〈春れ磁石〉第五章・博多弁 (2006年春)
「西原さん。これ、全部まとめておいて」
三月の半ば。経理部長の小俣が、水緒の机に段ボール箱をどさりと置いた。
中には、分厚いファイルが十冊近く詰まっていた。背表紙には、どれも手書きで「禾生」「小形山」「田野倉」と地名が書かれている。去年の春から西英が買い進めてきた土地の、契約書や委任状や印鑑証明の写しだった。
「まとめるって、どういうふうにですか」
「名義人ごとに一覧にして、取得日と金額と、支払いの記録を突き合わせる。来月、監査が入るから」
「監査……」
「普通の決算監査だよ。形式を整えておけばいい」
小俣はそれだけ言って、自分の席に戻っていった。
水緒は一冊目のファイルを開いた。売買契約書。重要事項説明書。委任状。印鑑証明。ひとつの土地に、何枚もの紙が綴じ込まれている。
午前中いっぱいかけて、水緒は名義人の名前を表計算ソフトに打ち込んでいった。三十二人。去年の四月、自分が起票した手付金の三人の名前も、その中にあった。
昼過ぎ、水緒は手を止めた。
「……あれ」
「どしたの」と隣の天野。
「いや、ちょっと」
水緒は三冊のファイルを並べて開いた。別々の土地の、別々の名義人の委任状。署名の欄に書かれた三つの名前は、どれも違う。
けれど、字が同じだった。
「田」の右上の払い方。「子」の最後の跳ね。三人の、まったく違う名前が、まるで同じ人間の手で書かれたように、同じ癖を持っていた。
「天野さん、これ、同じ字に見えません?」
「どれ……うーん、言われてみれば? でも、委任状なんて代筆も多いし」
「代筆やったら、代筆って書くやないですか」
「そうだけどさあ」
水緒はさらにファイルをめくった。別の名義人の住民票の写し。住所は、都留市田野倉。番地を地図で確かめると、そこは何年も前から空き地になっているはずの場所だった。
もうひとり。生年月日の欄に、明治四十一年と書いてある。
「……九十八歳」
「なにが?」
「この人。九十八歳で、土地を売って、委任状書いとる」
「元気なおじいちゃんじゃん」
「天野さん!」
「ごめんごめん」天野は肩をすくめ、それから声を落とした。「ねえ西原さん。そういうの、あんまり深く見ないほうがいいよ」
「なんで」
「なんでって……ほら、うちの会社、そういう会社だから」
天野は笑ったが、目は笑っていなかった。
「堀内さん、去年の暮れにクラウン買ったんだって。新車で。課長の給料で、クラウンだよ」
「……」
「わたしたちは、数字を合わせればいいの。合わない数字は、合わないって報告すればいい。合わない理由までは、わたしたちの仕事じゃない」
天野は自分の席に戻り、何事もなかったように電卓を叩き始めた。
水緒はしばらく、三枚の委任状を見つめていた。それから、表計算ソフトの備考欄に、小さく打ち込んだ。
《筆跡同一?》
保存ボタンを押す前に、水緒は少し迷った。そして、その一文を消した。
代わりに、自分の手帳の、いちばん後ろのページに書き写した。
◇
三月の終わり。午前五時五十分。
社長応接室の花入れには、早咲きの辛夷が三本、白い花をほころばせていた。
「一年ね」
瑞穂が言った。
「何がですか」
「京次さんと、ここで会ってから。去年の四月だったでしょう」
「まだ、ひと月ありますよ」
「細かいのね、相変わらず」
瑞穂は笑いながら、魔法瓶から湯気の立つほうじ茶を注いだ。春とはいえ、富士吉田の朝はまだ冷える。京次は少し迷ってから、いつものようにそれを受け取った。
「……うまい」
「でしょう」
「お手伝いさんの、ですか」
「今日のは、わたしが淹れたの」
京次は湯呑みを見下ろした。それから、もう一口飲んだ。
「……うまい」
「さっきと同じじゃない」
「同じくらい、うまいってことです」
瑞穂は吹き出した。誰もいない七階に、笑い声が響いた。
「ねえ、京次さん。あの石ね」
「はい」
「二つになったの」
「……」
「子どもの頃の石と、クリスマスの石。机の引き出しに、並べてあるの。どっちが小さいときの石か、もうわからないくらい似てるのよ」
「河原の石は、みんな似てますから」
「似てないわ。わたしには、わかるもの」
