〈春れ磁石〉第一章・嘘 (2005年春)
富士吉田の朝は、富士山がいちばん先に起きる。
午前五時四十分。西英本社ビルの裏口で、西原京次は守衛室の小窓を軽く叩いた。
「おはようございます」
「おう、西原くん。今朝も早えなあ」
守衛の渡辺が、ストーブの前から腰を上げた。六十を過ぎた、顔じゅう皺だらけの男だ。
「冷えますね」
「冷えるさ。四月の半ばだってのに、まだ富士は真っ白だ」渡辺は鍵束をじゃらりと鳴らして、清掃用具庫の鍵を外した。「ほれ。七階も頼むよ」
「はい」
「あんた、ほんとに口数が少ねえなあ。半年もいて、天気の話しかしたことねえじゃねえか」
「すみません」
「謝るこたねえよ。うるせえ奴よりよっぽどいい」
京次は小さく頭を下げ、鍵を受け取った。東の空はまだ群青で、ビルの影の向こうに、雪をかぶった山頂だけが薄紅に光っている。吐く息は白かった。
灰色の作業着に袖を通し、モップとバケツをワゴンに積む。七階建ての本社ビルを、始業の八時半までに一階から順に磨き上げていくのが京次の仕事だった。三人いる早番のうち、開発部の入る六階と、役員フロアの七階を任されているのは京次だけだ。遅刻も欠勤もなく、余計な口もきかない。その評判が、彼にその鍵を持たせていた。
階段を上がりながら、京次は左手首に目を落とした。作業着の袖口の下で、文字盤が鈍く光る。時刻を確かめ、袖を引き下ろす。この腕時計だけは、どうしても外す気になれなかった。
七階の廊下には、絨毯が敷かれている。掃除機をかけ、窓を拭き、灰皿を空け、屑籠の中身を大きな袋に移していく。社長室、専務室、常務室。屑籠の中身は、たいていが丸めたファクス用紙と、煙草の空き箱と、会議資料の写しだ。袋の口を縛る前に、京次はどの部屋で何を拾ったかを頭の中で並べ直す。この半年で身についた癖だった。
専務室の灰皿には、吸い殻が十一本残っていた。
専務は煙草を吸わない。
――昨夜、誰かが遅くまでここにいた。
社長応接室の前まで来たとき、京次は手を止めた。扉の隙間から、明かりが漏れている。
この時間に人がいるはずがない。ワゴンを壁際に寄せ、そっと扉を押した。
応接室の真ん中、黒い革張りのソファの前に、和服の女がひとり膝をついていた。低い卓に竹の花入れを置き、白い花を一本ずつ挿している。足音に気づいて顔を上げたその人を見て、京次は息を止めた。
「……京次さん?」
西條瑞穂だった。
淡い藤色の小紋に、髪を後ろでひとつにまとめている。化粧っ気はほとんどない。それでも、朝の蛍光灯の下で、その顔だけが別の光源を持っているように見えた。町の人間が冗談まじりに「今世紀いちばんの美人」と呼ぶのを、京次はずっと大げさだと思ってきた。思ってきたはずだった。
「失礼しました。人がいるとは思わなかったので」
「待って」瑞穂が腰を浮かせた。「ごめんなさい、驚かせて。今日、父のお客さまがいらっしゃるから、お花を」
「こんな時間にですか」
「人がいない時間のほうが、落ち着いて活けられるの」瑞穂は小さく首をすくめた。「京次さんこそ。本当に、ここで働いていたのね」
「ええ」
「水緒ちゃんから聞いてはいたけど。……見るまで信じられなかった」
瑞穂は京次の作業着を、頭のてっぺんから足もとまでゆっくり眺めた。値踏みする目ではなかった。昔、川原で拾った石を手のひらで転がして、それが何であるかを確かめていたときと同じ目だった。
「似合わない?」
「……何がですか」
「その服。京次さんが着ると、なんだか借り物みたい」
「借り物じゃありません。会社の支給品です」
瑞穂がくすりと笑った。
「お母さまのこと、大変ね」
「たいしたことはありません」
東京で十四年。母の具合が悪くなったから帰ってきた――町の誰に訊かれても、京次はそう答えることにしている。嘘ではない。ただ、すべてでもない。
「花、何という花ですか」
話を変えたかったのか、ただ訊きたかったのか、京次自身にもわからなかった。
「辛夷。今朝、うちの庭で切ってきたの」瑞穂は花入れを少し回して、角度を確かめた。「お客さまは銀行の方だから、本当はもっと華やかなものがいいって、秘書の方には言われたんだけど」
「じゃあ、どうして」
「わたし、この花が好きなの。それに――」瑞穂は花から目を離さずに言った。「華やかなものは、すぐに見飽きられるでしょう」
