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〈春れ磁石〉第二章・見積 (2005年夏)

 七月の禾生は、田んぼの緑がいちばん濃い。

 午前十時。桂川沿いの細い農道に軽トラックを停めると、志村達也は首に巻いたタオルで額の汗を拭った。蝉の声が、山の斜面からいっせいに降ってくる。

「志村さん、こっちこっち」

 畦道の先で、西英不動産の堀内が手を振っていた。半袖の白いワイシャツに、ネクタイはしていない。今年の夏から国が言い出した「クールビズ」とやらを、西英もさっそく真似しているらしい。

「暑いですねえ。いや、それでも東京よりはずっとましだ」

「東京、行かれたんですか」

「先週、本社の会議でね。あっちはもう、アスファルトが溶けてるんじゃないかってくらいで」

 堀内は笑いながら、小脇に抱えた筒から地図を引き出した。住宅地図の写しに、赤いマーカーで太い線が引かれている。線は、桂川に沿って細長く伸び、いくつもの田畑と、古い家を三軒ばかり囲んでいた。

「このあたり、全部ですか」

「全部です。まあ、すぐにとは言いませんよ。話がまとまったところから、順番に」

「まとまってないところもあるんですね」

「そりゃあ、ありますよ」

 堀内は赤い線の中の一点を、指先で軽く叩いた。

「ここがね。ちょっと、頑固で」

 田んぼの向こうに、瓦屋根の古い平屋が見えた。縁側に、小さな人影が座っている。

「小林さんの家です。おばあちゃんが一人で住んでて」

「トメばあちゃんか」

「ご存じで?」

「この辺の人間なら、みんな知ってますよ。俺がガキの頃、あそこの柿をよく盗んで怒られた」

「ははあ。じゃあ、志村さんから話してもらうのがいいかもしれないな」

 堀内は冗談めかして言ったが、目は笑っていなかった。

 達也は田んぼの畦を渡って、平屋のほうへ歩いた。縁側の老婆は、近づいてくる達也をじっと見ていた。皺だらけの顔の中で、小さな目だけが若い頃のまま光っている。

「トメばあちゃん、こんにちは。志村の達也です」

「知ってるよ。柿泥棒の達也だろ」

「……覚えてたか」

「忘れるもんかね。あんたと、西原んとこの兄貴と、二人で枝をへし折っていったんだ」

「あれは京次が登ったんだよ。俺は下で見張りだ」

「同じこったよ」

 トメは鼻を鳴らし、横に置いた湯呑みに手を伸ばした。

「で、今日は何だい。あの背広の男の手伝いかい」

「いや、手伝いっていうか……」

「土地なら売らないよ」

 トメはあっさり言った。

「この田んぼはね、死んだ亭主が、戦地から帰ってきて一から開いたもんだ。石をどけて、水を引いて、五十年かけてようやくまともな米が穫れるようになった。駅だか何だか知らないけど、そんなもんのために、亭主の五十年を売る気はないよ」

「駅が来たら、高く売れるかもしれないぜ」

「来やしないよ、駅なんか」トメは湯呑みを置いた。「来たって、わしは乗らない。あんな速いもんに乗ったら、窓の外が何も見えないじゃないか」

 達也は思わず笑った。どこかで、同じことを聞いた気がした。

「……そうだな。俺も、そう思う」

「あんた、いい子だったのにねえ」

 トメはぽつりと言った。

「背広の男の後ろを歩くような大人になるとは、思わなかったよ」

 達也は何も言い返せなかった。

 畦道を戻ると、堀内が扇子で顔をあおぎながら待っていた。

「どうでした」

「売らないそうです」

「でしょうね」堀内は少しも残念そうではなかった。「まあ、時間はありますから。それより志村さん、例の件、今夜でいいですか。いつもの店で、八時に」

「……ええ」

「助かります」

 堀内は地図を筒に戻し、ハンカチで首筋を拭きながら車のほうへ歩いていった。

 達也は田んぼを振り返った。トメの姿は、もう縁側になかった。稲の葉が、川風に一斉に揺れていた。

◇

 富士吉田の西裏は、夜になると昼とは別の町になる。

 織物で栄えた頃の名残の、細い路地。その両側に、色とりどりの看板が肩を寄せ合っている。スナック「あおい」は、その路地のいちばん奥、蔦の絡まった古いビルの二階にあった。