瑞穂は花入れの辛夷に手を伸ばし、少しだけ向きを直した。
「十月にね、結納が決まったの」
京次は湯呑みを持ったまま、黙っていた。
「父が、日取りを決めたの。慎吾さんのお父さまと」
「……そうですか」
「そうですか、ね」
瑞穂は花から目を離さなかった。
「京次さん。クリスマスの夜、何か言おうとしたでしょう」
「……」
「慎吾さんの話をしたとき。口を開いて、閉じた」
「寒かったので」
「嘘」
瑞穂は振り返った。朝日を背にして、その顔は少し影になっていた。
「言えないことなら、言わなくていいの。でも、言えないことがあるってことだけは、わかってる。それだけ、覚えておいて」
京次は湯呑みを返した。指先が、ほんの一瞬だけ触れ合った。
「……瑞穂」
名前が、口からこぼれた。
瑞穂の目が、大きく見開かれた。
京次は自分の口を押さえたいような顔をして、それから、目をそらした。
「……さん。失礼しました」
「今」
「掃除に戻ります」
「京次さん、今――」
京次はワゴンを押して、応接室を出ていった。扉が閉まる直前、瑞穂の小さな笑い声が聞こえた気がした。
廊下を歩きながら、京次は耳の後ろが燃えるように熱いのを感じていた。
◇
四月の第一金曜日。
新宿駅の中央線ホームには、帰りの特急を待つ人の列ができていた。
「……あー、疲れた」
水緒は、紙袋を提げた手で肩を叩いた。一日がかりの研修だった。五月から施行される新しい会社法に、経理部門はどう対応すべきか。大学の先生と、大手監査法人の公認会計士が、交代で話し続けた。半分くらいは、よくわからなかった。
紙袋の中には、研修の資料と、デパ地下で買った信玄餅と、母に頼まれた漢方薬が入っている。
「十八時三十分発、特急かいじ、甲府行き……」
水緒は切符を確かめ、指定席の車両に乗り込んだ。窓側の席。隣は、まだ空いていた。
研修のテキストを開いてみたが、三行で眠くなった。窓の外では、東京の夜景が流れ始めていた。
「すみません、そこ、いいですか」
顔を上げると、スーツ姿の若い男が、通路側の席を指さしていた。
「あ、はい、どうぞ」
男は頭を下げて、隣に座った。水緒より少し年下だろうか。背はそれほど高くない。少し癖のある髪に、細い黒縁の眼鏡。くたびれたビジネスバッグを膝に抱え、ネクタイを少しだけ緩めた。
特急が八王子を過ぎ、高尾を過ぎ、山あいに入ったあたりで、水緒はうとうとし始めた。
がくん、と車体が揺れた。
目を開けると、列車は真っ暗な山の中で止まっていた。窓の外で、木々が激しく揺れている。
『お客さまにお知らせいたします。ただいま、上野原―四方津間で強風のため、運転を見合わせております。運転再開の見込みは、立っておりません』
車内に、ため息が広がった。
「……ちかっぱ最悪っちゃけど」
思わず、口から漏れた。
隣の男が、ぴくりと肩を動かした。それから、ゆっくりとこちらを向いた。
「……それ、どこの博多弁ですか」
「え?」
「いや、すみません」男は、笑いをこらえるような顔をしていた。「『ちかっぱ』はまあいいんですけど、『最悪っちゃけど』は、ちょっと……文法が」
「……あの、もしかして」
「久留米です。福岡の」
水緒は、顔から火が出るかと思った。
「ほ、本物……」
「本物です。すみません」
「謝られると、余計恥ずかしいっちゃけど!」
「あ、今の『っちゃけど』は、わりと合ってます」
「合っとると?」
「『合っとると』も、合ってます」
水緒は両手で顔を覆った。男は、とうとう声を立てて笑い出した。周りの乗客が何人か振り返ったが、男は笑いを止められないようだった。
「ご、ごめんなさい。山梨の方ですよね? どうして博多弁を」
「……ドラマです。高校のとき、福岡の俳優さんが出とったドラマにはまって。それから、ずっと」
「ずっと?」
「十年くらい」
「十年!」
男はまた笑った。それから、目尻の涙を指で拭いながら言った。
「いや、でも、すごいですよ。十年も、行ったこともない町の言葉を使い続けてるなんて」
「……行ったことないって、なんでわかると」
「行ったことある人は、『ちかっぱ最悪っちゃけど』とは言わないので」
「もう!」