「白いですね」
「……それだけ?」
「白いです」
「ええ。白いの」
瑞穂は今度こそ声を立てて笑った。笑うと、二十五歳の顔が急に幼い頃に戻る。
京次はバケツを持ち直した。そのとき、作業着の袖がずれて、左手首の時計が蛍光灯をはじいた。
瑞穂の視線が、一瞬そこに留まった。
京次はさりげなく袖を引き下ろした。瑞穂は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ首をかしげた。
「……掃除、続けてください。邪魔してごめんなさい」
「いえ。応接室は、最後にします」
「ありがとう」
扉を閉めると、廊下はまた静かになった。京次は深く息を吐いた。胸の内側で、何かが場違いな音を立てていた。
午前七時十分。ビルの裏手、ゴミ集積所の陰で、京次は今日はじめての煙草に火をつけた。セブンスターの煙が、冷たい空気の中でまっすぐに立ち上る。
作業着の内ポケットで、携帯電話が震えた。
町の誰も、彼が二台持っていることを知らない。妹の水緒さえも。
表示された番号を確かめ、京次は通話ボタンを押した。
「はい」
『早いな』低く、穏やかな声だった。『新聞は読んだか』
「まだです」
『読んでおきなさい。地元紙の、地域面の下のほうだ』電話の向こうで、紙をめくる音がした。『小さな記事だ。だが今日一日で、その小さな記事が町じゅうを走る』
「何を見ておけばいいですか」
『誰が、どう走るか。それだけでいい』
「わかりました」
『京次君』
「はい」
『体に気をつけなさい。山の春は冷えるだろう』
通話が切れた。京次はしばらく携帯電話を見つめていたが、やがてそれを内ポケットに戻した。
午前八時。守衛室の前を通ると、渡辺が手招きした。
「西原くん、見たか、これ」
渡辺が広げていたのは、地元紙の朝刊だった。地域面の右下に、二段の記事がある。
《中央新幹線 県内中間駅、実験線沿線が有力か 関係者が示唆》
「リニアの駅が、この辺に来るかもしれねえってよ」
「そうですか」
「そうですかって、あんた」渡辺は呆れたように新聞を叩いた。「来たら大ごとだぞ。土地の値段は跳ね上がるし、東京まで……何分だ?」
「さあ」
「さあって。大学出てんだろ、あんた」
「出ても、わからないことはあります」
渡辺は声を上げて笑い、それから急に声を落とした。
「……だけどな、うちの開発部の連中、ゆうべ遅くまで残ってたぜ。十二時過ぎまで、七階の明かりがついてた」
「七階、ですか」
「ああ。新聞が出る前の晩にだぞ。妙な話だと思わねえか」
京次は答えず、新聞を丁寧にたたんで渡辺に返した。
守衛室のテレビが、愛知で開かれている万博のニュースを流していた。超電導リニアの車両の前に、子どもたちが行列を作っている。「最高時速五百八十一キロ」というテロップが、画面の下を流れていった。
応接室に戻ると、もう誰もいなかった。黒い卓の上で、辛夷の白い花が、まだ開ききらずに朝の光を受けていた。
◇
同じ朝、都留の志村工務店では、志村達也が台所で味噌汁の鍋をかき回していた。
七時。ちゃぶ台のまわりで、三人の子どもたちが陣地争いをしている。
「お父さん、翔太がわたしのお箸取った!」
「取ってねえし! 姉ちゃんが先に俺の卵焼き取ったんだし!」
「うわあああん」
小学五年の長女・美咲が弟の箸を取り上げ、三年の長男・翔太が姉の髪を引っぱり、まだ保育園の末っ子・陽菜が両方の真似をして泣く。
「いい加減にしな!」
妻の恵子が一喝すると、一瞬だけ静かになり、またすぐに元に戻った。
「あんた、また朝から凝ったもの作って」恵子が呆れ顔で鍋をのぞき込んだ。
「凝ってねえよ。ただの味噌汁だ」
「ただの味噌汁に、ふきのとうと油揚げと、おまけに柚子の皮まで入れる人、この町にあんたしかいないよ」
「春だからな」
「春だからって」
「春は苦いもん食わねえと、体が起きねえんだよ」
達也は笑って、木杓子で味をみた。四方津の調理師学校を一年で辞めて、二十年近くになる。包丁を握れば、いまでも手は勝手に動いた。
「お父さん、なんで料理人にならなかったの」
美咲が、味噌汁をすすりながら訊いた。
「なってたら、お前らに毎朝こんなうまいもん食わせてやれねえだろ」
「料理人だったら、もっとうまいもん作れたんじゃない?」
