〈春れ磁石〉第三章・八朔 (2005年秋)
シャンデリアの光が、何百ものグラスの縁で砕けていた。
八月の終わり。東京・紀尾井町のホテルの大宴会場には、鷹司家の銀行が年に一度開く取引先の懇親会に、五百人を超える客が集まっていた。背広の男たち。その腕に寄り添う着物やドレスの女たち。グラスの触れ合う音と、遠慮のない笑い声。
「瑞穂、背筋」
「伸びてます」
「顔」
「笑ってます」
「目が笑っていない」
父の英明は、前を向いたまま小声で言った。瑞穂は、言われたとおりに目も笑わせた。こういう場で何を求められているかは、十年以上前から知っている。
藤色の訪問着は、母が選んだものだった。帯は、八月に甲府で水緒と一緒に選んだ帯締めを合わせた。水緒が「いちばん高いの」と言って指さしたのは、結局、いちばん地味な白銀の一本だった。
「西條さん、ご無沙汰しております」
「やあ、これはどうも」
父のもとには、ひっきりなしに人が挨拶に来た。そのたびに、瑞穂は頭を下げ、名前を覚え、微笑んだ。五人目あたりから、相手の顔と名前が混ざり始めた。
途中で、ロシアの商社から来たという大柄な男が、父との挨拶の途中で、日本語に詰まった。瑞穂が、ロシア語で、そっと言葉を添えると、男は目を丸くして、何か早口に父に言った。学習院の四年間、フランス語と一緒に、ロシア語を学んだ。トルストイを原書で読んでみたかった、それだけの理由だった。父は、何も言わずに、小さく頷いただけだった。
「瑞穂さん」
背後から、聞き慣れた声がした。慎吾だった。濃紺のスーツに、今夜は銀のネクタイ。
「来てくださって嬉しいな。退屈でしょう、こういうの」
「いいえ」
「嘘が下手だって、前にも言いましたよね」
慎吾は笑い、瑞穂の手にシャンパンのグラスを持たせた。
「少しだけ、ご紹介したい人がいるんです。うちの大事なお客さま。……いや、もう向こうから来ちゃったな」
人波を割って、男がひとり近づいてきた。日焼けした肌に、細身のスーツ。ネクタイはしていない。胸ポケットには、折りたたみ式の携帯電話が二つ並んで差さっていた。
「どうもどうも、早瀬です。鷹司さん、お招きありがとう。いやあ、すごい人ですね。日本の資産の半分くらい、今この部屋にあるんじゃないですか」
「早瀬さん、相変わらずですね」
「相変わらずですよ。で、こちらが噂の」
早瀬拓海は、瑞穂を正面から見た。遠慮も何もない目だった。
「……なるほど。噂は控えめだったな」
「早瀬さん」慎吾が苦笑した。「僕の婚約者になる人ですよ」
「なる人、でしょ。まだなってない」
拓海は悪びれもせずに名刺を差し出した。社名の横に、見慣れないカタカナとアルファベットが並んでいる。
「六本木で、インターネットの会社をやってます。ブログってわかります? 日記をね、ネットで書くんです。誰でも、無料で。うちのサービス、会員がこの春で三十万人を超えまして」
「日記を、ネットで……」
「そう。紙の日記なんて、もう古いですよ」
瑞穂は膝の上の小さなバッグを思った。中には、今夜も革表紙の日記帳が入っている。
「わたしは、紙のほうが好きです」
「どうして?」
「誰にも読まれないから」
拓海は一瞬きょとんとし、それから声を上げて笑った。
「いいなあ。それ、いい。俺、そういうの好きですよ。ねえ、今度六本木に来ません? ヒルズの上から見る東京、すごいですよ」
「早瀬さん」
「はいはい、わかってますって。婚約者になる人、ね」
拓海はウインクして、人波の中へ消えていった。
「すみません。悪い人じゃないんですが」
「にぎやかな方ですね」
「ニッポン放送の騒ぎのときも、ずいぶん名前が出ましたよ。ああいう若い経営者が、これからの日本を動かすんだそうです。……父に言わせれば、ですけど」