水緒は男の腕を軽く叩いた。叩いてから、初対面の人を叩いてしまったことに気づいて、慌てて手を引っ込めた。男は気にした様子もなく、まだ笑っていた。
窓の外では、風がうなりを上げていた。列車は、少しも動く気配がなかった。
「柏木です。柏木涼」
男が、思い出したように言った。
「あ、西原です。西原水緒」
「みおさん」
「水に、糸偏の緒。……変わった名前やろ」
「いい名前ですよ。川の始まりみたいで」
「川の?」
「水の緒、って。水の流れの、いちばん最初の糸」
水緒は少し驚いて、涼の顔を見た。そんなふうに言われたのは、初めてだった。
「……柏木さん、詩人?」
「ただの営業です」
「何の営業?」
「不動産です。東京の会社で。今日は、甲府の物件を見に行くところで」
「えっ」水緒は思わず身を乗り出した。「あたしも、不動産の会社。経理やけど」
「本当ですか。どこの?」
「……山梨の、地元の会社」
「そうなんですか」
涼はそれ以上訊かなかった。水緒も、涼の会社の名前を訊かなかった。どちらも、なんとなく、仕事の話はしたくなかった。
三十分経っても、一時間経っても、列車は動かなかった。
「お腹すいた……」
「僕もです。車内販売も来ないし」
水緒は少し迷ってから、紙袋の中から信玄餅の包みを取り出した。
「……食べる? お母さんのお土産やけど、ひとつくらいなら」
「いいんですか」
「いいよ。山梨の名物。食べ方、わかる?」
「わかりません」
「じゃあ教えちゃる」
水緒は風呂敷のような包みを広げ、小さな容器のふたを開けた。
「黒蜜をね、ここにかけて。きな粉がこぼれんように、そーっと」
「こぼれました」
「早っ!」
「すみません、不器用で」
「スーツ、きな粉だらけやん!」
涼の膝の上は、きな粉で黄色くなっていた。水緒は笑いながらティッシュを差し出した。涼も笑いながら、それを受け取った。
それから二時間、二人は話し続けた。
涼は、久留米の小さな町で育った。父は早くに亡くなり、母がひとりで三人の子どもを育てた。高校を出てすぐ、東京に出た。最初は住宅展示場の案内係で、そこから営業に拾われた。今でも、毎月少しずつ、実家に仕送りをしている。
「大学、行けなかったんです。弟と妹がいたから」
「……あたしも。高校から、そのまま就職」
「そうなんですか」
「お兄ちゃんは、いい大学行ったけど。うちも、お金なかったけん」
「お兄さんは、何を?」
水緒は少しだけ黙った。
「……今は、地元におる。いろいろあって」
「そうですか」
涼は、それ以上は訊かなかった。水緒は、そのことが少し嬉しかった。
「でも、簿記は一級まで取ったよ」
「一級! すごいじゃないですか」
「すごくないよ。大学出た人は、もっとすごい」
「すごいですよ」涼は真面目な顔で言った。「誰かに言われて取ったんじゃないでしょう。自分で取ったんでしょう。それが、いちばんすごいんです」
水緒は何も言えなかった。窓ガラスに映った自分の顔が、少しだけ赤くなっていた。
午後十時過ぎ、ようやく列車が動き出した。
『大変長らくお待たせいたしました――』
車内に、拍手のようなため息が広がった。
「あ、動いた」
「動きましたね」
二人は顔を見合わせて笑った。笑ってから、少しだけ、黙った。
大月が近づいていた。水緒は、ここで富士急に乗り換える。涼は、甲府まで行く。
「……あの」
「はい」
「博多弁、ちゃんと教えてもらえんかな。本物の」
言ってしまってから、水緒は自分の大胆さに驚いた。
涼は少しの間、ぽかんとしていた。それから、慌てたようにスーツのポケットから携帯電話を取り出した。
「赤外線、送れますか」
「送れる!」
二人は携帯電話の頭をくっつけ合わせた。画面に「受信中」の文字が出て、ぴろん、と小さな音が鳴った。
「……来た」
「来ました」
『まもなく、大月です』
水緒は立ち上がり、紙袋を抱えた。
「じゃあ、また」
「はい。また」
「柏木さん、スーツのきな粉、ちゃんと払ってね」
「はい」
「それから」
「はい」
「……今日、電車止まって、よかった」
涼は目を丸くし、それから、少年のような顔で笑った。
「僕もです」
ホームに降りると、春の夜風がまだ強く吹いていた。発車していく特急の窓の向こうで、涼が小さく手を振っていた。水緒は、列車が見えなくなるまで、その場に立っていた。