「……お前、母ちゃんに似てきたな」
恵子が吹き出した。
奥の座敷から、母が杖をついて出てきた。
「達也、新聞」
「あとで読むよ」
「読んどけし。リニアの駅が、来るっちゅう話だよ」
達也は鍋の火を止めた。
「どこに」
「この辺だって。実験線のあるとこが有力だって、書いてあるじゃん」
母がちゃぶ台の上に広げた地元紙を、達也は立ったまま読んだ。二段の小さな記事だった。関係者によれば――。誰が、どの関係者が、とは書いていない。
「眉唾だな」
「眉唾かねえ」
「この十年で何回出た話だよ。駅が来る、来ない、来る、来ない。花占いじゃあるまいし」
そう言いながら、達也は記事をもう一度最初から読み直した。
「おばあちゃん、リニアってなに?」
陽菜が、祖母の袖を引っぱった。
「すっごく速い電車だよ。東京まで、あっという間」
「ディズニーランドも?」
「ディズニーランドもさ」
「やったあ!」
子どもたちの歓声を背中で聞きながら、達也は新聞をたたんだ。
八時。工務店の作業場には、もう若い衆が四人集まっていた。高校を出たばかりの見習いから、達也の父がこの店を開いたときから働いている六十過ぎの職人・源さんまで。全員が、同じ新聞の話をしていた。
「社長、リニア来たら、俺ら仕事に困らないっすね」
「駅前の再開発とか、マンションとか!」
「ばか、駅が来たって、うちみたいな小さいとこに仕事なんか回ってくるかよ。ゼネコンが全部持ってくわ」
「でも西英さんが仕切るなら、うちにも――」
「おしゃべりはそのへんにして、積み込み手伝え」
達也は手を叩いて若い衆を散らした。源さんだけが動かず、煙草をくわえたまま達也を見ていた。
「タツ。浮かれるなよ」
「浮かれてねえよ」
「お前の親父さんもな、昔、似たような噂で一度痛い目見てる」
「……聞いたことねえぞ、そんな話」
「言わなかったからな」源さんは煙を吐いた。「土地の噂ってのは、磁石みてえなもんだ。いろんなもんが勝手に寄ってくる。いいもんも、悪いもんもな」
それだけ言うと、源さんはトレーラーのほうへ歩いていった。
作業場の奥、トレーラーの荷台には、黄色い中古の油圧ショベルが一台載っていた。年式は古いが、エンジンは達也が自分で手を入れた。今日のうちに新潟の港へ運び、そこから船でロシアへ渡る。
机の上のファクスに、昨夜届いた紙が残っていた。キリル文字と、たどたどしい英語と、さらにたどたどしい日本語が混ざった文面。
《タツヤ ありがとう つぎは ふたつ ほしい ニコライ》
「スパシーバ、ニコライ」
達也は苦笑して、ファクス用紙を畳んだ。サハリンの男と取引を始めて三年になる。西英の仕事の合間に、使い古された重機を買い取って整備し、海の向こうへ売る。たいした儲けにはならないが、景気のいいときばかりではない下請けにとって、小さな命綱だった。ロシア語も、いつの間にか挨拶と数字くらいは口から出るようになった。
事務所の電話が鳴った。
「はい、志村工務店」
『ああ、志村さん。西英の堀内です』
西英不動産の開発部課長、堀内の声だった。いつもより少しだけ、声が明るい。
『朝早くにすみませんね。新聞、ご覧になりました?』
「ええ、まあ」
『あれはね、まだどうなるかわかりませんよ。わかりませんけど』堀内は言葉を切った。『近いうちに、禾生のあたりでちょっと土地をまとめる話がありまして。造成やら解体やら、志村さんのところにお願いすることになると思うんです』
「ありがたい話ですね」
『それでね、ひとつお願いが』堀内の声が、半音低くなった。『見積を、二通作っていただけますか。中身は同じで、金額だけ違うものを』
「……二通?」
『差額の扱いは、こちらでうまくやりますから』
達也は受話器を握ったまま、窓の外に目をやった。作業場の前の道を、ランドセルを背負った子どもたちが列になって歩いていく。その中に、美咲の赤いランドセルが見えた。
「堀内さん、それは」
『志村さん』堀内の声は、あくまで柔らかかった。『去年、うちからの発注、どのくらいでしたっけね』
達也は黙った。
『いや、いいんです。無理にとは言いません。ほかにも、お願いできるところはありますからね』
「……どのくらい違えばいいんで」
『詳しくは、明日にでも。いつもの店で』
「わかりました」
