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〈春れ磁石〉第四章・東京 (2005年冬)

 八王子の大学病院の待合室は、十二月の朝から人で埋まっていた。

「京次。あんた、仕事は」

「休みを取った」

「掃除の人が、休みなんか取れるのかい」

「取れるよ。半年、一日も休まなかったんだから」

 母の好子は、膝の上で毛糸の帽子をいじりながら、小さく笑った。六十を少し過ぎた母の手は、京次が東京に出た頃よりずいぶん細くなっていた。

「ごめんねえ。わざわざ、東京まで付き添わせて」

「八王子は東京のはじっこだ」

「同じことだよ」

 電光掲示板の番号が、ひとつ進んだ。母の番号は、まだずっと先だった。

「水緒は、昼過ぎに車で迎えに来るって」

「あの子も忙しいのに」

「俺が頼んだんだ。午後、ちょっと用事がある」

「用事?」

「昔の知り合いに会う」

「そう」

 母はそれ以上訊かなかった。昔から、そういう人だった。父が事業に失敗して飯能を出たときも、都留に来てからも、母はほとんど何も訊かず、何も言わずに、ただ家族の飯を作り続けた。

「京次」

「ん」

「瑞穂ちゃん、元気かい」

 京次は待合室の天井を見上げた。

「……元気だよ。週に二回、会社に花を活けに来てる」

「まあ。あの子は昔から、花が好きだったからねえ」母は目を細めた。「覚えてるかい。あんたが中学生のとき、あの子がまだこーんなちっちゃくて、あんたの後ばっかりついて回って」

「覚えてない」

「嘘おっしゃい。河原で石を拾って、泣かせて、あんたが一生懸命探して」

「……なんで、みんなその話を知ってるんだ」

「あの子が自慢して回ってたからだよ。『京ちゃんがくれた』って」

 京次は黙って、膝の上で組んだ手を見つめた。

 母の指が、京次の左手に触れた。手の甲から手首にかけて走る、古い傷跡。白く盛り上がった皮膚を、母の細い指がそっとなぞった。

「まだ、痛むかい」

「もう痛くない」

「そう」

 母はしばらく傷を撫でていた。それから、ぽつりと言った。

「あの日のことは、もう忘れなさい」

「……」

「お前は、何も悪くないんだから」

 京次は答えなかった。電光掲示板の番号が、またひとつ進んだ。

◇

「西原好子さんのご家族の方ですね」

 午後二時。会計の窓口で、水緒は財布を握りしめたまま、事務の女性の顔を見返した。

「はい、娘です。お会計を」

「本日の分は、もうお済みになっています」

「……え?」

「こちらの先生の診療費は、年内の分まで、すでにお預かりしておりますので」

「お預かりって、誰からですか」

 事務の女性は手元の画面をのぞき込み、少しだけ首をかしげた。

「ご家族の方からと伺っていますが……お兄さまでは?」

「兄は、そんなこと一言も」

「そうですか。でしたら、こちらではちょっと」

 女性は申し訳なさそうに笑い、次の番号を呼んだ。

 水緒は窓口の前に立ち尽くした。待合室の長椅子では、母が毛糸の帽子をかぶって、のんびりと水緒を待っている。

「水緒、どうしたの」

「……ううん。もう払ってあるって」

「京次が払ったのかねえ」

「お兄ちゃん、そんなお金、あるわけないやん」

 口に出してから、水緒は自分の言葉にひやりとした。そうだ。清掃員の給料で、大学病院の専門医の診療費を、年内の分まで前払いできるはずがない。

「お母さん。この先生、誰の紹介で来たと?」

「京次が見つけてきてくれたんだよ。いいお医者さんがいるって」

「ふうん……」

 駐車場へ向かう廊下を、母の歩調に合わせてゆっくり歩きながら、水緒はずっと考えていた。

 お兄ちゃん、東京で、何しとったと。

 何しとると、今。

 訊いたら、兄はまた黙ってしまう。それがわかっているから、水緒は訊けない。訊けないまま、数字だけが頭の中に積み上がっていく。

 会計のレシートを、水緒は捨てずに財布の奥にしまった。経理の癖だった。

◇

 午後六時。赤坂。

 大通りから一本入った坂道の途中に、看板も出ていない料亭がある。黒塀の木戸をくぐると、打ち水をした石畳が、奥の玄関まで続いていた。

「お待ちでございます」

 和服の仲居が、音もなく先に立った。廊下をいくつか折れ、いちばん奥の座敷の前で膝をつく。

「お連れさまが、お見えです」

「通しなさい」

 襖の向こうから、低い声がした。

 座敷は、十畳ほどの広さだった。床の間に掛け軸。その前に、男がひとり座っている。部屋の明かりは落としてあり、男の背後の障子だけが、庭の灯籠の光をぼんやりと透かしていた。逆光の中で、男の顔は影になって見えなかった。

