⑤氷解
アルビン・ラドフォードがソルヴェール領主館を訪ねた日から三ヵ月が経ったある日のこと。
その日、アルビンの朝の給仕に訪れたのはレネではなく、対峙すると未だ言葉に詰まってしまうラウルだった。
入室と同時に幼い顔がこわばったのを認め、気まずげに視線をそらしたラウルがぼそぼそと謝罪を述べる。
「ご期待に添えず申し訳ございません。グレン様がしばらく外出なさるため、レネは支度に駆り出されております」
「ぁ、いえ、……だ、大丈夫、です」
「レネから伝言がございます。気温が上がってきたので薄手のシャツを用立てたと、もしお気に召したら袖を通してみてほしいとのことです」
気まずい空気の中、アルビンは寝台を降りて洗面台に向かった。
カーペットを踏む足がふらつかなくなって久しい。鏡の中の自分の顔にまだ慣れることができない。
日に三度の食事と深い睡眠を三ヵ月続け、落ちくぼんだ眼窩と浮き出した頬骨は肉の中に消えていった。レネが香油をつけて毎日梳った髪は細いながらも艶が出て、今は淡いクリーム色に見える。馬毛のヘアブラシを握る指先の爪には血色が透けていた。
絡まった髪がブラシに引っかかる痛みに、そういえばもう長いこと苦しい気分になっていないな、とぼんやり考える。
「お困りですか?」
「あ、ぃ、いえ、なんでもないです」
ラウルに声をかけられ、慌てて洗顔を済ませる。
寝台の上には部屋着用のシャツが二枚用意されていた。昨日までと同じ型の綿地のシャツと、身幅が少し大きく取られた亜麻地のシャツだという。
「試着されるのでしたら、天蓋をおろします」
ラウルの申し出に頷いて、今一度寝台に上がりシャツを手に取った。
腕の包帯を見られたくない。レネには何度も見られてしまったので麻痺しそうになっているが、本当は見られるべきものではないと忘れてはいけない。だからアルビンはずっと長袖の衣服を所望している。
新しいシャツはきっと、アルビンが少しでも快適に夏を迎えられるようにというレネの気配りだ。
おりた天蓋の中、シャツに袖を通してみる。
身幅だけでなく袖も太めに作られているようで、包帯を巻いていてもごわつく感じがしない。裾が広いので風がよく抜ける。
――嬉しいな、と思う。お礼が言いたいと思う。
温かな気持ちを胸にかかえて天蓋から出たアルビンは、距離を取って控えていたラウルに向かって「こっちにします」と身に着けた亜麻地のシャツを示した。
***
レネがアルビンの元にやってきたのは、昼下がりのことだった。
「新しいシャツを試されたと聞きまして。やぁ、よくお似合いですねぇ」
「レネさん、ありがとうございます!」
「おっ、元気も出たじゃないですか! それじゃあ今日も館内の散歩と洒落込みましょう!」
散歩といってもエントランスまでおりるだけだが、アルビンにとっては毎回ちょっとした冒険気分だった。
ソルヴェール領主館は広い。エントランスからゲストルームまでの階段と廊下を往復するだけで、アルビンがすっかり疲れてしまうほどに。
おまけに、一歩進むたびに絵画や置物が飾られている。窓を覗けば初夏の園庭は花盛りだ。広いだけでなく見るものも多い。
言葉少なにあちこちをじっと眺めるアルビンを、レネが急かしたことは一度もなかった。
「今日は休憩付きのコースで参りましょうね」
「休憩?」
「そう、休憩です」
室内履きを焦茶の革の靴に変えてもらい、レネの隣を歩く。
灰色の瞳をした美しい少女の肖像画、細やかな金刺繍の壁飾り、青磁の壺に活けられた薄紅色の芍薬。薄暗い廊下を彩るものたちをひとつひとつ目で追うことが習慣になりつつあったアルビンは、ふと思いついた疑問を口にしてみた。
「あ、あの……ここには、公爵様の肖像画は、ないのですか」
「グレン様のお顔が気になります? ハンサムですよぉ。豊かな蜜色の髪に気怠げな若葉色の瞳、硬派であんまり構ってくれないとこも逆に素敵、ってメイドたちがよく言ってます」