「あら、タツヤさん。久しぶりじゃない」

 カウンターの向こうで、ママの千鶴が煙草をもみ消した。五十を少し過ぎた、気風のいい女だ。

「堀内さん、もう来てるわよ。奥」

「どうも」

「なに、怖い顔して。お金の話?」

「ママには関係ねえよ」

「そうね。関係ないことにしとくわ」

 千鶴は肩をすくめ、水割りを作り始めた。

 奥のボックス席で、堀内がおしぼりで顔を拭いていた。テーブルの上には、茶封筒がひとつ置かれている。

「いやあ、来てくれて安心しました。どうぞ」

 達也が腰を下ろすと、堀内は封筒から紙を二枚取り出した。どちらも、志村工務店の書式を真似て作った見積書だった。工事名、数量、単価。中身はほとんど同じだが、合計の欄だけが違っている。片方は、達也がふだん出す金額。もう片方は、その一・五倍近い。

「こっちを、うちの正式な発注用に。こっちは志村さんの控えにしてください」

「差額は」

「地元対策費、ってやつですよ」

 堀内はおしぼりを丁寧にたたんだ。

「土地をまとめるってのはね、志村さん、きれいごとじゃ済まないんです。売ってくれた人へのお礼、まだ迷ってる人への手土産、役場の窓口の人への盆暮れの挨拶。そういうのを、会社の帳簿にそのまま載せるわけにはいかないでしょう」

「それを、うちの見積に乗っけるんですか」

「志村さんには一円も損はさせません。むしろ、手数料として、差額の一割はお渡しします」

「……いらねえよ、そんなもん」

「いりますよ」

 堀内の声は、あくまで柔らかかった。

「志村さん、いい人だからね。いい人ってのは、こういうとき、いちばん損をするんです。お子さん、三人でしたっけ。上の子、再来年は中学だ。お母さんの通院もある。若い衆の給料だって、毎月出ていく」

「……よく知ってますね」

「仕事ですから」

 千鶴が水割りを二つ運んできて、何も言わずに去っていった。氷の鳴る音が、やけに大きく聞こえた。

「堀内さん。これ、誰が考えたんですか」

「誰って」

「堀内さん一人の考えじゃねえだろ」

 堀内は少しだけ眉を上げた。それから、困ったように笑った。

「志村さん。世の中にはね、知らないほうがいいことと、知っておいたほうがいいことがある。これは前のほうです」

「……」

「サインは、ここに」

 堀内は二枚目の見積書の隅を、ボールペンの尻で叩いた。

 達也はペンを受け取った。手のひらに、汗がにじんでいた。昼間のトメの声が、耳の奥で鳴っていた。背広の男の後ろを歩くような大人になるとは、思わなかったよ。

 ペン先が紙に触れた。

 志村達也。

 自分の名前が、こんなに重い字だとは知らなかった。

「ありがとうございます」堀内は見積書を封筒に戻した。「次の現場、来月頭から入ってもらいます。いやあ、これで一安心だ。ママ、こっちにもう一杯!」

 三十分後、達也は「あおい」の階段を下りた。路地は、昼間の熱気をまだ地面に溜め込んでいた。

 ふと、路地の向こう側に目が行った。

 閉店した呉服屋の軒下、街灯の明かりの届かない暗がりに、男がひとり立っていた。煙草の火が、小さく赤く灯っている。背の高さ、肩の線、立ち方。

「……京次?」

 達也が一歩踏み出すと、煙草の火がすっと消えた。

 次の瞬間には、軒下には誰もいなかった。路地の奥へ続く暗がりが、ただ口を開けているだけだった。

 見間違いだ、と達也は思った。京次が、こんな時間に、こんな場所にいるはずがない。あいつは夜、おふくろさんの面倒を見ているはずだ。

 そう思いながら、達也は暗がりから目を離せなかった。

◇

 路地をふたつ折れたところで、京次は足を止めた。

 息が上がっていた。走ったせいではなかった。

 古い織物工場の塀に背中を預け、京次は消したばかりの煙草をもう一度くわえた。火はつけなかった。

 ――達也。

 堀内が「あおい」に入っていくのを見届けたのは、八時少し前だった。誰と会うのかを確かめるために、二時間近く、呉服屋の軒下に立っていた。階段を下りてきたのが誰か、街灯の明かりで顔が見えた瞬間、京次は自分の目を疑った。