慎吾は肩をすくめた。その目が、ふと宴会場の入口のほうへ動いた。
「おや。珍しい人が来てる」
入口のあたりに、小さな人だかりができていた。その中心に、背筋のまっすぐな若い男が立っている。三十を少し過ぎたくらい。地味なグレーのスーツに、地味なネクタイ。それなのに、周りの年配の男たちが、みな彼に向かって頭を下げていた。
「木下想苑さん。山梨の木下先生のご子息ですよ。ご存じでしょう」
「お名前だけは」
木下家は、祖父の代から山梨に地盤を持つ政治家の一族だった。この八月、首相が郵政民営化を掲げて衆議院を解散してから、山梨の選挙区でも木下家の名前を聞かない日はない。
「選挙のさなかに、こんなところに顔を出すなんて。資金集めかな」
慎吾が呟いたとき、想苑がこちらに気づいた。彼は周りの男たちに軽く頭を下げて輪を抜け、まっすぐに歩いてきた。
「鷹司さん。ご招待いただき、ありがとうございます」
「木下さん。お忙しいところを」
「父の名代です。選挙中ですので、長居はできませんが」
想苑は瑞穂のほうを向き、深く頭を下げた。
「西條瑞穂さんですね。木下と申します。お父上には、いつもお世話になっております」
「こちらこそ」
「山梨のリニアの件では、県としても、西英さんのお力をお借りすることになると思います」
「わたしは、会社のことはよく知らないんです」
「そうですか」
想苑は穏やかに微笑んだ。拓海とはまるで違う、静かな目だった。静かで、底が見えなかった。
「でも、瑞穂さんは、あの町をよくご存じでしょう。富士吉田も、都留も」
「ええ。生まれ育った町ですから」
「僕は、東京で生まれました」想苑はグラスに口をつけずに言った。「祖父が山梨に根を下ろしたのは、ずっと後のことです。だから僕には、生まれ育った町というものがない。少し、羨ましいです」
「……そうなんですか」
「国というのは、そういう人間にとっての町なのかもしれません」
瑞穂は何と答えていいかわからなかった。想苑はそれ以上何も言わず、もう一度頭を下げて、人波の中へ戻っていった。
「変わった人でしょう」と慎吾。
「ええ」
「でも、ああいう人が、いずれ大臣になるんですよ」
慎吾は誰かに呼ばれ、「すぐ戻ります」と言って離れていった。
瑞穂はひとり、壁際に下がった。シャンパンの泡が、グラスの中で静かに昇っていく。
「お疲れのようですね」
隣に、いつの間にか年配の男が立っていた。
六十に届くかどうかという年格好。銀色の髪をきれいに撫でつけ、仕立てのいい濃い灰色のスーツを着ている。低く、よく通る声だった。
「いえ」
「無理をなさらずに。こういう場は、慣れた人間でも疲れます」
男は自分のグラスを軽く掲げた。
「西條さんのお嬢さんですね」
「はい。失礼ですが」
「橋川と申します」
瑞穂は小さく息を呑んだ。
橋川不動産。父の会社の、いちばんの商売敵。父がその名前を口にするとき、いつも声の温度が一度下がる。
「……父が、お世話になっております」
「世話など、何も」橋川宗一郎は微笑んだ。「お父上とは、いつも喧嘩ばかりですよ。もっとも、先代同士のころからの、年季の入った喧嘩ですが」
「先代……」
「お祖父さまの英之助さんと、私の父です。昔は、ずいぶん親しかったと聞いています。……昔は、ですが」
宗一郎はグラスを傾けた。それから、何気ない調子で言った。
「春に、白い花をお活けになったそうですね」
瑞穂の指が、グラスの脚の上で止まった。
「辛夷だったとか。銀行の応接に辛夷とは、いいご趣味だ」
「……どうして、それを」
「さあ。どこかで耳にしたんでしょう。年を取ると、どこで聞いたかは忘れて、話だけが残るものです」
「瑞穂」
