④翳
レネが大立ち回りをしたその晩。
中央都市より早馬を使って領主館に戻ったグレンは、出迎えの顔がひとつ欠けていることに気づいて気の抜けた声を上げた。
「あれぇ、レネは?」
「昼からまた外出しています。追加の調査事項ができたと。明日には戻ると言っていました」
「すれ違いかぁ」
ぶつぶつと文句を垂れるグレンを数人のメイドが取り囲み、あれよあれよと外着を脱がせてガウンを羽織らせる。
ピーチクパーチク。細々と動きながらよく喋るものだ。喧しい笑い声にも慣れたもののグレンは、彼女らへの労りとして焼き菓子の大きな缶を与え「大事に食べろよ」と釘を刺した。
はぁい、と元気だけの返事をしてメイドたちが撤収していくと、ようやくエントランスに静寂が戻る。
「……で、一悶着あったんだって?」
「今の騒ぎでよく把握できたものですね」
「彼女らだって公爵家に選ばれた使用人だぞ。情報伝達の引き出しは無限大だ。で? なにやらかしたんだ執事長殿」
軽口を叩きながら階段をのぼる。
書斎に辿り着くまでの道程は、ラウルにとって苦々しい感情と懺悔に満ちたものになった。なにせ客人への不信感ばかりを伝えてきた主に、己の認識こそが間違っていたと訂正するための時間だ。
「レネからだいぶ叱られました。先入観に囚われすぎて基本的な職務を疎かにするなと」
「まあ、庇い立てはできないな」
ラドフォードの子供の立てこもり、その実情はこうだ。
三日目に水瓶の中身が枯渇して腕の傷の洗浄ができなくなり、膿んで熱が出るようになった。ふらつきが酷くなって寝台から降りられなくなり、出入り口付近に置かれたサーブワゴンにも辿り着けなくなってしまった。何度か困っていると申し出ようとしたのだが、入室するたび嫌悪感も露なラウルに怯んでしまい、結局なにも言い出せなかったという。
言葉尻を真正面から受け取りすぎて、遠慮を拒否と曲解した。相手は不法侵入者ではなく客人だという前提を完全に失念していた。
『もしあの子が本当にラドフォードの間諜だったとして、自分の窮地にも対応しきれない死にかけからどうやって情報回収するつもり?』
レネからの叱責の言葉を噛み締める。しでかしてしまったことは簡単に取り戻せない。
先ほど夕食をゲストルームに運んだが、天蓋の向こうから聞こえる声が震えていたのを聞いて、あれは己の敵意がそうさせてしまったのだと思い知ることになった。
「それで、快方には向かってるのか」
「そのようです」
「害意ある存在ではない、というのがレネの見立てなんだな」
ふぅと深く息を吐いて、グレンはようやく安楽椅子に身を落ち着けた。
ラウルが紐で纏めた書類を差し出す。
「託された報告書です。渡された際に私も目を通しました」
懐からリードグラスを取り出し、びっしりと並んだ文字に視線を落とす。
ラドフォード家からアルビンの年齢と容姿に一致する実子の届けは出されていない。医院にも教会にも記録が残っていない。
出入りの商人からの"定期的に安価な食材とリネンだけを別個に離れへ納入するよう"指示があったという聞き取り。
特徴的な毛髪の色は、先天性の色素欠乏が理由であること。色素欠乏の子供は高い確率で虚弱となりやすいこと。
報告書の最終項には領主館に戻ってからのことも記されている。
化膿するほど深い両腕の傷。やけに手当てに慣れた様子だったこと。着替えや身辺の世話は使用人に任せるものだと認識していなかったこと。それからラウルの耳にした、父親を"侯爵様"と呼んでいた事実。
結論は"アルビン・ラドフォードは侯爵家で健全な環境に置かれていなかった可能性が高い"と結ばれている。
グレンが目を留めたのは、最終項の一文だ。
「この、腕の傷ってのは」
「包帯が膿の色で染まるほどのものです。肘の内側だけを執拗に」
「――たとえば、鞭を使った"躾"のようにか?」
若葉色のグレンの眼がラウルを見上げる。同じ記憶を思い起こすよう、静かな怒りをはらんだ乳兄弟の瞳が訴えている。
「お前も何度かされたろ、ラウル。忘れるわけない。最悪のカヴァネスだった」
グレンの言葉は真実だ。忘れるわけがない。