「座りなさい。寒かっただろう」

「失礼します」

 京次は座布団に正座した。卓の上には、湯気の立つ茶と、小さな菓子が置かれていた。

「お母さんの具合は、どうだね」

「変わりません」

「そうか。いい医者をつけてある。心配しなくていい」

「ありがとうございます」

「礼はいらない」

 男の手が、湯呑みに伸びた。影の中から、手首だけが灯籠の光の中に出てくる。年を重ねた、しかし手入れの行き届いた手。白いシャツの袖口に、小さなカフスボタンが光っていた。

「半年、よくやってくれた」

 京次は鞄から、薄い手帳の写しを取り出して卓に置いた。七階の屑籠から拾ったもの。専務室の灰皿の吸い殻の数。開発部の人間が会った相手。経理に回った手付金の日付と金額。西條邸の、深夜の来客。

 男は手帳を手に取り、一枚ずつゆっくりとめくった。紙をめくる音だけが、座敷に響いた。

「……西條は、焦っているな」

「焦っている、ですか」

「焦っていない人間は、夜中に裏口から客を入れない」

 男は手帳を閉じた。

「下請けの業者の名前は、まだわからないか。西裏で、開発部の男と会っていたという」

「調べています」

「そうか」

 男は茶を一口飲んだ。それから、何でもないことのように言った。

「都留に、志村という工務店があるそうだね」

 京次の背中を、冷たいものが走った。

「……」

「君の友人だそうだね。子どもの頃からの」

「……はい」

「いい腕の職人だと聞いている。料理もうまいとか」

 男の声は、少しも変わらなかった。穏やかで、温かかった。

「京次君。私はね、君の友人をどうこうするつもりはない。安心しなさい」

「……はい」

「ただ、ひとつだけ覚えておいてほしい。金の流れの途中にいる人間は、いつか必ず、どちらかを選ばなければならなくなる。流れの上流か、下流か」

「……」

「君の友人が、正しいほうを選べるといいね」

 京次は膝の上で、左手を強く握った。傷跡が、白く浮き上がった。

「それから」男は少し間を置いた。「西條の娘とは、親しいのか」

「……幼なじみです」

「そうか」

「何か、問題が」

「いや」男は湯呑みを置いた。「情は、仕事の邪魔になる。だが、情のない人間に、人は口を開かない。難しいところだね」

 男は卓の下から、白い封筒を取り出して京次の前に滑らせた。

「年末だ。お母さんに、何かうまいものでも」

「これは、受け取れません」

「受け取りなさい。君の給料だ。清掃会社の給料だけでは、お母さんの薬代も出ないだろう」

 京次はしばらく封筒を見ていた。それから、頭を下げて、それを鞄にしまった。

「京次君」

「はい」

「十九の夏のことを、覚えているかね」

「……忘れたことはありません」

「私もだ」

 逆光の中で、男が微笑んだような気がした。顔は、最後まで見えなかった。

「来年は、少し忙しくなる。体に気をつけなさい」

◇

 料亭を出ると、赤坂の坂道に冷たい風が吹き下ろしていた。

 京次はコートの襟を立て、地下鉄の駅とは反対の方向へ歩き出した。どこへ行くあてもなかった。ただ、まっすぐ都留に帰る気になれなかった。

 君の友人が、正しいほうを選べるといいね。

 あの声が、頭の中で何度も繰り返されていた。

 気がつくと、銀座の路地にいた。古いビルの地下へ続く、狭い階段。突き当たりの重い木の扉を押すと、カウンターだけの小さなバーが、昔と同じ暗さでそこにあった。