父の声がした。英明が、人波を割ってこちらへ歩いてきた。表情はいつもと変わらない。けれど、瑞穂にはわかった。父の目の奥が、冷たく光っていた。
「橋川さん。こんなところでお会いするとは」
「西條さん。お嬢さんに、ご挨拶を」
「娘は疲れていましてね。そろそろ失礼するところです」
「それは残念」
二人の男は、互いに微笑みを交わした。どちらの微笑みも、少しも笑っていなかった。
「お父上の件は、まだ根に持っておられるのかな」
英明が、ほとんど聞き取れないほどの声で言った。
「根など」宗一郎は穏やかに答えた。「とうに枯れましたよ。枯れた根から、また何かが芽吹くこともありますがね」
宗一郎は軽く会釈をして、去っていった。その背中を、英明は最後まで目で追っていた。
「……お父さま」
「帰るぞ」
「慎吾さんにご挨拶を」
「いい。帰る」
帰りの車の中で、父は一言も口をきかなかった。瑞穂は窓の外の首都高の明かりを見ながら、宗一郎の言葉を何度も思い返していた。
辛夷のことを知っているのは、誰だろう。
秘書室の人。慎吾さん。慎吾さんのお父さま。それから――。
瑞穂は、それ以上考えるのをやめた。
◇
九月一日。都留の町は、朝から太鼓の音に包まれていた。
生出神社の八朔祭り。江戸の頃から続くこの祭りでは、豪華な飾りをつけた屋台が町を練り歩き、大名行列が通りを進む。この日ばかりは、普段は静かな商店街に、町じゅうの人間が集まってくる。
「タツ兄、こっち! いい場所取れたよ!」
浴衣姿の水緒が、通りの角で手を振っていた。紺地に白い朝顔の柄。仕事用の眼鏡を外すと、水緒は急に幼く見えた。
「でかした水緒。おーい、お前ら、はぐれるなよ!」
達也が、三人の子どもたちを追い立てながら人混みをかき分けてくる。美咲は綿あめ、翔太は焼きそば、陽菜はりんご飴を握りしめていた。その後ろから、恵子が団扇で顔をあおぎながらついてくる。
「京次は?」
「お兄ちゃん、まだ。お母さん寝かしつけてから来るって」
「瑞穂は」
「もうすぐ着くってメール来た」
「お嬢、浴衣かな」
「当たり前やろ。瑞穂ちゃんの浴衣、去年見た? 隣の町内のおじさんたち、みんな屋台にぶつかっとったもん」
「そりゃ見たかったなあ」
「あんた」
恵子に団扇で頭をはたかれ、達也は首をすくめた。
太鼓の音が近づいてきた。通りの向こうから、金色の飾りをつけた屋台が、ゆっくりとこちらへ進んでくる。笛の音。掛け声。子どもたちの歓声。
「お待たせ」
振り向くと、瑞穂が立っていた。白地に薄紫の萩を散らした浴衣。髪を高く結い上げ、うなじに後れ毛が二、三本落ちている。
周りの空気が、一瞬だけ止まった気がした。
「……お嬢、今年も犯罪だな」
「何が?」
「いや、なんでもねえ」
「瑞穂ちゃん、かわいいー! 写メ撮ろ、写メ!」
水緒が携帯電話を構え、瑞穂が笑って並んだ。そのとき、人混みの向こうから京次が現れた。いつもの作業着ではなく、紺の甚平を着ていた。
「遅えぞ、京次」
「悪い」
「お兄ちゃん、甚平! どしたん、それ」
「おふくろが、出しておいてくれた」
「似合っとるやん。ねえ瑞穂ちゃん」
瑞穂は京次を見て、少しだけ目を見開いた。それから、小さく笑った。
「……借り物みたいじゃないわね」
「借り物じゃありません。おふくろの手縫いです」
「そう。よく似合ってる」
京次は何も言わず、屋台のほうへ目をやった。耳の後ろが、提灯の明かりの下でもわかるほど赤かった。水緒がそれを見て、にやにやと笑った。
大名行列が近づくと、人混みが一気に膨らんだ。押し寄せる見物客の波に、五人はたちまちばらばらになった。
「美咲、陽菜、こっち!」
「お父さーん!」
「水緒、子どもたちを頼む!」