 見間違いではなかった。あの肩の線を、見間違えるはずがない。

 内ポケットで、二台目の携帯電話が震えた。京次はしばらくそれを見つめてから、通話ボタンを押した。

「はい」

『どうだった』

「堀内が、西裏の店で人と会っていました。二時間ほど」

『相手は』

「……下請けの業者のようです」

『名前は』

 京次は塀の向こうの夜空を見上げた。織物工場の煙突が、黒く突き立っている。

「暗くて、顔までは見えませんでした」

 短い沈黙があった。

『そうか』穏やかな声だった。『まあいい。下請けは、いくらでも替えがきく。大事なのは、金がどこへ流れるかだ』

「はい」

『京次君。無理はしなくていい。夏は長い』

 通話が切れた。

 京次は携帯電話を握ったまま、しばらく動かなかった。生まれて初めて、あの声に嘘をついた。

 左手首の時計が、街灯の光をかすかにはじいた。京次は袖を下ろし、暗い路地を歩き出した。

◇

 午前五時五十分。

 西英本社の社長応接室に、窓から夏の朝日が斜めに差し込んでいた。

「おはようございます」

「おはよう、京次さん」

 瑞穂は、竹の花入れに桔梗を一本ずつ挿していた。青紫の花が、白い壁に涼しげな影を落としている。

 四月のあの朝から、瑞穂は週に二度、応接室の花を替えに来るようになった。月曜と木曜。誰に頼まれたわけでもない。秘書室には「お客さまが多い時期だから」と言っているらしい。

