
「……うん」
「ちゃんと、自分で言いたいので。今度、ちゃんと言います」
水緒は、へらを持ったまま固まった。
「……それ、もう言いよるのと同じやない?」
「違います。今日のは、予告です」
「予告って」
水緒は笑い出した。笑いながら、鉄板の湯気の向こうで、涼の顔がずっと赤いのを見ていた。
◇
「水緒。今日、どこ行ってた」
その夜、十一時過ぎ。都留の家の玄関を開けると、京次が上がり框に座って靴を磨いていた。
「……東京」
「研修か」
「うん、まあ」
「土曜日に?」
「……」
京次は靴を磨く手を止めずに言った。
「ワンピース、濡れてるぞ」
「雨やったけん」
「東京は雨だったのか。こっちは晴れてた」
「お兄ちゃん、刑事?」
「いや」
京次はブラシを置き、妹の顔を見上げた。
「楽しかったか」
水緒は、少し驚いて兄を見た。それから、ぷいと顔をそむけた。
「……べつに」
「そうか」
「……楽しかった」
「そうか」
京次は、それ以上何も訊かなかった。靴を棚に戻し、立ち上がって、水緒の頭を軽く叩いた。
「風呂、沸いてる。風邪ひくなよ」
「お兄ちゃん」
「ん」
「……誰と行ったか、訊かんと?」
「お前が言いたくなったら、言え」
京次は廊下の奥へ消えていった。水緒は玄関に立ったまま、兄の背中を見送った。
ずるい、と思った。自分はいつも、何も言わないくせに。
それでも、少しだけ、嬉しかった。
◇
同じ六月の日曜日。禾生の小林トメの家の裏で、トンカチの音が響いていた。
「社長、そこの柱、もうちょい右っす」
「わかってる。源さん、そっち押さえてくれ」
「おうよ」
焼け落ちた納屋の跡に、新しい柱が四本立っていた。達也と若い衆が二人、それに源さん。日曜日の朝から、手弁当で集まっていた。
「……誰も頼んでないよ」
縁側で、トメが湯呑みを抱えながら言った。
「頼まれてねえから、勝手にやってんだよ」
「材料代は」
「余りもんだ。現場で余った木材」
「嘘おっしゃい。新品じゃないか」
「……見る目があるな、ばあちゃん」
トメは鼻を鳴らした。それでも、昼になると、大きな握り飯を山ほど作って、縁側に並べてくれた。
「消防の話、聞いたか」
握り飯を頬張りながら、源さんが小声で言った。
「ああ。原因不明だとさ。漏電の跡もない、火の気もない。けど、放火と断定できるもんも出なかった」
「そういうのを、昔は狐火って言ったもんだ」
「狐が火ぃつけるかよ」
「狐より、人間のほうがよっぽど火をつける」
源さんは、縁側のトメのほうをちらりと見た。
「タツ。お前、西英の仕事しながら、ばあちゃんの納屋を建ててる。どっちつかずってのは、いちばん危ねえぞ」
「わかってるよ」
「わかってねえから言ってんだ」
源さんは握り飯の最後のひと口を飲み込み、立ち上がった。
「ま、俺は好きだけどな。お前の親父も、そういう男だった」
夕方、納屋の骨組みが立ち上がった。屋根はまだなかったが、四本の柱と梁が、夕焼けの空を四角く切り取っていた。
「……亭主が建てた納屋より、柱が太いね」
トメが、ぽつりと言った。
「当たり前だ。燃えにくいように、太くしたんだ」
「ふん」
トメは、焦げた鍬の柄を、新しい柱の一本に立てかけた。それから、何も言わずに母屋へ入っていった。
達也は、その後ろ姿を見送った。胸の奥が、少しだけ軽くなった気がした。同じくらい、少しだけ重くなった気もした。
◇
七月の朝。西英本社の社長応接室には、白い木槿が活けられていた。
「十月に、結納なの」
瑞穂は花入れの向きを直しながら言った。去年から何度も聞いた言葉だった。けれど、今日の声は少し違っていた。
「日にちが、決まったの。十月の、二十一日」
「……そうですか」
「鷹司家の方が、富士吉田にいらっしゃるの。父は、うちの料亭を全部貸し切りにするって」
「盛大ですね」
「ええ。盛大なの」
瑞穂は魔法瓶から麦茶を注ぎ、京次に差し出した。京次は受け取った。冷たかった。
「京次さん」
「はい」
「結納の日も、朝、お花を替えに来ていい?」
「……どうして、俺に訊くんですか」
「掃除の邪魔になるかもしれないから」
「邪魔にはなりません」
「そう。よかった」
瑞穂は微笑んだ。その笑顔は、去年の今頃より、少しだけ痩せたように見えた。
「瑞穂さん」
「なに?」