達也の声が遠ざかる。瑞穂は人の波に押され、慣れない下駄の足もとがよろけた。
その手を、誰かがつかんだ。
「こっちです」
京次だった。大きな手が、瑞穂の手をしっかりと握っていた。京次は人混みを肩で割るようにして、瑞穂を通りの脇の路地へと引っ張っていった。
路地に入ると、喧騒が少し遠のいた。
「……大丈夫ですか」
「ええ。ありがとう」
瑞穂は息を整えた。それから、自分の手がまだ京次の手の中にあることに気づいた。
京次も、同時に気づいたようだった。
どちらも、手を離さなかった。
表通りを、屋台がゆっくりと通り過ぎていく。太鼓の音が、路地の壁に反響して、胸の奥に直接響いてくる。
「京次さん」
「はい」
「手」
「……すみません」
京次が手を離そうとした。瑞穂は、その手を握り返した。
「まだ、人が多いから」
「……」
「はぐれたら、困るでしょう」
京次は何も言わなかった。ただ、離しかけた手に、もう一度力を込めた。
二人はそのまま、屋台が通り過ぎるのを見ていた。提灯の灯りが、ゆらゆらと揺れている。
「ねえ、京次さん。先週、東京のパーティーに行ったの」
「慎吾さんの銀行の、ですか」
「ええ。いろんな人に会ったわ。インターネットの会社の社長さんとか、木下先生の息子さんとか」
「木下……想苑さんですか」
「知ってるの?」
「名前だけは」
「それからね」瑞穂は少し声を落とした。「橋川不動産の社長さんに会ったの」
京次の手が、ほんのわずかにこわばった。瑞穂はそれを、自分の手のひらで感じた。
「その人ね、わたしが春に応接室に辛夷を活けたこと、知ってたの」
「……」
「どうしてかしら。知ってる人なんて、ほんの少ししかいないのに」
京次は答えなかった。表通りのほうを見ている。その横顔は、提灯の光で半分だけ照らされ、半分は暗がりに沈んでいた。
「京次さん?」
「……慎吾さんが、話したのかもしれませんね」
「慎吾さんが?」
「あの人の銀行は、どちらの会社とも取引があるはずです」
「……そうね。そうかもしれない」
瑞穂は頷いた。頷きながら、京次の手が、さっきよりずっと冷たくなっていることに気づいていた。
まだ夏の熱気の残る夜だというのに、その手は、ひどく冷たかった。
◇
「陽菜ちゃん、りんご飴、もう一本は駄目!」
「やだー!」
「お母さんに怒られるのは、あたしなんやけん!」
人混みが引いたあと、水緒は陽菜を抱え、美咲と翔太の手を引いて、屋台の並ぶ通りの端に立っていた。達也と恵子とは、はぐれたままだ。携帯電話は、人の多さのせいか、さっきから圏外と一本を行ったり来たりしている。
「水緒ちゃん、お父さんたちどこ?」
「すぐ来るって。ほら、美咲ちゃん、お姉ちゃんなんやけん、翔太くんの手、離さんでね」
「水緒ちゃんの言葉、なんか変」
「変やない。博多弁たい」
「はかたってどこ?」
「……遠いとこ」
美咲が首をかしげ、翔太が「変なの」と笑った。水緒は肩をすくめた。行ったこともない町の言葉を、もう十年も使い続けている。自分でも、どうしてなのかよくわからない。
ふと、通りの向こうの路地に目が止まった。
提灯の明かりの届かない、細い路地の入り口。そこに、紺の甚平と白い浴衣が、並んで立っていた。
二人は、手をつないでいた。
水緒は、しばらくその姿から目を離せなかった。兄の横顔が、見たことのない顔をしていた。東京から帰ってきてから一度も見せたことのない、子どもの頃にだけ見せていた顔。
「……よかったやん、お兄ちゃん」
口に出してみると、胸の奥のちくりとしたものが、また少しだけ大きくなった。それが何なのか、水緒は考えないことにした。
「おう、水緒ちゃんじゃねえか」
背後から、しわがれた声がした。振り向くと、志村工務店の源さんが、法被姿で缶ビールを片手に立っていた。
