⑥降り注ぐもの
庇の下から一歩踏み出した途端、くぐもった声を上げてレネが足を止めた。
「ぐっ……これは帽子がないと無理だ……アルビン様、少しだけ待てますか」
「あちらのガセボにいてもいいですか?」
「うーん……ラウル、お前日除けな。直射日光に当たりすぎたらいけませんよ!」
急いで廊下を戻っていくレネを見送って、数メートル先のガセボへ向かう。
ラウルは文句も言わず少しだけ体を傾けて後ろを歩き、指示通りに日除け役を全うした。
「ふ、ふふ……助かりました、ラウルさん」
ラウルの表情に大きな変化は起こらない。
それでも、アルビンはもう怯えた様子は見せなかった。ベンチに座ってもいいかと尋ねた後は、園庭に小路を形作る垣をじっと眺めている。
庭の一画では庭師が散水をしているようで、断続的に水の音がした。
「領主館での暮らしはどうですか、アルビン様」
「……楽しいことばかりです」
不意の問いかけへの返事は静かなものだった。
作り物のような横顔は、遠くに目をやったまま、噛み締めるように感情を紡ぎ出す。
「ここでは、食べることも眠ることも恐ろしくないのです。いつでもなにかの良い香りがして、常に許されていると感じます」
「……許される、ですか」
「そうです。楽しいと、嬉しいと、快適だと感じることを許されている……だから、とても自由です」
「ラドフォード家に自由はなかった、ということですか」
「侯爵家では、離れから出ないようにときつく言われていました。土から生えている植物をこんなに近くで見るのは初めてです」
白い睫毛が伏せられる。膝の上に置いた両手が組み合わされる。
まるで懺悔の祈りのようだった。
「ラウルさんに、謝らなければいけません。疑われても、仕方がないのです。僕は、侯爵様のお顔を拝見したことがありません」
傷にまみれたその告白に巧みな答えを返せるほど、ラウルは器用な人間ではなかった。
謝らないでほしいと、アルビン自身の咎ではないと、言い繕ってなんになるだろう。ラドフォード家を調べているのは今やヴァレリス側で、後ろ暗いのはむしろラウルのほうだ。レネのように明るく受け止めてやることもできない。
沈黙が支配しているうちに、帽子を手にしたレネが急ぎ足で戻ってきた。
「お待たせしました! お古ですけどご容赦くださいね……少し大きいかな? ズレます?」
「大丈夫です! ありがとうございます!」
礼を述べるアルビンの声は弾んでいる。先ほどまでの懺悔の気配も感じさせない。
それきり、二人はラウルを放って辺りにある自然物の観察を始めてしまった。
甘い蜜を蓄えた花をつける低木。じきに実る野菜の蔦。紫と白が同じ株から混じって咲く花。
羽根の内側だけが色鮮やかな蝶。緑青色の蜻蛉。見る角度で体色の変わる甲虫。
少し離れて会話に耳をそばだてると、アルビンは完全に聞きに徹しているわけではない。しばしば種を言い当て、違う季節に現れる別種の名を挙げもする。
「アルビン様は博学ですねぇ。懐かしいなぁ、こういう感じ」
「花や虫がお好きだったんですか?」
「いいえ。卑しい話なんですが、生活に役立てたんですよ。植物は薬にも食料にもなりますし、珍しい虫は好事家が買い取っていくんです。貴族社会ではこんな話はタブーなので」
窮屈ですよねぇ、と声のトーンを落としたレネは、目の前の花垣に視線を留めたまま、ふと呟いた。
「僕、貴族の出じゃないんです。ヴァレリスではみんな目をつぶってくれてるだけ。アルビン様も内緒にしてくださいね」
視線の先にある時期外れの卯の花は、花弁の縁が萎れて朽ちはじめていた。
