〈春れ磁石〉第七章・サハリン (2006年秋)
プロペラ機の窓の下に、灰色の海が広がっていた。
九月の終わり。新千歳空港を飛び立って一時間あまり。座席の振動が背骨に響くたびに、志村達也は肘掛けを握りしめた。飛行機に乗るのは、新婚旅行で沖縄に行って以来、二度目だった。
「お客さま、まもなくユジノサハリンスクに到着いたします」
日本語とロシア語のアナウンスが、交互に流れた。
窓の外に、陸地が見えてきた。なだらかな丘。針葉樹の森。その間に、灰色の四角い建物が肩を寄せ合う町。日本からほんの少し北へ飛んだだけなのに、まるで違う国の色をしていた。
いや、違う国なのだ。達也は自分に言い聞かせた。
空港の小さな建物を出ると、冷たい風が頬を打った。九月だというのに、都留の十一月くらいの寒さだった。
「タツヤ!」
駐車場の向こうから、熊のような男が両腕を広げて走ってきた。
身長は百九十センチ近く。短く刈り込んだ金髪に、灰色の目。黒い革のジャケットの前を開け、首に太い金の鎖を下げている。四年あまり、ファクスと電話でしかやりとりしたことのなかった男が、そこにいた。
「ニコライ……か?」
「ダー! ニコライ!」
次の瞬間、達也はニコライの腕の中に抱きすくめられていた。肋骨がきしむ音がした。
「く、苦しい、ニコライ、苦しい!」
「タツヤ、ちいさい! こえは、おおきいのに!」
「お前がでかすぎるんだよ!」
ニコライは豪快に笑い、達也の背中をばんばんと叩いた。その後ろに、黒いランドクルーザーが二台停まっていた。運転席と助手席に、同じような革ジャケットの男たちが座って、無表情にこちらを見ている。
「あれは」
「ともだち」ニコライは片目をつぶった。「ニコライ、ともだち、おおい」
ランドクルーザーの後部座席に乗り込むと、車は右ハンドルだった。ダッシュボードには、日本語のカーナビがついたままになっている。画面には「目的地が設定されていません」と表示されていた。
「この車、日本から来たのか」
「そう。にほんのくるま、さいこう。こわれない」
町の通りを走ると、達也は目を疑った。走っている車の半分以上が、日本車だった。それも、車体に日本の会社名が書かれたままのトラックや、幼稚園の名前が入ったままのマイクロバスまである。
「すげえな……」
「サハリン、にほんのふるいもの、ぜんぶ、くる。くるま、ショベル、クレーン。にほんで、いらなくなったもの、ここで、もういちど、いきる」
「もう一度、生きる、か」
「そう。タツヤのショベルも、いきてる。いま、みせる」
ニコライの会社の資材置き場は、町はずれの広い空き地にあった。錆びたフェンスの向こうに、見覚えのある黄色い車体が何台も並んでいる。去年送った油圧ショベル。今年の春に送った二台。どれも泥にまみれ、どれも元気に動いていた。
「エンジン、こえ、きいて」
ニコライが合図をすると、作業員の男がショベルのエンジンをかけた。低く、力強い音が、冷たい空気を震わせた。
達也は目を閉じて、その音を聞いた。都留の作業場で、夜中まで油まみれになって手を入れたエンジンだった。
「……いい音だ」
「タツヤ、てんさい。ニコライ、いつもいう」
「いつも言ってるのは、ウォッカの話だろ」
「それも、ほんとう」
ニコライは笑い、達也の肩に腕を回した。
「こんや、バーニャ。ロシアのサウナ。それから、ウォッカ。それから、またバーニャ」
「死ぬぞ、それ」
「しなない。ロシア人、しなない」
「俺は日本人だ」
「こんやから、ロシア人」
◇
ニコライの家は、町を見下ろす丘の上にあった。
丸太造りの大きな家。裏庭に、小さな木造の小屋がある。それがバーニャだった。中に入ると、熱した石から立ち上る蒸気で、息をするのも苦しいほどだった。