受話器を置いたあと、達也はしばらく動かなかった。机の引き出しを開け、帳面を出し、先月の支払い予定を指でなぞる。若い衆の給料、ショベルの部品代、母の通院費、子どもの給食費。数字はいつも、ぎりぎりのところで帳尻を合わせている。
去年、西英からの発注は全体の七割を超えた。
「社長ぉ、トレーラー出しますよぉ」
「おう、今行く」
達也は帳面を閉じ、帽子をかぶった。
作業場の前に出ると、春の陽射しが目にしみた。桂川の向こう、山の斜面を縫うように、リニア実験線の白い高架が見える。あの上を、時速五百キロの車両が風のように走り抜けていくのを、この町の人間は何度も見てきた。見てきたが、それが自分たちの暮らしに何かを運んでくると、本気で信じた者は少なかった。
――今日までは。
「タツ兄、おはよう!」
自転車で通りかかった近所の主婦が、手を振った。
「リニアの話、聞いた? うちの畑も高く売れるかしら」
「売るなよ、早まって」
「あら、なんでよ」
「なんでもだ。売る前に、俺に一言いえし」
達也は笑って手を振り返した。笑いながら、さっきの堀内の声を思い出していた。
トレーラーがゆっくりと動き出した。黄色いショベルが、海を渡る。
◇
「西原さん、これ、今日中に起票しておいて」
昼休みまであと十分というところで、経理部長の小俣が、水緒の机に薄いクリアファイルを置いた。
水緒は仕事用の眼鏡を押し上げ、中身を確かめた。仮払金の申請が三件。用途はいずれも「土地取得に係る手付金」。支払先は個人名で、三人とも水緒の知らない名前だった。住所の欄には、都留市禾生と小形山の番地が並んでいる。
「部長、これ、契約書の写しは」
「あとで開発部から回る」
「稟議は」
「専務の決裁は取ってある」
「でも、手付金って、普通は契約と同時に――」
「西原さん」小俣は眼鏡の奥で目を細めた。「急ぎなんだ」
それだけ言うと、小俣は自分の席に戻っていった。いつもなら、手付金ひとつに書類を三重に揃えないと気が済まない男だった。
水緒は申請書の金額欄を見た。一件あたりの金額が、禾生の田畑の相場にしては、ずいぶんと大きい。
「……今朝の新聞のせい、っちゃろか」
口の中で小さく呟いて、自分で少し笑った。テレビドラマの、福岡出身の俳優の真似。高校の頃から、考えごとをするときや気持ちが高ぶったときに、つい出てしまう。
「出た、西原さんの博多弁」
隣の席の天野美香が、パソコンの画面から目を離さずに言った。水緒より三つ上の先輩で、経理部でいちばんの噂好きだ。
「天野さん、聞こえてました?」
「聞こえるよ。で、それ何?」
「手付金。禾生の土地」
「ふうん」天野は椅子ごと寄ってきて、ファイルをのぞき込んだ。「うわ、高っ。これ、例の新聞のやつでしょ。開発部、朝から電話鳴りっぱなしだって」
「やっぱり、そうなんですかね」
「そうに決まってるじゃん。うちの会社、こういう鼻だけは利くんだから」天野は声を落とした。「ねえ、ここだけの話。開発部の堀内さん、ゆうべ専務とずっと七階にいたらしいよ」
「新聞が出る前に?」
「そ。おかしいよねえ」
天野は楽しそうに言って、自分の席に戻っていった。
西英不動産の経理部は、本社ビルの四階にある。窓からは、富士吉田の古い町並みと、その向こうにそびえる富士山が見える。高校を出てすぐにここへ入って、十年になる。最初の三年は伝票の束を運ぶだけで終わった。簿記の検定を一級まで取ったのは、誰に言われたからでもない。大卒の同期が自分を追い越していくのを、黙って見ているのが嫌だったからだ。
昼休み、水緒は財布を持って席を立った。
エレベーターホールの手前、給湯室の前で、灰色の作業着の背中が床を拭いていた。
「お兄ちゃん」
京次が振り返った。モップを持ったまま、軽く顎を引いて会釈する。会社では他人のふりをして、と言ったのは水緒のほうだったが、兄はそれを律儀に守りすぎていた。
「誰もおらんけん、いいよ」
「……博多弁」
「うるさい」
水緒は自販機で缶コーヒーを二本買い、一本を兄に押しつけた。
「お母さん、今朝どうだった」
「よく眠ってた。昼に一度帰る」
「無理しなくていいよ。夜はあたしが見るけん」
「お前こそ、残業続きだろ」
「経理が忙しいのは月末だけ。今は平気」
京次は缶コーヒーのプルタブを開けず、手の中で転がした。
「新聞、読んだか」