 京次はいつも、応接室の掃除を最後に回すようになった。誰に言われたわけでもない。

「今日は桔梗ですか」

「ええ。秋の七草だけど、いちばん早く咲くの」

「まだ七月ですよ」

「だから、いちばん早くって言ったでしょう」

 瑞穂は花入れから一歩下がって、全体を眺めた。

「京次さん、麦茶飲む?」

「仕事中です」

「わたしも仕事中よ。お花の」

 瑞穂は足もとの籠から魔法瓶を取り出し、蓋のコップに麦茶を注いだ。京次は少し迷ってから、それを受け取った。冷たかった。

「……うまい」

「うちのお手伝いさんの麦茶なの。煮出して、ひと晩冷やすんだって」

「そうですか」

「そういうところ、京次さんは変わらないわね。昔から『うまい』と『そうですか』しか言わない」

「ほかにも言います」

「たとえば?」

 京次は少し考えた。

「……白いですね」

 瑞穂は吹き出し、慌てて口を押さえた。誰もいない七階に、笑い声が小さく響いた。

「それ、ずるい」

「何がですか」

「ずるいの」

 瑞穂は笑いながら、窓の外に目をやった。朝日の中に、富士山が青く浮かんでいる。夏の富士は、雪が消えて、春よりずっと近く見えた。

「ねえ、京次さん。覚えてる? 小学生の頃、桂川の河原で、わたしが石を拾って、あなたに見せたこと」

「……覚えてます」

「きれいな石だと思ったのに、あなたが『それはただの石だ』って言ったの」

「言いましたか」

「言ったわ。それで、わたしが泣いたら、あなたが河原じゅう探して、もっときれいな石を持ってきてくれた」

「覚えてません」

「嘘。耳が赤い」

 京次は麦茶を飲み干して、コップを返した。

「あの石、まだ持ってるのよ。机の引き出しに」

「……そうですか」

「ほら、また『そうですか』」

 瑞穂は笑ったが、その笑顔は、すぐに少しだけ曇った。

「秋にね、結納を交わすことになりそうなの。慎吾さんと」

 京次は黙っていた。

「父が決めたの。来年の秋だって」

「……おめでとうございます」

「京次さんは、いつもそう言うのね」

「ほかに、何を言えばいいんですか」

 瑞穂は答えなかった。花入れの桔梗に手を伸ばし、少しだけ向きを直した。

「最近、父が夜遅くまで書斎にいるの」

「お忙しいんですね」

「お客さまも多いのよ。夜中に、裏口から入ってくるお客さま」

「……裏口から?」

「ええ。わたしの部屋から、車の音が聞こえるの。ナンバーまでは見えないけど」

 瑞穂は何気なく言って、それから京次の顔を見た。

「どうしたの、怖い顔」

「いえ」

「京次さん、ときどきそういう顔をするわ。何か考えているときの顔」

「掃除の段取りを考えてるだけです」

「そう」

 瑞穂は魔法瓶を籠にしまい、立ち上がった。

「木曜日も、来るわね」

「……はい」

「京次さんも、来る?」

「仕事ですから」

「そうね。仕事だものね」

 扉が閉まると、桔梗の青だけが部屋に残った。京次はしばらくそれを見ていた。

 それから、手帳に小さく書きつけた。

 《西條邸。深夜、裏口に来客》

◇

「お父さん、あした海行こう!」

「行かねえよ。仕事だ」

「えー! 夏休みなのに!」

 八月の夕方。志村家の台所には、子どもたちの声が飛び交っていた。

 達也は鍋の中のほうとうをかき混ぜながら、背中で抗議を聞いていた。美咲も翔太も陽菜も、夏休みに入ってから、毎日どこかへ連れていけと言う。

「海は無理だけど、お盆に河口湖なら連れてってやる」

「湖じゃん!」

「湖だって水だろ」

「しょっぱくないじゃん!」

「しょっぱいのがいいなら、味噌汁でも飲んでろ」

 子どもたちが一斉に文句を言い、恵子が笑いながら「ほら、お皿並べて」と追い立てた。

 食卓に鍋を運ぶと、恵子が小声で言った。

「ねえ、あんた」

「ん」

「最近、なんかあった?」

 達也の手が止まった。

「なんで」

「夜中に、作業場の明かりがついてるから。何してんの、あんな時間に」

「……見積だよ。西英の仕事が増えたから」

「それはいいことじゃない」

「ああ」

「じゃあ、なんでそんな顔してんの」

「どんな顔だよ」

「なんか、嘘ついてるときの翔太みたいな顔」

 達也は笑ってごまかした。恵子は笑わなかった。

「あんた、昔から嘘が下手なんだから。何かあったら、ちゃんと言ってよ」

「何もねえって」

「ほんとに?」

「ほんとだ」

 恵子はしばらく達也の顔を見ていたが、やがて「そう」とだけ言って、箸を並べ始めた。

 夜十一時。子どもたちが寝静まったあと、達也は作業場の机に向かっていた。古いパソコンの画面には、来月の現場の見積書が二つ、並んで開いている。

 片方の数字を打ち込み、もう片方の数字を打ち込む。どちらも、自分の手で作った数字だった。どちらが本物で、どちらが嘘なのか、打ち込んでいるうちにわからなくなってくる。