「これ、たたく」
ニコライが、白樺の枝を束ねたものを差し出した。
「叩く? 何を」
「タツヤを」
「待て待て待て」
「からだに、いい!」
ばしん、ばしん、と白樺の束が背中を打った。熱いのか痛いのか、わからなかった。それから二人で裏庭に飛び出し、井戸の冷たい水を頭からかぶった。達也は悲鳴を上げ、ニコライは腹を抱えて笑った。
夜。暖炉の前のテーブルには、黒パンと、塩漬けのニシンと、ゆでたじゃがいもと、透明な液体の入った瓶が並んでいた。
「ザ・ドルージュブ!」
「……なんだ、それ」
「ともだちに、かんぱい」
「ザ・ドルージュブ」
グラスを合わせ、一息に飲み干した。喉が焼けるようだった。ニコライがすぐに二杯目を注ぐ。
「お前、毎晩こんなの飲んでるのか」
「まいばん、ではない。きょうは、とくべつ」
ニコライは自分のグラスを置き、少しだけ真面目な顔になった。
「タツヤ。でんわで、こえ、げんきなかった。なつから、ずっと」
「……そうか」
「なにか、こまってる」
達也は暖炉の火を見た。薪が、ぱちりと音を立てて崩れた。
「仕事のことだよ。日本の、大きな会社の仕事をもらってる。そこの人間に、ちょっとな」
「ちょっと?」
「……金のことだ。見積を、二つ作れって言われてる。本当の値段と、高い値段。高い分は、どこかに消える」
ニコライは黙って聞いていた。
「断ったら、仕事がなくなる。仕事がなくなったら、若い連中を食わせられない。子どもも三人いる。おふくろもいる」
「わかる」
「わかるか」
「ロシアも、おなじ。もっと、ひどい」
ニコライはグラスを回した。それから、ジャケットの内ポケットから、何かを取り出してテーブルの上に置いた。
黒い、鉄の塊だった。
達也は、それが何かを理解するまで、少し時間がかかった。拳銃だった。
「……おい」
「こわがらない。ニコライ、タツヤ、うたない」
「当たり前だ!」
「サハリン、こういうところ。しごと、すると、てき、できる。てき、くると、これ、いる」
ニコライは拳銃を撫でた。灰色の目が、暖炉の火を映して静かに光っていた。
「タツヤ、これ、もってない。にほん、これ、いらない。いいくに」
「……ああ」
「でも、てき、どこにでも、いる。にほんにも」
ニコライは拳銃をしまい、代わりに一枚の名刺を取り出した。表にはキリル文字の社名。裏に、手書きの電話番号が書いてあった。
「これ、ニコライのばんごう。かいしゃじゃない。ニコライ、だけ」
「……」
「タツヤ、もし、ほんとうに、こまったら。だれか、タツヤのかぞく、いじめたら。この、ばんごう」
「お前、何するつもりだ」
「なにも、しない」ニコライは笑った。「ただ、ともだちに、あいにいく」
達也は名刺を受け取った。紙は少し湿っていた。
「ニコライ。俺は、お前に何もしてやれねえぞ」
「もう、してくれた」
「何を」
「ショベル。いい、エンジン。それと――」
ニコライはグラスにウォッカを注ぎ、達也の前に押しやった。
「ニコライのこと、こわがらなかった。にほんのひと、みんな、ニコライ、こわがる。タツヤだけ、こわがらなかった。でんわで、さいしょに、『おまえ、ねろよ』って、いった」
「……そんなこと言ったか」
「いった。ニコライ、わすれない」
達也は笑った。笑いながら、目の奥が熱くなった。ウォッカのせいだと思うことにした。
「ザ・ドルージュブ」
「ザ・ドルージュブ」
その夜、二人は瓶を二本空けた。達也は途中から記憶がなかった。翌朝、目を覚ますと、ニコライの家の居間のソファの上で、熊の毛皮をかけられていた。
ポケットの中の財布には、あの名刺が、ちゃんと入っていた。
◇
十月九日。体育の日。
都留の志村家の居間で、子どもたちがテレビの前に群がっていた。