「……痩せましたか」
瑞穂は目を丸くした。それから、困ったように笑った。
「京次さんって、ときどき、急に鋭いことを言うのね」
「すみません」
「謝らないで。……少しだけ。母が、結納までに着物の寸法を合わせるって言うから」
「無理は、しないでください」
「無理なんかしてないわ」
「そうですか」
「そう」
二人は黙った。窓の外で、夏の朝の蝉が鳴き始めていた。
「京次さん」
「はい」
「八月の湖上祭、行く? 河口湖の花火」
「……どうでしょう」
「タツ兄が、みんなで行こうって。子どもたちも連れて」
「達也が言うなら、行きます」
「わたしが言っても、行かないの?」
「……行きます」
「最初からそう言えばいいのに」
瑞穂は笑った。今度は、去年と同じ笑顔だった。
◇
八月五日。河口湖の湖畔は、浴衣姿の見物客で埋め尽くされていた。
「美咲、陽菜、手ぇ離すなよ! 翔太、お前もだ!」
「お父さん、うるさい!」
「うるさくて結構!」
達也が子どもたちを追い回し、恵子がその後ろで笑っていた。水緒はかき氷を三つも抱えて、人混みをかき分けてくる。
「タツ兄、宇治金時でよかった?」
「おう、さすが水緒。わかってるな」
「お兄ちゃんはレモン。瑞穂ちゃんはいちご」
「なんで俺がレモンなんだ」
「なんとなく、お兄ちゃんっぽいけん」
「どういう意味だ」
「すっぱい顔しとるやん、いつも」
瑞穂が吹き出し、達也が腹を抱えて笑った。京次は黙ってレモンのかき氷を受け取り、一口食べて、本当にすっぱい顔をした。
午後八時。湖の上に、最初の花火が上がった。
どおん、と腹に響く音がして、夜空に大きな金色の輪が開いた。湖面に光が映り込み、空と水の両方で、花火が咲いた。
「わあ……」
陽菜が、達也の肩の上で声を上げた。
次々と花火が上がる。赤、緑、金、銀。湖を囲む山々に、音がこだまして返ってくる。
京次は、少し離れたところで、湖を見ていた。隣に、いつの間にか瑞穂が立っていた。
「きれいね」
「ええ」
「去年は、八朔で、今年は湖上祭。来年は、どこに行けるかしら」
「……」
「再来年の春には、わたし、東京にいるわ」
京次は花火を見上げたまま、何も言わなかった。
「慎吾さんのお家の近くに、新しい家を建てるんですって。父が、そう決めたの」
「……そうですか」
「また、そう言う」
瑞穂は笑おうとして、うまく笑えなかったようだった。
夜空に、ひときわ大きな白い花火が上がった。一瞬、湖畔がまるで昼間のように明るくなった。その光の中で、京次は瑞穂の横顔を見た。
瑞穂は、泣いていなかった。泣いていなかったが、泣くよりも、ずっと苦しそうな顔をしていた。
「瑞穂さん」
「なに」
「……来年も、ここに来ればいい」
「え?」
「東京からでも、来られます。高速バスで、二時間です」
瑞穂は京次の顔を見た。花火の光が、二人の顔を赤や緑に染めては消えていく。
「……京次さんも、来る?」
「来ます」
「本当に?」
「本当です」
瑞穂は小さく息を吸い、それから、そっと京次の腕に自分の手を添えた。浴衣の袖越しに、指先の温かさが伝わってきた。
「約束よ」
「……はい」
少し離れたところで、水緒がかき氷のスプーンをくわえたまま、二人の後ろ姿を見ていた。それから、黙って視線を花火に戻した。携帯電話が、浴衣の袂の中で震えた。
《そっちの花火、どう? こっちは隅田川、もう終わっちゃった。来年は一緒に見よう。涼》
水緒は、画面を胸に押し当てた。
最後の花火が上がり、湖面に金色の光が降り注いだ。四人は、それぞれの場所で、同じ光を見上げていた。
◇
花火のあと、駐車場へ向かう人の波の中で、達也は堀内の姿を見かけた。
湖畔のホテルの車寄せ。黒い高級車の後部座席に、堀内が誰かを乗せようとしていた。後ろ姿しか見えなかったが、背筋のまっすぐな若い男だった。地味なグレーのスーツ。夏祭りの夜には、場違いな格好だった。
男が車に乗り込む直前、ほんの一瞬だけ、こちらを振り向いた。
静かな目だった。静かで、底が見えなかった。
車が走り去ったあとも、達也はしばらくその場に立っていた。
「タツ兄? どうしたと」
「……いや。なんでもねえ」
達也は首を振り、子どもたちのほうへ歩き出した。
あの男を、どこかで見た気がした。テレビか、新聞か。思い出せなかった。