「読んだ。うちの部署、朝から大騒ぎ」水緒は声を落とした。「さっきも、禾生の土地の手付金が三件まとめて回ってきた。相場の倍くらい。部長、契約書もまだなのに起票しろって」
京次の目が、ほんのわずかに細くなった。
「名義は」
「個人。知らない人ばっかり」
「住所は」
「禾生と小形山。……なんでそんなこと訊くと?」
「いや」
「お兄ちゃん、昔からそう。訊くだけ訊いて、自分のことは何も言わん」
「言うようなことがない」
「あるやろ。十四年ぶん」
京次は黙った。
水緒は兄の作業着を見た。袖口がすり切れている。
八王子大学。偏差値七十二。都留の町で、あの大学に受かった人間は、兄のほかに聞いたことがない。父の事業が飯能で潰れて、この町に流れてきた一家の長男が、東京の一流大学へ行き、一流の会社に入った。母はそれを、近所じゅうに自慢して回った。
その兄が、十四年東京にいて、ある日ふいに帰ってきて、自分の勤める会社のトイレを磨いている。
「お兄ちゃんさ」
「ん」
「……東京の会社、なんで辞めたと」
「辞めたかったから」
「答えになっとらん」
「なってる」
「なっとらん!」
声が大きくなって、水緒は慌てて周りを見回した。誰もいない。京次は、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「水緒」
「なに」
「お前は、いい経理になったな」
「……は?」
「数字を見て、おかしいと思えるのは才能だ。大事にしろ」
それだけ言うと、京次は缶コーヒーをポケットにしまい、モップを持ち直した。
訊きたいことは、まだ山ほどあった。どうして何も話さないのか。どうして、作業着の袖の下に似合わない時計をしているのか。けれど、それを訊いてしまえば、兄はまた黙って、どこかへ行ってしまう気がした。
水緒はスカートのポケットに手を入れた。指先に、小さな布袋が触れた。色褪せた、赤い錦のお守り。父がいなくなった次の日、まだ小学校に上がる前の水緒の首に、兄が黙ってかけてくれたものだ。紐は何度も結び直されて、こぶだらけになっている。
「今夜、タツ兄のとこで飲むって。リニアの話で盛り上がろうって、さっきメール来た」
「聞いた」
「瑞穂ちゃんも来るかもって」
京次の手が、モップの柄の上で止まった。
「……今日は、客があるって言ってた」
「え、なんで知っとうと」
「朝、応接室で花を活けてた」
水緒は兄の顔をまじまじと見た。兄はもう床に目を落とし、モップを動かし始めていた。耳の後ろが、少しだけ赤かった。
「ふうん」
「なんだ」
「べっつにー」
「水緒」
「なーんも言うとらんよ?」
水緒は兄の肩を軽く叩いた。
「じゃ、夜ね。遅れんでよ」
四階に戻ると、机の上のクリアファイルが、さっきと同じ場所にあった。水緒は眼鏡をかけ直し、電卓を叩き始めた。三件の手付金。合計の数字を伝票に書き込み、起票者の欄に自分の名前を記す。
西原水緒。
ボールペンの先が、その四文字の上でほんの一瞬だけ止まった。
――数字を見て、おかしいと思えるのは才能だ。
理由は、自分でもわからなかった。
◇
西條家の屋敷は、富士吉田の町を見下ろす高台にある。
祖父の英之助が雑貨屋の店先から身を起こして最初に建てた家を、父の英明が二十年前にすっかり建て替えた。数寄屋造りを模した平屋に、手入れの行き届いた庭。庭の奥には、瑞穂のために父が建てた四畳半の茶室がある。
午後七時。座敷には、父と、鷹司家の父子と、瑞穂の四人が向かい合っていた。
「いや、見事な辛夷でした。応接室のあれは、瑞穂さんが?」
鷹司慎吾が、杯を傾けながら微笑んだ。二十九歳。父親は東京に本店を置く大手銀行の専務で、慎吾自身もその銀行の本店営業部にいる。背が高く、仕立てのいいスーツを着こなし、誰に対しても感じのいい笑顔を向ける。
「拙いものをお見せしました」
「拙いなんて。花のことはわかりませんが、ああいう白い花は、銀行の応接室には絶対に置かれない。だから余計に、目に残りました」
「銀行には、どんなお花を置くんですか」
「胡蝶蘭ですね。それも、できるだけ大きいやつ」
「どうして」
「高そうに見えるから」
瑞穂が思わず笑うと、慎吾も笑った。慎吾の父がおかしそうに咳払いをし、英明も口の端だけで笑った。