「マトリョーシカ、まだ出てくる!」
「すげえ、七個目!」
「陽菜のがいちばんちっちゃい!」
サハリン土産の人形を、子どもたちは何度も開けたり閉めたりしていた。達也は炬燵で茶をすすりながら、それを眺めていた。
「ねえ、あんた」恵子が、台所から顔を出した。「サハリン、どうだったの。結局、ちゃんと聞いてない」
「ああ……寒かった。それと、ウォッカがすごかった」
「それだけ?」
「ニコライが、いいやつだった」
「ふうん」恵子は少し笑った。「あんた、帰ってきてから、ちょっと顔が明るくなったよ」
「そうか?」
「そう。夏の間、ずっと暗かったから」
達也は茶碗を置いた。
「恵子」
「なに」
家族には、嘘をつかない。ニコライの言葉が、また耳の奥で鳴った。
「……いや。今度、話す。ちゃんと」
「何を?」
「仕事のことだ。今は、まだうまく言えねえ」
恵子はしばらく達也を見ていた。それから、黙って頷いた。
「待ってる」
そのとき、テレビの画面が切り替わった。子ども向けのアニメが途切れ、白い背景に赤い文字が映し出された。
《ニュース速報 北朝鮮が地下核実験を実施と発表》
居間が、しんと静まり返った。
「お父さん、かくじっけんって、なに?」
美咲が振り返った。達也は、何と答えていいかわからなかった。
「……悪いことだよ。すごく、悪いこと」
画面では、アナウンサーが緊張した顔で原稿を読み上げていた。続いて映ったのは、国会の廊下だった。記者たちに囲まれた与党の議員たち。その中に、山梨選出の木下議員の姿があった。
そして、議員の斜め後ろに、地味なグレーのスーツを着た若い男が立っていた。
達也は茶碗を持つ手を止めた。
河口湖の、あの夜の男だった。
テレビの中の若い男は、周りの騒ぎにまったく動じていなかった。カメラのフラッシュが焚かれるたびに、他の議員たちが険しい顔をする中で、その男だけが、まるで天気予報でも聞いているような顔をしていた。
画面の下に、小さな字幕が出た。
《木下議員秘書 木下想苑氏》
「……木下の、倅か」
達也は呟いた。あの夜、堀内が車に乗せていたのは、国会議員の息子だった。
◇
同じ時刻。富士吉田の西條邸でも、居間のテレビが同じ映像を映していた。
瑞穂は、ソファの端に座ってそれを見ていた。膝の上には、十二日後の結納のために仕立てた振袖の、最後の寸法合わせの書き付けが載っている。
画面の中の想苑は、静かな顔をしていた。
――幼い頃、祖父に連れられて一度だけ見た、どこか遠い国の港町のことです。灰色の海と、灰色の空と、灰色の船。
去年の秋に受け取った手紙の一節が、頭の中によみがえった。
灰色の海。
瑞穂は、テレビの中の想苑の顔を、じっと見つめていた。あの静かな目は、今、何を見ているのだろう。
「瑞穂」
父の声がした。英明が、居間の入口に立っていた。
「テレビを消しなさい」
「……どうして」
「結納の前に、物騒なものを見るものじゃない」
英明はリモコンを取り、テレビを消した。黒くなった画面に、瑞穂と父の姿が映り込んだ。
「お父さま。木下さんの息子さんとは、お付き合いがあるの?」
「仕事の付き合いだ」
「どんな仕事?」
「お前が知る必要はない」
英明は書斎のほうへ歩き去った。
瑞穂は、黒い画面に映った自分の顔を見ていた。父は、何かを知っている。父はいつも、何かを知っている。そして、何も言わない。
京次さんと、同じだ。
ふと、そう思った。
◇
十月二十日。結納の前夜。
西條邸の奥の座敷で、瑞穂は母の静江に髪を梳いてもらっていた。
「瑞穂の髪は、お祖母さまに似たのね。細くて、まっすぐで」
「お母さまは、くせ毛だものね」
「そう。若い頃は、それが嫌で嫌で」