 事務所の電話が鳴った。

 こんな時間にかけてくる相手は、一人しかいない。

「……アロー」

『タツヤ! ドーブルイ・ヴェーチェル!』

 受話器の向こうで、ニコライの陽気な声が弾けた。サハリンとの時差は二時間。向こうは、もう夜中の一時のはずだ。

「お前、寝ろよ。何時だと思ってんだ」

『ねない。ニコライ、ねるの、きらい』たどたどしい日本語だった。『ショベル、ついた。とても、いい。エンジン、こえ、きれい。タツヤ、てんさい』

「そりゃよかった」

『つぎ、ふたつ。いつ?』

「秋には出せる。今、こっちも忙しくてな」

『いそがしい、いいこと』

「ああ」

 少しの沈黙があった。電話の向こうで、ニコライが何かを飲む音がした。

『タツヤ。こえ、げんきない』

「そうか?」

『そう。ニコライ、わかる。なにか、あった?』

 達也は窓の外を見た。作業場の前の道を、街灯が白く照らしている。

「……ニコライ。お前の国じゃ、困ったとき、どうする」

『こまった?』

「仕事のために、人を騙さなきゃいけないとき」

 ニコライはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと言った。

『ロシアでは、ともだちのために、うそ、つく。でも、かぞくには、うそ、つかない。ぜったい』

「……家族には、か」

『そう。かぞくに、うそついたら、かえるところ、なくなる』

 達也は受話器を握りしめた。台所で、今夜、恵子についた嘘を思い出していた。

『タツヤ。もし、こまったら、ニコライ、いる。サハリン、ちかい。ふねで、すぐ』

「すぐじゃねえよ。船で何日かかると思ってんだ」

『こころは、すぐ』

 達也は思わず笑った。

「お前、たまにいいこと言うな」

『ニコライ、いつも、いいこと、いう』

「言わねえよ。この前は、ウォッカで歯を磨けって言ってたじゃねえか」

『それも、いいこと』

 受話器の向こうで、ニコライが豪快に笑った。

『タツヤ、おやすみ。スパコイノイ・ノーチ』

「ああ。スパコイノイ・ノーチ」

 受話器を置くと、作業場はまた静かになった。パソコンの画面では、二つの見積書が、同じ顔をして並んでいた。

 達也は保存ボタンを押した。

◇

「天野さん、これ、志村工務店さんの請求書です」

「はいはい。そこ置いといて」

 八月の終わり。西英不動産の経理部で、水緒は回ってきた請求書の束をめくっていた。禾生の造成工事、第一期分。発注書と請求書の金額を照らし合わせ、支払伝票を起こしていく。

 志村工務店。

 その名前を見て、水緒は小さく笑った。

「タツ兄、儲かっとるやん……」

「なに、知り合い?」と天野。

「地元の、昔からの仲間なんです。三人子どもがいて、いつもお金ないって言ってて」

「じゃあ、よかったじゃない。西英さまさまだね」

「ほんとに」

 水緒は請求金額を電卓で確かめた。去年までの志村工務店の請求書に比べて、ずいぶん大きな数字だった。造成の規模が大きいのだろう。リニアの噂が出てから、何もかもが大きくなっている。

 数字を見て、おかしいと思えるのは才能だ。

 兄の声が、ふと頭をよぎった。

 水緒は請求書をもう一度見た。単価の欄。数量の欄。どこにも、おかしいところはなかった。おかしいところがないように、きちんと作られていた。

「……ま、いっか」

 水緒は支払伝票に判を押した。

 窓の外では、夏の終わりの富士山が、薄い雲を頭にかぶっていた。

◇

「瑞穂ちゃん、こっちこっち!」

 八月の土曜日。甲府駅前の喫茶店の窓際で、水緒は大きく手を振った。

 店に入ってきた瑞穂は、麻の白いブラウスに、つばの広い帽子をかぶっていた。それだけで、店じゅうの客が一斉に顔を上げた。水緒はもう慣れっこだったが、それでも少しだけ、胸の奥がちくりとした。

「ごめんなさい、待った?」

「ううん、今来たとこ。……って、言うやつ」

「水緒ちゃん、それ、ドラマの台詞でしょう」

「バレた?」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 瑞穂とは、子どもの頃から姉妹のように育った。年は三つしか違わない。けれど、片や西英の社長令嬢、片や西英の経理部員。大人になるにつれて、その差は、口に出さなくても二人の間に横たわるようになっていた。