この会食が何のためのものかは、瑞穂も知っていた。正式な話はまだ先だが、家と家の間では、もうおおよそのことが決まっている。そう遠くないうちに結納を交わし、やがて式を挙げる。相手はこの、感じのいい人。
瑞穂は自分の手もとを見た。料理は、父が甲府から呼んだ板前が作ったものだった。春の山菜と、富士の湧き水で育てた鱒。美しかったが、味はよくわからなかった。
「ところで西條さん、今朝の新聞は」
鷹司の父が、何気ない調子で切り出した。
「リニアの駅の件ですか」英明は杯を置いた。「噂ですよ。この十年、何度も出ては消えた話です」
「それにしては、御社の動きが早いと、うちの者が言っておりましたが」
「さあ。現場の人間は、噂に敏感ですから」
「噂に敏感な現場ほど、頼もしいものはありませんな」
「恐れ入ります」
父の声は、いつもと少しも変わらなかった。
瑞穂は、ふと父の横顔を見た。冷たく整った、五十四歳の顔。社員の誰もが恐れ、取引先の誰もが一目置く顔。その顔に、今朝の記事への驚きは、一片も浮かんでいなかった。
――お父さまは、知っていたのだ。
なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。ただ、子どもの頃から、父が本当に驚いたときの顔を、瑞穂は一度も見たことがなかった。
「瑞穂さん」
慎吾の声で、我に返った。
「今度、東京にいらっしゃいませんか。銀座に、いい茶道具を扱う店があるんです。お茶の腕前は本物だと、お父上から伺いました」
「父は、娘のことを大げさに言うんです」
「だとしても、拝見したいな。……あ、もちろん、お茶の話ですよ」
「ほかに何の話があるんですか」
「いや、それは」慎吾は頭をかいた。「参ったな。瑞穂さんは、手ごわい」
屈託のない、少年のような目だった。この人は、たぶん悪い人ではない。そう思うのに、瑞穂の胸は少しも動かなかった。
食事が終わり、父親たちが座敷で碁を打ち始めると、慎吾は庭へ出ようと瑞穂を誘った。
四月の夜の庭は、沈丁花の香りがした。石灯籠に灯が入り、池の鯉が時折、水面を跳ねる。
「僕のこと、退屈な男だと思っているでしょう」
「いいえ」
「嘘が下手だな」慎吾は笑った。「いいんです。最初から好かれようとは思っていません。ゆっくりでいい。時間はたっぷりあるんだから」
「慎吾さんは、どうしてわたしと?」
「どうして、とは」
「父の会社と、あなたの銀行のため。それ以外に、何か理由があるのかしらと思って」
慎吾は一瞬、真顔になった。それから、また感じのいい笑顔に戻った。
「あなたが美しいから、では駄目ですか」
「駄目です」
「どうして」
「それは、わたしが選んだものじゃないから」
慎吾は黙り、やがて小さく息を吐いて笑った。
「……やっぱり、手ごわい」
慎吾の手が伸びて、瑞穂の髪に触れた。夜風に乱れた後れ毛を、そっと耳にかける。慣れた手つきだった。
そのとき、慎吾の上着の中で、携帯電話が短く震えた。慎吾はそれを取り出し、画面をちらりと見て、すぐにしまった。表示されていたのは、女の名前のように見えた。
「失礼。仕事の連絡です」
「お忙しいのね」
「ええ、まあ」
瑞穂は一歩下がった。
「ごめんなさい、慎吾さん。今夜、都留の友だちと約束があって。少しだけ顔を出したいの」
「今から? もう八時ですよ」
「昔からの仲間なの。小さい頃から、ずっと」
「僕も行っていいかな」
「……工務店の二階で、焼酎を飲むような集まりですよ」
「それは」慎吾は苦笑した。「また今度にしておきます」
座敷に戻り、父に一言断りを入れると、英明は碁盤から目を上げずに「遅くなるな」とだけ言った。
車の後部座席で、瑞穂は窓の外を流れる夜の町を見ていた。
「お嬢さま、志村さんのところでよろしいんですね」
運転手の杉山が、ルームミラー越しに訊いた。
「ええ。いつもの、川沿いの空き地で」
「旦那さまには」
「言ってあるわ。……杉山さん」
「はい」
「今朝、早くに本社まで送ってくださったでしょう。あのとき、裏口に誰かいた?」
「守衛の渡辺さんと、清掃の方がおひとり」
「そう」
「それが、何か」
「ううん。なんでもない」
国道沿いの看板の明かりが、ひとつ、またひとつと後ろへ消えていく。
膝の上のハンドバッグには、革表紙の日記帳が入っていた。ニュージーランドへ発つ前の晩から、一日も欠かさずつけている。