レネがケラケラと笑いながら答えるものだから、本当なのか冗談なのかわからない。
ヴァレリス公爵の顔が気にならないわけではないが、アルビンの疑問の核はそこではない。
「こ、こういったお屋敷には、当主の肖像画が飾られるものだと、本で読んだんです。だから……見当たらないので、不思議に思った、だけで」
邸宅に飾られる肖像画の数や大きさは、家の財産と権威に直結する。公爵家クラスならば廊下の壁が歴代当主の肖像で埋まっていてもなんらおかしくはない。とある貴族の家系譜にそう記してあったのを、アルビンは記憶している。
ヴァレリスは四大公爵家に数えられる有力な高位貴族家だ。家格の高低を問わず縁戚も多い。その頂点に君臨するものとして、外戚からのプレッシャーは甚大だろう。
なのに、このソルヴェール領主館には随分とおおらかで自由な空気が流れている。しかつめらしい権威の気配がしない。
よく気づいたとでも言うように、レネは一度立ち止まった。片膝を着き、同じ視線で、正面からアルビンと向かい合う。
「グレン様は、公爵になられてまだ一年と少しなんです。見栄とハッタリはすべて中央都市内のタウンハウスに詰め込みました。実のところ身辺は今も慌ただしいですし、グレン様御自身が本当は仰々しいことをお好きでないのも手伝って、ここでまで肖像画を飾る予定は今のところないのです。先代様の肖像画なら三階の廊下に飾ってありますよ。グレン様には全っ然似てないですけど見ます?」
「あ、いえ……大丈夫、です」
レネの口調は柔らかいものだ。青菫色のいたずらっぽくも優しい目元には、主人への敬慕が浮かんで見える。
アルビンは、そういった感情に触れ慣れていない。誰かの大切な宝箱を無理に覗き見てしまったようで、居心地の悪さに視線が下がっていく。
足下を写した視界のまま、それでもレネの言葉は続いた。
「ついでにもうひとつ。非礼を許してやってほしいと乞うつもりはまったくありませんが……ラウルの疑心暗鬼は、グレン様が公爵家を継いだばかりだからなんです。あいつとグレン様は生まれた時からの付き合いだそうで、自分の見ている前でおかしなことはさせないと気を張っていたんでしょう。今はしっかり態度を改めているはずですから、もし僕で行き届かないことがあったら顎で使ってやってください」
アルビンは思わず目を上げた。
自分がみすぼらしくて、不審で、不出来で、劣っているから嫌悪されたのだと思っていた。
大きな上背と厳しい目付きの執事長。彼の懐いた敵意の理由を、レネは教えてくれている。
「……気を悪くされていましたか?」
「へこんでましたよ、今朝も。まだ怖がられてる、自業自得だ、って。でっかい犬みたいでした」
「い、犬?」
「北方の雪深い地域で飼われてる牽引犬に似てるんですよあいつ。ああ、次の散歩は図書室でどうです? 犬の図鑑もありましたよたしか」
ラウルの外見に関してはなんとも言えないが、図書室に行くのはとても魅力的な提案だった。犬の図鑑は是非見たい。とても見たい。
好奇心が顔に出ていたのか、レネは一層笑みを深くして「決まりですね、明日にでも行きましょう」と言った。
――翌日、約束通り図書室で犬の図鑑を開いたアルビンは、シルバーグレイの毛並みをした眼光鋭い大型犬を見て「本当に似てる……」と呟くことになる。
話しながら歩いているうちに、一階の東端の部屋に辿り着いていた。両開きの扉の向こうには長テーブルが据えられ、高い天井にはシャンデリアが輝いている。
ダイニングルームだ。
「ここが本日の休憩所です。こちらへどうぞ」
進む足が重くなる。食事のマナーは一通り教育されたが、畏まった場で上手くこなせる自信はない。
それを見通してか、引いた椅子の背凭れをぽんぽんと叩いてレネはおどけてみせる。
「大丈夫です、ナイフもフォークも使いません。ちょっとしたショーです。アルビン様はお客様、演者は僕、ワンドリンクのサービス付きです。お得ですよー」