「で、今日はなんの買い物?」

「結納の帯締めを見たくて。母が、好きなのを選びなさいって」

「……結納、決まったと?」

「来年の秋。まだ一年以上あるけど」

「慎吾さん、だっけ。銀行の」

「ええ」

「どんな人?」

 瑞穂はストローでアイスティーの氷を回した。

「感じのいい人よ。誰にでも優しくて、話も上手で」

「ふうん」

「……なに?」

「瑞穂ちゃん、好きな人の話するとき、そんな顔せんよ」

「どんな顔?」

「お見合い写真みたいな顔」

 瑞穂は笑い、それから少しだけ目を伏せた。

「水緒ちゃんは、鋭いのね」

「経理やけん。数字の嘘は、すぐわかると」

「数字じゃないわ」

「人の顔も、似たようなもんよ」

 水緒はクリームソーダのさくらんぼを口に放り込み、何気ない調子で言った。

「ねえ。お兄ちゃんのこと、どう思っとると?」

 瑞穂のストローが止まった。

「……どうって」

「最近、早起きやん、お兄ちゃん。月曜と木曜だけ、やたら機嫌いいし」

「掃除の日でしょう」

「掃除は毎日たい」

「……」

「瑞穂ちゃん、耳赤い」

「赤くないわ」

「赤い。お兄ちゃんと同じ赤さ」

 瑞穂は帽子のつばを少し下げた。水緒はそれを見て、声を立てて笑った。笑いながら、胸の奥のちくりとしたものが、少しだけ大きくなったのを感じた。

 何もかも持っている人が、兄まで持っていってしまう。

 そんな考えが浮かんで、水緒は慌ててクリームソーダを吸い込んだ。

「水緒ちゃんは?」

「え?」

「好きな人、いないの?」

「おらんよ。経理部、おじさんばっかりやもん」

「東京に出たら、出会いがあるかもしれないわよ」

「東京ねえ」

 水緒は窓の外を見た。甲府の街の向こうに、南アルプスの山並みが霞んでいる。

「行ってみたいな、とは思うけど。お母さんのこともあるし」

「京次さんがいるじゃない」

「お兄ちゃんは、いつまでおるかわからんもん」

 言ってから、水緒は自分の言葉に少し驚いた。そうだ。兄は、帰ってきたのと同じくらい唐突に、また、いなくなるかもしれない。

 瑞穂も、同じことを考えたような顔をしていた。

「……帯締め、一緒に選んでくれる?」

「もちろん。いちばん高いの選んじゃろ」

「意地悪」

「お嬢さまやけん、平気平気」

 二人は笑いながら店を出た。真夏の甲府の日差しが、アスファルトの上で白く揺れていた。

◇

 お盆は結局、仕事でつぶれた。約束の河口湖は、八月最後の日曜日にずれ込んだ。

 その朝、志村家の作業場の前に、軽トラックの荷台に乗った子どもたちの歓声が響いた。

「河口湖! 河口湖!」

「湖は湖だぞ。しょっぱくねえからな」

「もういいって、それ!」

 達也は運転席に乗り込み、助手席の恵子と顔を見合わせて笑った。荷台では、美咲が陽菜を膝に抱え、翔太が身を乗り出して風を受けている。

「ちゃんと座ってろよ。落ちても拾ってやんねえぞ」

「お父さんひどい!」

 車が走り出すと、恵子が窓の外を見ながら言った。

「ねえ」

「ん」

「この前は、ごめんね。疑うようなこと言って」

「……いや」

「あんたが頑張ってるの、知ってるから」

 達也はハンドルを握る手に、少しだけ力を込めた。

 国道沿いに、新しい看板がひとつ立っていた。真新しい白地に、青い文字。

《リニア新駅予定地周辺 土地のご相談は 西英不動産へ》

 予定地、と書いてある。誰も、まだ何も決めていないのに。

「恵子」

「なに」

 家族には、嘘をつかない。ぜったい。

 ニコライの声が、耳の奥で鳴っていた。

「……河口湖、ボートでも乗るか」

「いいね。子どもたち、喜ぶよ」

 恵子が笑った。達也も笑った。

 バックミラーの中で、子どもたちの顔が夏の光を浴びて輝いていた。その向こうに、禾生の田んぼが小さく遠ざかっていく。

 赤い線で囲まれた田んぼの中に、まだ一軒だけ、瓦屋根の平屋が残っていた。

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