「いらっしゃいませ。……おや」

 白髪のバーテンダーが、グラスを拭く手を止めた。

「西原さん。お久しぶりです」

「ご無沙汰しています」

「一年ぶり……いや、もう少しになりますか。今日は、スーツじゃないんですね」

「ええ。もう、着ていないんです」

 バーテンダーは何も訊かず、京次の前にコースターを置いた。

「いつもので」

「はい」

 出てきたのは、氷をひとつだけ入れたウイスキーだった。京次はそれを一口飲み、長く息を吐いた。

 店の奥には、壁際に二人掛けのソファ席がひとつだけある。カウンターから少し死角になったその席で、男と女が身を寄せ合っていた。

 京次は、何気なくその席に目をやった。そして、グラスを持つ手を止めた。

 男は、鷹司慎吾だった。

 四月に一度、本社の廊下ですれ違ったきりだ。けれど、あの背の高さと、誰に対しても向けるあの感じのいい笑顔は、見間違えようがなかった。

 慎吾の隣には、三十前後の女がいた。短く切りそろえた髪に、黒いタートルネック。化粧は薄く、目もとが鋭い。慎吾は女の耳もとで何かを囁き、女は小さく笑って、慎吾の手の甲に自分の手を重ねた。

 慣れた手つきだった。

「……あの方」

 京次が小声で言うと、バーテンダーはグラスを拭きながら、同じくらい小さな声で答えた。

「鷹司さんですか。よくいらっしゃいますよ。いつも、あの方と」

「いつも」

「ええ。もう、二年……三年になるかな」

 京次は黙ってウイスキーを飲んだ。

 慎吾がふと顔を上げ、カウンターのほうを見た。京次と、一瞬だけ目が合った。慎吾は、京次が誰だかわからないようだった。軽く会釈をして、また女のほうに向き直った。

 京次はグラスを置いた。

 瑞穂の顔が浮かんだ。帯締めを選んだと、嬉しそうに話していた顔。来年の秋、と言ったときの、少しだけ曇った顔。

 言うべきだ、と思った。

 けれど、何と言えばいいのか。俺は銀座のバーで、あなたの婚約者が別の女と会っているのを見た。――なぜ、清掃員のお前が、銀座のバーにいたのか。そう訊かれたら、何と答えればいいのか。

「お勘定を」

「もう、お帰りですか」

「ええ。また、来ます」

「お待ちしています。……西原さん」

「はい」

「何があったかは存じませんが、お顔の色が、前よりずっといい」

 京次は少し驚いて、バーテンダーを見た。白髪の男は、穏やかに微笑んでいた。

「山の空気が、合っているんでしょう」

 階段を上がると、銀座の夜空に、ビルの間から細い月が見えた。京次はコートのポケットに手を入れた。指先に、硬く丸いものが触れた。

 昼間、病院の帰りに、浅川の河原で拾った石だった。白くて、丸くて、何の変哲もない石。どうして拾ったのか、自分でもよくわからなかった。

◇

「志村さん、今年も一年、ご苦労さまでした!」

 十二月二十日。富士吉田のホテルの宴会場で、西英グループの協力会の忘年会が開かれていた。

 壇上では、西條英明がマイクを握っていた。

「――来年は、皆さんもご承知のとおり、この地域にとって大きな転機の年になるかもしれません。リニア中央新幹線。国の計画は、まだ何も決まっておりません。しかし、決まってから動いたのでは遅い。西英は、この地域の未来のために、一歩先を歩きます。皆さんにも、ぜひその一歩を、ともに踏み出していただきたい」