「源さん! タツ兄見んかった?」
「社長なら、向こうの角で恵子さんに叱られてたよ。子どもらほっぽって、どこ行ってたんだって」
「あたしが見とったっちゃけど」
「だろうなあ」
源さんは笑い、陽菜の頭をくしゃくしゃと撫でた。それから、路地のほうに目をやった。
「ありゃあ、京次と、西條のお嬢か」
「……見えた?」
「目はまだ悪くねえよ」源さんは缶ビールを傾けた。「西原の家と西條の家か。縁ってのは、妙なもんだな」
「縁?」
「あんたらの親父さんが、飯能から都留に越してきた年もな、ちょうど八朔の頃だったよ。あんたはまだ、お母さんの腹の中だった」
「そうなん?」
「ああ。荷物もろくに持たねえで、一家四人……いや三人か。どこに住むあてもなくてな。それを、西條の先代が世話を焼いたんだ。家も、親父さんの仕事も」
水緒は目を瞬かせた。
「……そんな話、初めて聞いた」
「言わなかったのかい、親父さん」
「お父さん、昔のことは何も話さんかったけん」
「そうか。まあ、そうだろうな」
源さんは缶ビールの残りを飲み干し、少しだけ遠い目をした。
「西條の英之助さんってのは、そういう人だった。困ってるやつを放っとけねえ。……その分、敵も多かったけどな」
「なんで、西條の先代がうちを?」
「さあな。そこまでは知らねえよ」
源さんは空き缶を握りつぶした。
「ただ、親父さんが越してきた最初の晩、英之助さんがわざわざ自分で米と味噌を届けに来たのは覚えてる。社長の親父と二人で、荷下ろしを手伝ったからな。あのとき、英之助さんが親父さんに言ってたよ。『これで、借りは返したことにしてくれ』ってな」
「……借り?」
「何の借りかは、知らねえ」
源さんはそれ以上は言わず、「じゃあな」と手を上げて人混みの中へ消えていった。
水緒は、その場に立ち尽くしていた。
借り。西條の家が、西原の家に。
路地のほうを振り返ると、兄と瑞穂の姿は、もうそこになかった。
◇
祭りの夜が更けると、達也は子どもたちを恵子に任せて、生出神社の石段に腰を下ろした。
境内では、まだ太鼓が鳴っている。石段の下を、浴衣の若者たちが笑いながら通り過ぎていく。
「ほらよ」
隣に座った京次に、缶ビールを一本渡した。京次は黙って受け取った。
「お嬢は」
「水緒と一緒に、りんご飴を買いに行った」
「仲いいな、あの二人」
「ああ」
二人は並んでビールを飲んだ。夜風が、境内の杉の梢を鳴らしていく。
「……さっき、見てたぞ」
「何を」
「路地で、お嬢と手つないでたろ」
京次がビールにむせた。達也は声を上げて笑った。
「ガキの頃から、お前はそうだ。肝心なときに何も言わねえで、手だけ出す」
「……人混みで、はぐれそうだったからだ」
「そういうことにしといてやるよ」
達也はビールを一口飲み、それから石段の下の暗がりに目をやった。
「なあ、京次」
「ん」
「お前、七月の終わりくらいに、夜、西裏にいなかったか」
京次の缶が、膝の上で止まった。
「……いや」
「そうか」
「なんでだ」
「いや。似たようなやつを見た気がしたんだ。夜中に、呉服屋の軒下で」
「人違いだろう。その頃は、毎晩おふくろの横で寝てた」
「だよな」
達也は笑った。笑いながら、京次の顔を見なかった。京次も、達也の顔を見なかった。
「達也」
「ん」
「お前こそ、なんで西裏なんかにいたんだ」
今度は、達也の缶が止まった。
「……仕事の付き合いだよ。西英の人と、飲みに」
「そうか」
「そうだ」
二人はしばらく黙っていた。境内の太鼓が、ひときわ大きく鳴った。
「京次」
「ん」
「困ったことがあったら、言えよ」
京次は少し驚いたように達也を見た。達也は前を向いたままだった。