十歳になったばかりのたった数ヵ月だったが、悪夢そのものの日々。学問でも武術でもなく、立ち居振る舞いを習うようにと呼び入れられた家庭教師の"躾"は、ただ子供を拘束し不機嫌を撒き散らすだけの無為な時間だった。
立ち上がって身じろぎするだけで叱咤を受ける。理由は説明されない。機嫌次第で鞭が飛ぶ。公爵令息であるグレン自身にではなく、侍従のラウルを見せしめに。
裂傷になることこそなかったが、木鞭で打たれた痕は夜通し痛んだ。痣が完全に消える頃を見計らってまた鞭打たれ、湯浴みをするたび忌々しい心持ちになったのをよく覚えている。
朝になると腫れた目でダイニングに現れるグレンになんと声をかけていいかわからなかった。会話は少なくなり、目を合わせることも減ってしまったあの息苦しさを、無邪気に思い出と呼べる日は来ないだろう。
「眠れなかったよな。それぞれ理由は違ったろうけど」
「どこが痛んだかの違いだけです。きっと理由は同じでしたよ」
幸い、悪辣な手口が早々に露見してカヴァネスは暇を出された。先代公爵の「方々で愚痴をこぼしてやった」という言葉通りなら、その後中央やソルヴェールでまともな職にありつくことは不可能だったはずだ。
わざわざたしかめようとも思わなかったが、今もって許す気にもなれない。
「話は逸れたが。肘の内側を損傷するっていうのは、こうでもしない限りあり得ないって話だ」
グレンが両腕を揃え差し出してみせる。かつて"躾"の際にラウルが要求されたのと同じように。
一方的なものではなく、傷をつける者とつけられる者の間に一定の了解があったということ。もしそれが"躾"として行われた行為ならば。レネの報告書に書かれた推測が真実であったならば。
「虐げられていた……身内から」
「断定はできない。なにせ、ラドフォードの血筋としての外見的な特徴も、出生の記録もないんだ。単に虚弱に生まれた私生児なのか、それともなにか目的があって囚われていただけなのか。アルビン・ラドフォードなる子供は一体何者なのか」
ラウルには、そのどちらも大差のあることとは思えなかった。
存在そのものを否定されながら養育者に鞭打たれることも、見ず知らずの人間に拘束され虐げられて過ごすことも、許されていいことではない。弱りきった小さな子供に負わせていい苦悩ではない。
憤りに呑まれかけたラウルを、静かなグレンの声が引き戻す。
「とにかく、今は決め手がない。はっきりしてることは、あの子にはたしかで安全な居場所がない、それだけだ。だったら、うちに来たのはいいことだったのかもな」
リードグラスを外したグレンは、肘をついてゆるりと口角を上げる。難しい話は終わりにしよう、という合図。親しい人間だけが知る彼の癖だ。
「このまましばらく置いとくのもいいだろうさ。いずれ然るべき施設に繋いでやるのもいい」
「孤児院ですか?」
「最近の中央府は困窮者の支援に力を入れてる。教会傘下の孤児院なら目も届きやすい、レネがいたとこみたいにな。少なくとも、あからさまな傷を放置されることはないはずだ」
最後まで難しい顔をしていたが、やがて先の展望は暗いばかりではないと受け止めた様子で、ラウルは私室へ下がっていった。
静寂のおりた書斎に、溜め息は思いのほか大きく響いた。
グレンの手元には一通の封筒がある。
中央都市で手に入れた、地下水道の一件以外の成果。際立って機密性の高い情報は、貴族ひいては人間の悪性を思い知らされるようで、手元にあるだけで気が滅入る。
「――、」
キャビネットの最下段に封筒を入れ、鍵をかける。
使うべき時は来るだろうか。抱え持つにしろ明かすにしろ、のし掛かる負担はグレンを酷く疲労させた。
***
小さな鍵穴ひとつから得られる情報は多い。
扉の外の人影を露知らぬまま、深い憂いを引きずったグレンがキャビネットから洋酒の瓶を取り出す。
厚いガラス戸の開閉音に紛れるように、人影は階下におりていく。無人の調理場から門番のいない裏口に抜け、ソルヴェールの夜市に消えていく。
明日の朝にはそ知らぬ顔で「急いで帰ってきましたよ」と微笑むために。