鏡の中で、母が笑った。物静かな人だった。父の隣で、いつも半歩下がって微笑んでいる人。瑞穂は、母が声を荒らげるのを一度も聞いたことがなかった。
「明日は、早いわよ。美容院、何時だったかしら」
「……七時」
本当は、四時だった。母は知らない。
「眠れそう?」
「わからない」
「そうよね。わたしも、結納の前の晩は、一睡もできなかった」
母の手が、ゆっくりと髪を梳き続けた。櫛の歯が、髪を通る音だけが、座敷に響いていた。
「お母さま」
「なあに」
「お母さまは、お父さまと結婚するとき、嬉しかった?」
櫛の手が、ほんの一瞬だけ止まった。それから、また動き出した。
「……嬉しかったわ。立派な人だと思ったもの」
「好きだった?」
「瑞穂」
「ごめんなさい。変なこと訊いた」
母は、しばらく黙って髪を梳いていた。それから、鏡の中の瑞穂に向かって、静かに言った。
「好きな人は、ほかにいたわ」
瑞穂は、鏡の中の母を見つめた。
「お父さまと出会う、ずっと前。東京の学生だった頃に、毎日のように会っていた人。……でもね、その人は、ある日、船に乗って、遠い国へ行ってしまったの」
「遠い国?」
「ええ。灰色の海の向こうだって、その人は言っていたわ。それきり、手紙も来なかった」
母は、櫛を置いた。そして、瑞穂の髪を両手でそっと包んだ。
「瑞穂。いなくなる人もいるし、いなくならない人もいる。どちらを選ぶかは、自分では決められないこともあるの」
「……」
「でも、どちらの人を思い出しながら生きるかは、自分で決められる」
母は微笑んだ。鏡の中の母の目が、少しだけ赤かった。
「さあ、もう寝なさい。明日は、きれいなお嫁さんの、最初の日よ」
瑞穂は、その夜、母の言葉を何度も思い返した。
毎日のように会っていた人。船に乗って、灰色の海の向こうへ行った人。
灰色の海。去年の秋に受け取った、想苑の手紙と同じ言葉だった。
母は、その人の名前を言わなかった。
◇
十月二十一日。結納の朝。
午前五時四十五分。西英本社の社長応接室の扉を開けると、京次は足を止めた。
瑞穂が、そこにいた。
振袖姿だった。淡い桜色の地に、金と銀で松と鶴が描かれている。髪は美容院で結い上げたばかりのようで、うなじに一筋の後れ毛もなかった。
「……おはようございます」
「おはよう、京次さん」
瑞穂は花入れの前に膝をつき、白い菊を一本ずつ挿していた。振袖の袖が床に広がって、まるで大きな花のようだった。
「結納の日に、ここに来ていいかって、訊いたでしょう」
「……はい」
「来ちゃった」
瑞穂は、少しだけいたずらっぽく笑った。
「美容院、四時に開けてもらったの。それから、運転手さんに無理を言って」
「お父さんには」
「言ってない。七時までに帰れば、誰も気づかないわ」
京次は、扉の前に立ったまま動けなかった。
瑞穂は最後の一本を挿し終えると、立ち上がった。振袖の裾を整え、京次のほうへ向き直った。
「京次さん」
「はい」
「今日のわたし、どう?」
京次は、何も言えなかった。
「白いですね、は駄目よ。桜色なんだから」
「……」
「ねえ」
瑞穂は、まっすぐに京次を見ていた。逃げ場のない目だった。
「……きれいです」
声が、自分のものではないようにかすれていた。
「とても、きれいです」
瑞穂の目が、ゆっくりと潤んだ。それでも、涙は落ちなかった。落とさないように、必死でこらえているのがわかった。
「……ありがとう」
「……」
「それが、聞きたかったの。一度だけ」
瑞穂は、京次の前を通り過ぎて、扉に手をかけた。振袖の袖が、京次の手の甲をかすめた。
「京次さん。湖上祭の約束、覚えてる?」
「……はい」
「来年も、来てね」
「行きます」
「わたしが、鷹司瑞穂になっても?」
京次は答えなかった。答えられなかった。