 拍手が起こった。達也も、周りに合わせて手を叩いた。

 乾杯のあと、テーブルを回ってきた堀内が、達也の隣に腰を下ろした。

「志村さん、今年はほんとに助かりました」

「いえ」

「これ、少ないですけど。年末ですから」

 テーブルの下で、厚い封筒が達也の膝に押しつけられた。

「……堀内さん、これは」

「餅代ですよ、餅代。お子さんたちに、お年玉でもあげてください」

「受け取れません」

「受け取ってもらわないと、私が困るんです」

 堀内の笑顔は、いつもと同じだった。達也は封筒を握ったまま、動けなかった。

「志村さん」

 背後から声がした。振り向くと、西條英明が立っていた。

「しゃ、社長」

 達也は慌てて立ち上がった。封筒が膝から滑り落ちそうになり、とっさに上着のポケットにねじ込んだ。

「いつも、いい仕事をしてもらっていると聞いています。禾生の造成も、予定より早いそうですね」

「いえ、そんな」

「お父上にも、昔はずいぶん世話になりました」

 英明は手を差し出した。達也はその手を握った。冷たく、乾いた手だった。

「これからも、よろしく頼みます」

「……はい」

 英明はそれだけ言って、次のテーブルへ移っていった。

 達也は椅子に座り直した。ポケットの中の封筒が、やけに重かった。

 社長は、知っているのだろうか。

 この封筒のことを。二通の見積のことを。

 それとも、知らないふりをしているだけなのか。

 隣で堀内が、何事もなかったようにビールを注いでいた。

◇

 十二月二十四日。都留の西原家に、思いがけない客が来た。

「ごめんください」

 玄関を開けた水緒が、目を丸くした。

「瑞穂ちゃん! どしたん?」

「お母さまのお見舞い。ケーキ、焼いてみたの。……失敗したかもしれないけど」

 瑞穂は白い箱を両手で持って、少し恥ずかしそうに笑っていた。紺のコートに、赤いマフラー。頬が寒さで赤くなっている。

「お母さーん! 瑞穂ちゃん来たよ!」

「まあまあ、瑞穂ちゃん!」

 奥の部屋から、好子が嬉しそうな声を上げた。

 西原家の居間は、六畳ひと間に炬燵がひとつ置いてあるだけの、小さな部屋だった。瑞穂がそこに座ると、部屋が急に明るくなったように見えた。

「おばさま、お加減はいかがですか」

「ありがとうねえ。瑞穂ちゃんの顔見たら、すっかりよくなっちゃった」

「お母さん、昨日まで『腰が痛い』言うとったやん」

「水緒は黙ってなさい」

 ケーキの箱を開けると、少しだけ傾いたいちごのショートケーキが出てきた。生クリームの絞りが、ところどころ不揃いだった。

「……ごめんなさい。やっぱり、ちょっと失敗」

「何言うとると! めっちゃ美味しそう!」

「ほんとにねえ。瑞穂ちゃんが作ってくれたなんて、もったいなくて食べられないよ」

「食べてください、おばさま」

 そのとき、玄関の戸が開く音がした。

「ただいま」

 京次だった。作業着の上に古いジャンパーを羽織り、手にはスーパーの袋を提げている。居間をのぞき込んで、そこに瑞穂がいるのを見て、京次は動きを止めた。

「……どうして」

「お見舞い。ケーキ焼いたの」

「お兄ちゃん、遅い! もう食べるとこやったよ」

「京次、早く座りなさい。ほら、瑞穂ちゃんの隣」

 炬燵の空いている場所は、瑞穂の隣だけだった。京次は少し迷ってから、そこに座った。

 好子が、包丁でケーキを切り分けながら、楽しそうに話し始めた。

「瑞穂ちゃん、覚えてる? あんたが五つか六つの頃、うちの京次が河原で石を拾ってあげたこと」

「お母さん、その話は」

「覚えてます。わたし、まだ持ってるんです、その石」

「まあ! 京次、聞いた?」

「……聞いた」

「この子ったらね、あのあと何日も、河原に通ってたんだよ。もっときれいな石を探すんだって」

「お母さん」

「瑞穂ちゃんが東京の学校に行っちゃったあとなんか、しばらく元気がなくてねえ」

「お母さん!」

 京次の声が大きくなり、水緒が吹き出した。瑞穂は口もとを押さえて、肩を震わせていた。好子だけが、何がおかしいのかわからないという顔で、ケーキを配っていた。

 ケーキは、見た目よりずっと美味しかった。

 八時を過ぎて、瑞穂が帰る時間になった。

「京次、送ってあげなさい。暗いから」

「車が来てるから、大丈夫です」

「駄目よ、そこまで送りなさい」

 玄関を出ると、空気がぴんと張りつめていた。息が真っ白になる。瑞穂の車は、少し先の通りに停まっているという。