四大公爵家が一、東のヴァレリス。その現当主を支える執務補佐官のルーツが、野草や昆虫を小金に換えて凌ぐ貧民。それがどれほど重い秘密なのか、アルビンには理解できる気がした。自分自身の存在が、この世界に落ちた黒いシミのように思える。ただ在ることを、誰からも許容されない。
だからレネは明るく笑うのだろうか。アルビンが腕の包帯を隠すのと似た理由で。
「絶対に言いません、だって、僕は……っ?!」
言葉は唐突な衝撃で遮られる。
左半身になにかが落ちてきたのだと思った。一拍遅れて肩の辺りが重くなり、指先に向けてすぅっと冷たくなっていく。
しゃがんで向かい合っていたレネの右半身はびっしょりと濡れていて、そこではじめて"水が降ってきたのだ"と気がついた。
事を把握したレネがすっくと立ち上がる。
垣の向こうから「うひゃあ」と驚く老人の声。庭師がしゃがんでいた二人に気づかないまま豪快に散水してしまったようだ。
腰に手を当てたレネはそのまま説教に突入する。
「ちょ……っと、ロド爺! 水撒く前は周りをよく確認してって言ったのに! それに遠くまでバシャーって放らないでって頼んだでしょ! あーあ……沐浴場だよこれ、アルビン様はだいじょ、」
お叱りを切り上げてアルビンを見やったレネはそのまま凍りついた。
いつもより余裕のあるシャツ。カフスボタンを外して、手首が見える程度まで捲った袖。
入り込んだ水を浴びてしまった左腕の包帯は緩み、ずるずるとほどけて、張り付いたシャツにおぞましい模様を浮かび上がらせる。
視界に飛び込んでくる――びっしりと刻まれた蚯蚓脹れ。
治癒しても健常な皮膚には戻れず、薄赤い凹凸に埋め尽くされた前腕。肘関節の内側はドス黒く変色し、茶色の小さな粒が無数に散らばっている。
「あ……う、あ……ぁああ……!」
掠れた悲鳴とも苦しげな喘ぎともつかない声が上がる。傷だらけの腕を抱き込んで、アルビンは立ち尽くす。
レネは、動けなかった。包帯の下には惨状が広がっていると予測できていた、理解して接しているつもりだった。時間と共に生じた、この子供に酷い目に遭っていてほしくないという意識、その強さを自覚しきれていなかった。
駆け出したラウルは着込んでいた上着を脱いで、アルビンを覆った。小さな体を肩から膝まで隠してしまうように。アルビン自身の視界にも入らないように。
両肩を掴んで視線を合わせる。ぼやけた葡萄色の瞳の焦点に向かって、名前を呼ぶ。
「アルビン様。このまま沐浴場までお連れします」
「ふ、……っ……こ、れ、……こんな、もの、」
「素直に言えば、痛ましいと感じました。けれどそれだけです。変わるものはありません、なにひとつ」
傷がもたらすありとあらゆる負の感覚から、アルビンの心を切り離す。
醜いと罵られない。おぞましいと謗られない。ここにそんなことをする人間はいないのだと証明するために、傷を隠すアルビンごと抱え上げる。
「行こう、レネ。お前も着替えが必要だ。風邪でも引いたらグレン様が案山子になってしまうぞ」
はたと暗示を解かれたように、レネも身の自由を取り戻した。
思った以上にショックを受けてしまったバツの悪さを軽口で誤魔化して、ラウルの隣に並び、ふらふらと揺れる小さな足先から革靴を脱がせる。
「うえー……肌着までいってんなこれ。アルビン様、今度はあったかいミルクセーキお作りしますね」
「ダメだ。日に二杯は飲みすぎ」
「なんでよ、酒より健全でしょ」
「虫歯になるだろ」
「……僕、普通のお茶も、好きです」
くるまった上着の中から聞こえた弱々しい呟きには、少しだけ笑みが含まれている。
レネとラウルは顔を見合わせ、どちらともなく破顔した。