おいでおいでと手招かれ、意を決して椅子の前に立つ。
レネは満足げにアルビンを抱き上げて椅子に掛けさせると、すぐ近くに寄せてあったサーブワゴンからミルクピッチャーを取り出した。大きな銀のボウルにミルクを注ぎ、白い粉末を加え、卵をいくつか割り入れる。
軽快な音を立ててボウルの中身は混ぜ合わせられ、とろりとした黄色の液体になる。
「さて。ここから格好つけますので、よーく見ててくださいね」
ワゴンの下段から黒いバレルを取り上げ、中に入っていたものを恭しく取り出す。
掌大の長方形は、窓の外の光を透かして静かに光る。
「大きな氷……!」
「地下の氷室から拝借してきました。溶ける前にやっつけちゃいますよぉ」
レネの右手には、いつの間にかアイスピックが握られていた。
指の長い掌の上で突き砕かれた氷の欠片が、キラキラと光を弾きながらボウルの中に落ちていく。危険じゃないのか、冷たくないのか、問いかけたい気持ちを呑み込んで、アルビンはしなやかな手にただ魅入っていた。
一見無作為に突き立てられている錐状の刃は的確に氷の角を削ぎ落とし、時間の経過と共に溶けた表面は滑らかになっていく。最後の一突きを終えた時、氷は――完全な球体になっていた。
アイスピックをレードルに持ち変えた右手が、ボウルの中の液体をガラスのゴブレットに注ぎ入れる。
球体を水面に浮かべて、レネは見開いたアルビンの瞳と視線を合わせた。
「どうぞ。溶けないうちに」
ゴブレットを手元に滑らせた端正な口元が、にやり、と笑う。
一連の出来事に圧倒されてしまったアルビンは言葉を失ったまま、しばらく球体の浮かんだゴブレットとレネの顔を交互に見ることで必死だった。
「口開きっぱなしですよぉ、アルビン様」
「へ、……ぅあ、あっ」
「格好よかったですか?」
「かっ……こよかったです! すごく! すごくすごい!」
酷い言葉遣いだと自分で理解していたが、それ以上に相応な表現が出てこなかった。
いやぁそれほどでも、と肩を揺らすレネは完全に普段の軽やかさを取り戻していて、氷を砕いていた真剣な視線は幻だったかのよう。
魔法みたいです、本当にすごいです、となおもアルビンが言い募っていると、予期せぬ闖入者の低い声が背後から響いた。
「小さな客人相手にメイドと同じ手口を使うな、レネ」
「人聞きの悪い。メイドちゃんたちにはこんなことまでやんないよ。酒作ってあげることならたまにあるけど」
「それが同じ手口だと言っている」
「ごちゃごちゃ言ってないでラウルも飲みな、ミルクセーキ。今日あっついもん。見てるだけで暑苦しいよお前」
「……あるのか、私の分」
「逆になんでないと思うんだよ」
たしかに、今日は真夏のような日差しだ。あまり日の入らない室内では汗ばむことこそないが、薄手のシャツを選んだアルビンが快適に感じられる程度に室温も高い。三つ揃いの執事服を着込んで涼しい顔をしていられるのが不思議なほどだ。
レネが新たによそい分けた二つのゴブレットのうちひとつを受け取ると、ラウルは目礼をしてダイニングを辞そうとした。
「失礼いたしました」
「なんでよ。ここで飲んでけって」
しかし、と言い淀んだラウルの視線の先にはアルビンがいる。
恐怖が消えたわけではない。もう敵意はないとわかっても、厳しい人を苛立たせずに過ごせる自信がアルビンにはない。
それでも、なにか良い方向に変わるなら、少しだけ頑張れる気がした。
「ラウルさんも……よかったらご一緒に」
隣の席をうながす。正面にはレネが座っている。
ラウルは大きな背を縮めるように着席し、氷の泳ぐミルクセーキを呷った。大きな一口だ。一気に半分くらい減ってしまった。
アルビンもやっと口をつけたが、丸い氷がぷかぷかと揺れただけ。なのに多幸感でいっぱいになる。「飲み終わったら少しだけ園庭に出たい」と話をしながら、ゆっくりと溶けていく氷を惜しんだ。