今夜、何を書こうか。
白い辛夷のこと。父の横顔のこと。慎吾の電話のこと。
それから――作業着の袖口の下で、一瞬だけ光った、あの時計のこと。
あれは、父が書斎の金庫にしまっているものと、よく似ていた。
◇
志村工務店の二階には、達也の家族が暮らす住まいとは別に、もうひとつ広い板の間があった。もとは資材置き場だったのを、達也が自分で床を張り、炬燵を据え、仲間うちの溜まり場にした部屋だ。
午後八時半。炬燵の上には、達也が腕をふるった料理が所狭しと並んでいた。山菜の天ぷら、鱒の南蛮漬け、ほうとう鍋。それに、なぜか一皿だけ、赤いスープがある。
「なにこれ、タツ兄」
「ボルシチ。ロシアの友だちに教わったんだ。ビーツが手に入んねえから、赤カブで代用したけどな」
「……うわ、美味しい! なんでこんな料理うまいと?」
水緒が頬をふくらませながら言った。缶ビールを二本空けて、博多弁が全開になっている。
「才能だよ、才能」
「調理師学校、一年で辞めたくせに」
「辞めたからこそ、だ。学校なんか行ってたら、型にはまってた」
「それ、辞めた人がみんな言うやつ」
「うるせえ」
京次は、部屋の隅の柱にもたれて、二人のやりとりを聞いていた。手には、ほとんど減っていない焼酎のお湯割り。
「京次、お前も食えよ。突っ立ってねえで」
「食ってる」
「どこがだよ。皿、きれいなまんまじゃねえか」
「さっき天ぷらをもらった」
「一個だけだろ。見てたぞ」
達也が京次の皿に、ほうとうを山盛りにした。
「東京で何食ってたか知らねえが、ここじゃ俺の飯を食え。おふくろさんの分の煮物も持たせるからな」
「……悪いな」
「悪かねえよ」
達也は炬燵に戻り、あらためてこちらを向いた。
「で、京次。お前はどう思う。リニア」
「何が」
「来ると思うか、駅」
京次は少し考えた。
「来るかどうかより、来ると思う人間がどれだけいるか、だろうな」
「出た、お兄ちゃんの難しい話」
水緒が口をとがらせた。達也は声を上げて笑ったが、その笑いはすぐに引いた。
「……実はな、今朝、西英の堀内さんから電話があってよ。禾生のほうで土地をまとめるから、造成を頼むって」
「よかったやん」
「ああ、よかった。よかったんだけどな」
達也は湯呑みの縁を親指でなぞった。何か言いたげな顔をして、結局、言わなかった。
京次は達也の手もとを見ていた。日焼けした、節くれだった指。言いにくい話を抱えているとき、達也はいつもその指で何かをいじる。子どもの頃から、変わらない癖だった。
「堀内さん、ほかに何か言ってたか」
「いや、べつに」達也は顔を上げ、ことさら明るい声を出した。「それより瑞穂、遅えな」
「水緒。禾生の手付金、何件って言った」
「え、三件。……お兄ちゃん、飲みの席でまで仕事の話?」
「なんだよ、手付金って」
「なんでもない。水緒の愚痴だ」
「愚痴やないし!」
そのとき、階段を上がってくる足音がした。
「ごめんなさい、遅くなって」
襖が開いて、瑞穂が顔を出した。朝の小紋ではなく、淡いクリーム色のワンピースに、薄手のカーディガン。それでも、この油と醤油と焼酎の匂いが染みついた板の間には、明らかに場違いな姿だった。
「おっ、お嬢が来た!」
「瑞穂ちゃん、なんそのかっこう。お見合いの帰りやろ」
「お見合いじゃないの。会食」
「同じっちゃ!」
「同じじゃないわ」
「じゃあ何が違うと」
「……お見合いは、断れるもの」
一瞬、部屋が静かになった。瑞穂は自分の言葉に気づいたように、慌てて笑った。
「なんてね。お腹すいちゃった。タツ兄、何かある?」
「おう、あるある。座れ座れ」
水緒が手を引いて、瑞穂を炬燵に座らせた。空いていたのは、京次の隣だけだった。
瑞穂は膝をそろえて座り、京次のほうを見ずに小さく言った。
「お花、見てくれた?」
「見ました。……最後に、応接室を掃除したときに」
「どうだった」
「白かったです」
瑞穂は吹き出した。水緒と達也が怪訝な顔でこちらを見たが、瑞穂は首を振って笑い続けた。
「なに、なんの話?」
「秘密」
「えー、なんそれ。お兄ちゃん、なんの話?」
「花の話だ」
「花の話で、なんでそんな笑うと」
「知らん」
京次は耳の後ろが熱くなるのを感じて、焼酎をひと口飲んだ。
それから一時間あまり、四人はリニアの話をし、昔の話をし、またリニアの話をした。