◇
同じ夜。都留の禾生では、もうひとつの風が吹いていた。
「火事だ! トメばあちゃんとこの納屋だ!」
午前零時過ぎ。近所の男の叫び声で飛び起きた達也は、作業着を引っかけて軽トラックに飛び乗った。
田んぼの向こうで、オレンジ色の炎が夜空を舐めていた。強風に煽られて、火の粉が四方に飛び散っている。
「トメばあちゃん!」
母屋の前に、トメが寝間着姿で立ち尽くしていた。達也は駆け寄り、自分の上着を肩にかけた。
「怪我は!」
「……ないよ。わしは、なんともない」
「よかった……」
消防車のサイレンが近づいてきた。近所の男たちが、バケツリレーで母屋の壁に水をかけている。納屋は、もう手のつけようがなかった。
「納屋には、何が入ってたんだ」
「亭主の、農具だよ」トメは燃え上がる炎を見つめたまま言った。「戦地から帰って、西條の先代さまにもらった鍬も、あった」
達也は何も言えなかった。
火が消し止められたのは、二時過ぎだった。焼け落ちた納屋の残骸から、白い煙がまだ細く立ち昇っている。消防の男が、懐中電灯で焼け跡を照らしながら首をひねっていた。
「火の気のないところなんですがねえ。漏電かな。それとも……」
「それとも?」
「いや。調べてみないと、なんとも」
達也の携帯電話が鳴ったのは、明け方の四時だった。
『志村さん、聞きましたよ。小林さんのところ、火事だったそうですね』
堀内だった。こんな時間に、もう知っている。
『いやあ、物騒ですねえ。おばあさん、お一人でしょう。あんな古い家に、ひとりで住まわせておくのは、危ないですよねえ。ご親族も、心配されてるんじゃないかなあ』
「……堀内さん」
『はい?』
「火事のこと、誰から聞いたんですか」
電話の向こうで、ほんの一瞬、間があった。
『町の噂ですよ。噂は、早いですからね。じゃあ、朝早くにすみませんでした』
電話が切れた。
達也は、焼け跡の前に立ち尽くしていた。東の空が、少しずつ白み始めている。煙の匂いが、喉の奥にこびりついていた。
トメは母屋の縁側に座り、膝の上で何かを握りしめていた。焼け跡から拾い出した、鍬の柄の、黒く焦げた切れ端だった。
◇
午前一時。西原家の二階の、水緒の部屋。
布団に入ってからも、水緒は眠れなかった。枕もとに置いた携帯電話を、何度も開いては閉じた。アドレス帳の「か」の欄に、新しい名前がひとつ増えている。
柏木涼。
メールを送ろうか。でも、何て書けばいい。今日はありがとう。きな粉、取れた? 博多弁、いつ教えてくれる?
どれも、子どもっぽい気がした。
水緒は携帯電話を閉じ、枕の下に押し込んだ。それから、スカートのポケットから移しておいた古いお守りを、手のひらに載せた。赤い錦の布が、すっかり色褪せている。
お兄ちゃん。あたしにも、何かいいこと、あったかもしれん。
そのとき、枕の下で、携帯電話が震えた。
水緒は飛び起きて、携帯電話を開いた。
《柏木です。無事に着きましたか?
スーツのきな粉は、ホテルでなんとか払いました。信玄餅、ごちそうさまでした。
博多弁の件、本当に教えます。最初の授業です。
「今日はほんなこつ楽しかった。また会いたかばい」
……これは例文です。
でも、例文じゃないです。》
水緒は、画面を三回読んだ。
それから、布団の上で膝を抱えて、声を殺して笑った。笑いながら、なぜか少しだけ泣きそうになった。
お守りと携帯電話を両手で握りしめたまま、水緒は返信の文面を考え始めた。正しい博多弁で書くべきか、いつものエセ博多弁で書くべきか。
窓の外では、春の嵐がようやく収まろうとしていた。
◇
その春、四人のうちの誰も、気づいていなかった。
達也は、焼け跡の匂いを。
水緒は、手帳の最後のページに書き写した、四文字の疑問を。
瑞穂は、二つ並んだ白い石を。
京次は、二台目の携帯電話を。
それぞれが、それぞれの手の中に、小さな何かを握りしめていた。そして、その小さな何かが、目に見えない力でひとつの場所へと引き寄せられ始めていることに、まだ誰も気づいていなかった。
桂川の向こう、山の中腹を、リニア実験線の白い高架が貫いている。
その下では、春の土が、静かに熱を帯び始めていた。