 二人並んで歩き出したとき、目の前を、白いものがひとつ、ふわりと横切った。

「……雪」

 瑞穂が空を見上げた。街灯の光の中を、細かな雪が音もなく舞い降りてくる。

「初雪ね」

「ええ」

「クリスマスイブに初雪なんて、出来すぎね」

「そうですね」

 しばらく、二人は黙って歩いた。雪が、瑞穂の赤いマフラーにひとつ、ふたつと落ちて、すぐに溶けた。

「慎吾さんね、今夜は仕事なんですって」

 京次の足が、一瞬だけ止まりかけた。

「銀行は、年末が忙しいから。仕方ないわよね」

「……」

「京次さん?」

 言うべきだ、と思った。今なら言える。

 京次は口を開きかけた。そして、閉じた。

「……忙しい人なんですね」

「ええ。忙しい人なの」

 瑞穂は笑った。その笑顔を見て、京次は自分がまた嘘をついたのだと思った。いや、嘘ではない。ただ、すべてでもない。

 車の手前で、京次は立ち止まった。ジャンパーのポケットから、ハンカチにくるんだものを取り出した。

「これ」

「なに?」

「……クリスマスの、です」

 瑞穂はハンカチを開いた。中から、白く丸い石が出てきた。

 瑞穂は、しばらく何も言わなかった。

「ただの石ですけど」

 京次が言うと、瑞穂は顔を上げた。目が、街灯の光をはじいて潤んでいた。

「ただの石じゃないわ」

「……」

「ただの石じゃない」

 瑞穂は石を両手で包み込み、胸もとに押し当てた。

「ありがとう、京ちゃん」

 運転手が車の扉を開けた。瑞穂は振り返らずに乗り込んだ。窓は、今夜は下がらなかった。

 車が走り去ったあとも、京次はしばらく雪の中に立っていた。

 ポケットの中で、二台目の携帯電話は、震えなかった。

◇

 十二月三十一日。午後十一時半。

 生出神社の境内には、除夜の鐘を待つ人々の白い息が立ち込めていた。焚き火の周りに、町内の人たちが寄り集まって手をかざしている。

「さっみい! なんでこんな寒いのに外出なきゃいけねえんだよ」

「タツ兄が誘ったんやろ」

「俺じゃねえよ、お嬢だよ」

「わたしじゃないわ。水緒ちゃんよ」

「あたしやないって! ……あれ、誰やったっけ」

 四人は顔を見合わせ、それから同時に京次を見た。京次は焚き火に手をかざしたまま、知らん顔をしていた。

「お前か!」

「……毎年、四人で来てただろう。昔は」

「それ、十五年くらい前の話やん」

「十四年だ」

「細かい!」

 水緒が笑い、達也が京次の背中をどやしつけた。瑞穂は、ダウンコートのポケットの中で、何かを握りしめていた。

 鐘が鳴り始めた。

 ごおん、と低い音が、冷たい夜気を震わせて、山のほうへ渡っていく。

「ねえ、お願いごと、何にする?」

「言ったら叶わんやろ」

「じゃあ、言わない」

 四人は本殿の前に並んで、手を合わせた。

 ――今年も、家族が腹いっぱい食えますように。それから、もう、嘘をつかなくて済みますように。

 達也は、そう祈った。

 ――お母さんが元気になりますように。お兄ちゃんが、どこにも行きませんように。それから、あたしにも、何かいいことがありますように。

 水緒は、そう祈った。

 ――来年の秋が、来ませんように。

 瑞穂は、そう祈りかけて、慌てて取り消した。そして、ただ、隣に立っている人の名前だけを、心の中で一度だけ呼んだ。

 京次は、何も祈らなかった。

 祈れることが、何もなかった。神さまに頼めるようなことは、何ひとつ持っていなかった。ただ、目を閉じて、隣にいる三人の気配を感じていた。焚き火の匂い。白い息。鐘の音。

 この夜が、ずっと続けばいい。

 それが祈りなのかどうか、京次にはわからなかった。

 午前零時。境内のあちこちで、「あけましておめでとう」の声が上がった。

「あけおめ!」

「おう、あけましておめでとう」

「今年もよろしくね」

 四人が笑い合ったそのとき、京次のコートの内ポケットで、携帯電話が短く震えた。

 二台目のほうだった。

 京次は三人に背を向け、画面を確かめた。メールが一通。差出人の欄には、名前の代わりに、見慣れた番号だけが表示されていた。

《良い年を。今年は、春が早く来る》

 京次は携帯電話を閉じ、ポケットに戻した。

「京次? どうした」

「……なんでもない」

「お兄ちゃん、おみくじ引こ、おみくじ!」

「ああ」

 京次は三人のほうへ戻った。焚き火の炎が、四人の顔を赤く照らしていた。

 二〇〇六年が、始まった。

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