「駅ができたら、桂川の河原、どうなるんやろ」
「八朔祭りの屋台は、出られなくなるかもしれねえな」
「駅前に大きなショッピングセンターができたら、商店街の古いお店は?」
「みんな潰れるさ。甲府だってそうだったろ」
「やだ、そんなの」
「あたし、駅ができたら東京に通勤しよっかな。リニアなら十五分っちゃろ」
「そんなに早くねえよ」
「早いっちゃ、時速五百八十一キロやけん」
「それは最高速度」
「お兄ちゃん、細かい!」
「瑞穂は、どうする。駅ができたら」
達也が訊いた。瑞穂は少し考えて、それから笑った。
「わたしは、乗らないと思う」
「なんでだよ」
「だって、速すぎるもの。窓の外が、何も見えないでしょう」
「……お嬢らしいや」
笑い声が、板の間の梁に反響した。階下から、子どもが起きるでしょうと恵子が怒鳴る声がして、四人は首をすくめ、また笑った。
十時を過ぎて、瑞穂の運転手から迎えの電話が入った。
「京次、お嬢を下まで送ってやれ」
達也が顎で示した。水緒はすでに炬燵に突っ伏して寝息を立てている。
「水緒は俺が送ってく。煮物も持たせとくから」
「達也」
「ん」
「……いや。ごちそうさま」
「おう」
外に出ると、夜気が頬を刺した。車は、工務店の前の道を少し下った、桂川沿いの空き地に停まっているという。二人は並んで、川沿いの細い道を歩いた。
川の音が、暗闇の底から聞こえていた。
「京次さん」
「はい」
「どうして、敬語なの。昔は『瑞穂』って呼んでたのに」
「……昔の話です」
「わたしが、西條の娘だから?」
京次は答えなかった。
「それとも、婚約者がいるから?」
「いるんですか」
「まだ、いないわ。……たぶん、もうすぐ」
「おめでとうございます」
「ありがとう、って言えばいいのかしら」
瑞穂は立ち止まった。街灯の明かりが、彼女の横顔を半分だけ照らしていた。
「今朝、時計を見たわ」
京次の足が止まった。
「とても、いい時計ね」
「……東京にいた頃に、もらったものです」
「誰に?」
「お世話になった人に」
「そう」
瑞穂はそれ以上、何も訊かなかった。ただ、京次の左手首のあたりを一度だけ見て、それから川のほうに目をやった。
「明日の朝も、お花を替えに行くの。お客さま、もう一日いらっしゃるから」
「そうですか」
「六時前には、着いていると思う」
「……早いですね」
「早起きは、得意なの」
それが何を意味するのか、京次は考えないようにした。
空き地には、黒い車が待っていた。運転手が後部座席の扉を開け、瑞穂はその中に身を滑り込ませた。窓が下がり、彼女の顔がもう一度のぞいた。
「おやすみなさい、京ちゃん」
窓が閉まり、車が走り去った。赤いテールランプが、川沿いの闇の中に吸い込まれていった。
京次はしばらく、その場に立っていた。
やがて、ポケットからセブンスターを取り出し、火をつけた。川向こうの山の中腹に、リニア実験線の高架が、月明かりに白く浮かんでいる。今は何も走っていない。ただ、そこに敷かれた軌道の下には、目に見えない力がいまも眠っているはずだった。ものを引き寄せ、あるいは突き放す、見えない力が。
上着の内ポケットで、二台目の携帯電話が震えた。
「はい」
『どうだった』
「町じゅうが、噂をしています」京次は煙を吐いた。「工務店にも、西英の開発部から声がかかりました。経理には、禾生と小形山の手付金が、相場の倍で回っています。名義は個人。契約書はまだです」
『そうか』電話の向こうの声は、満足そうでも不満そうでもなかった。『よく見ているな』
「それから、専務室の灰皿に、吸い殻が十一本。専務は煙草を吸いません」
『ほう』
「新聞が出る前の晩です」
短い沈黙があった。
「……一つ、伺ってもいいですか」
『なんだね』
「あの記事の『関係者』というのは、誰ですか」
今度の沈黙は、さっきより長かった。
『京次君。君は、君の仕事をしなさい』
穏やかな声だった。十九の夏、何も心配はいらないと言ってくれたあの日と、何ひとつ変わらない声だった。
『春だな、そっちは』
「ええ。……ようやく」
『いい春になるといい』
通話が切れた。
京次は煙草を足もとで踏み消し、吸い殻を携帯灰皿に入れた。川の音だけが残った。
見上げると、実験線の白い高架の上に、春の星がいくつも瞬いていた。