「……それは、こっちの台詞だ」
「俺は困ってねえよ。お前がだよ。東京から急に帰ってきて、掃除の仕事なんかしてよ。何かあったんだろ」
「何もない」
「嘘つけ」
「……達也」
「ん」
「お前も、困ったことがあったら、言え」
達也は何か言いかけて、やめた。缶ビールの残りを一息に飲み干し、立ち上がった。
「言うことなんか、ねえよ」
石段を下りていく達也の背中を、京次は黙って見送った。
二人とも、相手に嘘をついたことを知っていた。そして二人とも、相手が嘘をついたことを知っていた。
それでも、どちらも、それ以上は訊かなかった。
◇
九月十一日。衆議院議員総選挙の投票日。
夜十時過ぎ、西條家の居間のテレビは、開票速報を映し続けていた。与党の圧勝。画面の中で、首相が満面の笑みで花をつけている。山梨の選挙区でも、木下家の候補者の当選確実の文字が、早々に流れた。
「お父上、当選されたのね」
瑞穂が呟くと、ソファで新聞を読んでいた英明が顔を上げた。
「木下の倅とは、口をきいたのか」
「少しだけ」
「そうか」
英明はそれだけ言って、また新聞に目を落とした。
翌朝、西條家に、ふたつの届け物があった。
ひとつは、白い胡蝶蘭の鉢植えだった。それも、玄関の上がり框に置ききれないほど大きなものが、三鉢。添えられたカードには、勢いのある字でこう書かれていた。
《六本木の上から見る東京は、やっぱりすごいです。いつでも案内します。早瀬拓海》
「……高そうに見えるから」
瑞穂は思わず呟いて、ひとりで笑ってしまった。
もうひとつは、和紙の封筒に入った手紙だった。差出人は、木下想苑。万年筆の、細く整った字だった。
《先日は、失礼いたしました。選挙が終わり、父も無事に議席を守ることができました。
あの夜、生まれ育った町がないと申し上げました。けれど、瑞穂さんのお話を伺いながら、ひとつだけ思い出したことがあります。幼い頃、祖父に連れられて一度だけ見た、どこか遠い国の港町のことです。灰色の海と、灰色の空と、灰色の船。顔も覚えていない人たちが、僕の名前を呼んで手を振っていました。
あれが僕の町だったのかもしれないと、今でもときどき思います。
また、お目にかかれれば幸いです。木下想苑》
瑞穂は手紙を二度読み、静かに封筒に戻した。
どこか遠い国の港町。
なぜか、その言葉だけが、喉の奥に小骨のように引っかかった。
◇
《二〇〇五年九月一日(木) 晴れ
八朔祭り。今年もお天気に恵まれた。
水緒ちゃんの浴衣が、とてもかわいかった。紺に白い朝顔。わたしが選ぶより、ずっと水緒ちゃんらしい。
タツ兄のところの陽菜ちゃんが、りんご飴を三本も食べて、恵子さんに叱られていた。タツ兄は「祭りの日くらいいいじゃねえか」と言って、もっと叱られていた。
京次さんは、甚平を着ていた。
大名行列のとき、人混みではぐれそうになって、京次さんが手を引いてくれた。路地に入ってからも、しばらく手を離さなかった。わたしが離さなかったのか、京次さんが離さなかったのか、よくわからない。たぶん、両方。
あの人の手は、昔と同じように大きかった。
昔と違ったのは、橋川さんの名前を出したとき、その手が急に冷たくなったこと。
理由は訊かなかった。訊いたら、あの手が離れてしまう気がした。
来年の秋、わたしは結納を交わす。
それまでに、あと何回、あの手を握れるだろう。
――こんなことを書くのは、この日記が誰にも読まれないからだ。》
瑞穂は万年筆を置き、日記帳を閉じた。
窓の外で、秋の虫が鳴いていた。机の引き出しの奥には、子どもの頃に桂川の河原で拾った、白く丸い石が入っている。
瑞穂はそれを取り出して、手のひらに載せた。
ただの石だった。けれど、どんな宝石より、きれいに見えた。