瑞穂は振り返らずに、廊下へ出ていった。草履の音が、絨毯に吸い込まれて消えていった。
応接室には、白い菊と、京次だけが残された。
京次は、自分の手の甲を見た。振袖の袖がかすめたところが、まだ熱かった。
◇
結納は、富士吉田でいちばん古い料亭で、滞りなく執り行われた。
鷹司家からは、慎吾と両親、それに仲人の銀行の役員夫妻。西條家からは、英明と妻と、瑞穂。目録が読み上げられ、結納品が並べられ、杯が交わされた。
「瑞穂さん、本当におきれいだ」
慎吾は、何度もそう言った。感じのいい笑顔で、心からそう思っているように見えた。
「ありがとうございます」
瑞穂は、何度もそう答えた。微笑みは、一度も崩れなかった。
宴が終わりに近づいた頃、仲居が盆に載せた電報を運んできた。祝電は何通も届いていたが、仲居はその一通だけを、特別に瑞穂に手渡した。
「こちらは、お嬢さまに直接、と」
白い台紙に、金色の水引。差出人は、木下想苑だった。
《ご婚約、心よりお祝い申し上げます。
結び目というものは、固く結ぶほど、ほどくときに美しい形が現れる――亡き祖母が、よくそう申しておりました。
末永いお幸せをお祈りいたします。》
瑞穂は、その電文を二度読んだ。
お祝いの言葉のはずだった。けれど、どこか、違う言葉に聞こえた。
「誰からですか」
隣で慎吾が覗き込んだ。
「木下さんの、息子さん」
「ああ、想苑さん。律儀な人だな」慎吾は笑った。「結び目をほどく、か。結納の日に、ちょっと縁起でもないな」
「そうね」
「まあ、あの人なりの冗談でしょう」
瑞穂は電報を台紙ごと閉じた。
その夜、日記には、こう書いた。
《二〇〇六年十月二十一日(土) 晴れ
結納。
わたしは今日、一度だけ、聞きたかった言葉を聞いた。
それで、十分だと思うことにする。
思うことに、する。》
◇
同じ夜。志村工務店の二階の板の間で、達也と京次は炬燵に向かい合っていた。
水緒はいなかった。瑞穂も、もちろんいなかった。二人だけで飲むのは、京次が都留に帰ってきてから初めてだった。
「ほらよ」
達也が、京次の湯呑みに焼酎を注いだ。お湯は入れなかった。
「……濃いな」
「今夜は、濃くていいんだよ」
二人は、黙って飲んだ。窓の外で、秋の虫が鳴いていた。
「結納、無事に済んだってよ。堀内さんが言ってた。盛大だったって」
「そうか」
「お嬢、きれいだったんだろうな」
京次は、湯呑みを口もとで止めた。
「……ああ」
「見たのか」
「朝、少しだけ」
「そうか」
達也はそれ以上訊かなかった。京次も、それ以上言わなかった。
焼酎の瓶が半分になった頃、達也がぽつりと言った。
「京次。お前、ガキの頃から、欲しいもんを欲しいって言ったこと、一回もねえな」
「……そうか」
「そうだよ。柿だって、俺が言わなきゃ、お前は木に登らなかった」
「登ったのは、お前が下で見張りをするって言ったからだ」
「そうだったか」
「そうだ」
達也は、少しだけ笑った。それから、真顔になった。
「欲しいもんは、欲しいって言わねえと、誰かが持ってっちまうぞ」
「……」
「俺は、それで後悔したことがある。だから言ってんだ」
京次は、湯呑みの中の焼酎を見つめた。透明な液体の底に、炬燵の明かりが揺れていた。
「達也」
「ん」
「……ありがとう」
「礼を言われるようなことは、何も言ってねえよ」
達也は自分の湯呑みを空け、また注いだ。
その夜、二人は瓶を一本空けた。京次は、達也の家の板の間で、炬燵に足を突っ込んだまま眠った。達也は、その上に毛布を一枚かけてやった。
眠っている京次の左手が、炬燵布団の上に投げ出されていた。袖口から、銀色の時計がのぞいていた。
達也は、しばらくそれを見ていた。
それから、黙って明かりを消した。




