③未定義の子供
ラドフォード侯爵家の遣いを名乗る子供の来訪から一週間。
"外出"をつつがなく終えて領主館に戻ったレネを出迎えたのは、いくらか荒れた書斎。それから、いつも以上に仏頂面のラウルだった。
「あっは、老け顔! 僕より上に見えるかも」
「なんだと、お前はそもそも、」
「ねぇグレン様は?」
清々しいほど無礼に話を遮られ、溜息ひとつで反撃を諦めたラウルは大人しく質問に答える。
「中央だ。地下水道の件で、警邏の調査班と合流してほしいと要請があった。戻られるのは明日だろう」
「そっか……まあ、急ぎの話はないし、待とうかな」
単なる独り言とも受け取れる言葉をぽろぽろと口からこぼしつつ、手元はたえず動いている。
鞄から書類の束を取り出して執務机の引き出しにしまう。外套はブラシをかけてワードローブへ。襟巻と手巾はランドリーに持っていくものとして纏め、靴を普段用のものに履き替える。
「で、さっきからずっと子鴨ちゃんしてる理由は?」
旅装を解く間ずっと無言のまま後ろをついて回っていたラウルへのからかいは、意外な回答を引き出した。
「――ラドフォードの子供」
「なに、なんかあった?」
「ゲストルームから出てこない。ワゴンの食事も毎食ほとんど手つかずだ。良からぬことをしているのでは」
ラウルの表情は、なかなか一言では表現しづらいものだった。
怒りや嫌悪というより、不服か不可解。グレンの爵位継承と同時にヴァレリス家の執事長となってから――つまり、粗方の問題を自力で解決できるようになって以降のラウルには覚えがない表情だ。
「部屋に入られたくない、って言ってるの?」
「そうだ。ひとりでできるとか、大丈夫だとか、言い逃れをされて入れない」
「……それはちょっと、バイアス強すぎなんじゃないの、お前」
一抹の不安がよぎる。
たしかに文脈や口調によっては拒絶や言い逃れにも聞こえるだろうが、今のラウルの言い分を額面通りに受け取るのは危険な気がする。
やっぱり自分の目でたしかめるのが一番早くて確実なんだよな、という所感を小さな苦笑に代え、レネは給仕用のテーラーエプロンを腰に巻き付けた。
***
「失礼いたします。お食事をお持ちしました」
給仕ワゴンを押してゲストルームに足を踏み入れる。先手を打って強引に通ったつもりだったが、特に叱責や癇癪の声は聞こえない。
室内は、暗かった。既に日が高いというのにカーテンが閉じていて、寝台の天蓋も下りたまま。
しばらく様子を伺っていると、蚊の鳴くような声が天蓋の向こうから聞こえた。
「――そこに置いておいてください」
一歩寝台に近付いた途端、異質な臭いを感じ取る。日常では確実に忌避される、滲出液と膿の臭いだ。
迷いなく寝台の横に立ち、レネは改めて口を開く。
「無礼を承知でお伺いいたします、アルビン様。薬箱をお持ちしますか?」
「なんで……、ですか」
「大人の勘です」
真実を伝える必要はない。貴人の尊厳を守りながら必要な措置を取る、それだけが重要だ。
許可を仰がずに引き開けた天蓋の内側。不健康な臭気を帯びたぬるい空気。
身動きもせず横たわったきりの子供がそこにいる。掛け布団の上に投げ出した両腕は、黄色の滲出液にまみれた包帯に包まれていた。
「ぅあ……、これ、は」
「失礼」
「ひっ、」
ぎゅっと目をつぶった子供の額に掌を当てる。耳の後ろ、首筋、顎の下。熱は高く呼吸も浅いが分泌腺は腫れていない。
そのまま抱き上げると、たしかに十歳の子供とは思えぬほど小さく軽かった。
「億劫でしょうが、身綺麗にしたほうが休まります。僕は寝具を整えますので、カウチで必要な処置をなさいませ」
子供は、戸惑っていた。眉をハの字にして、なにを言うべきか、どう動くべきか、なんとか答えを見出だそうと視線をさまよわせている。
そんな時どうするのが最も正解に近いのか、レネは嫌になるほどほどよく知っていた。
しゃがんで視線を合わせ、語るテンポを少し落とす。
「水桶はふたつお持ちします。ひとつは傷の洗浄に、もうひとつは手拭いを浸して汗を拭いてください。うちの傷薬はよく効くんですよ、ちょっと沁みますけど」
我慢できますか、と重ねて問うと、子供は神妙な顔をして頷いた。
そこからは慌ただしかった。
手隙のメイドを二人つかまえて水桶を準備させ、リネン室に立ち寄ってカバー類を、備品室で寝具と薬箱を調達する。調理場にも顔を出して林檎を甘く煮てもらえるよう頼んでおく。
ゲストルーム内にはレネひとりが出入りすることにした。子供が更に混乱してしまうのは避けたい。
バタバタと動き回って寝具の交換を終える頃には、カウチに座った子供も幾分落ち着いたようだった。見るに耐えない色だった包帯は真更なものに変わり、空気に触れた体液の不快な臭いもすっかり消えている。
――綻びなく巻かれた包帯の意味するところを、今は深く考えずにやり過ごす。
「少し窓を開けたいのですが、寒気はありますか?」
「いえ……、少し、あついくらいで、」
感冒で発熱しているわけではないから、外気も少しなら障りにならないだろう。
カーテンを開いて窓を開け放つと、春のはじめの青い風が凝った部屋の空気を浚っていく。
座ったまま窓の外に目をやる子供の隣に腰掛け、レネは手付かずの清潔な水桶に手拭いを浸した。きつく絞って、首筋に滑らせる。
子供は抵抗しなかった。されるがままに首と顔を拭われ、レネが促すと黙って背を向ける。寝間着の裾から手を入れて背中を清め、床に膝を着いて太腿から足の先までを清め終えた時、子供はぼんやりとした瞳で呟いた。
「……怪しまないのですか」
「それどころじゃない、が正直な感想ですね。色々と疑わしいとは聞きましたけど、少なくとも"食事を拒否して立てこもっている"ことに関しては"食事ができないほど弱って動けなかった"が正解だと訂正しておきます」
「着替えは、手伝っていただかなくてはいけないことでしたか」
「んー……高位貴族の子息であれば人の手を借りるのが一般的ですね。普段から御自身で身支度をされる方も、御髪のセットやシャツのアイロン掛けには使用人の手が必要です。ましてここでのアルビン様は御客人ですから、すべてお一人でこなされてしまうと公爵家の面目が立たなくなってしまいますねぇ」
汚れた手拭いを水桶に再び沈め、最初に運んできた食事のワゴンに目をやる。
すっかり温くなってしまっただろうが果実水ならないよりマシだ。グラスに注いで小さな手に握らせると、子供は少しの間レネの顔をじっと見つめてからようやく口をつけた。
よほど餓えていたのだろう。立て続けに二杯飲み干してから、子供はまたぽつぽつと口を開く。
「お見苦しいものを、お見せしたくなかったんです。僕、失礼なことを、」
告解のようだった。誰を傷つけたわけでもない、悪意もない、無知ゆえのあやまちが、この子供にはきっと許されざる大罪に等しく感じられている。
――よくないなぁ、と思う。そういった過ぎた自責思考は予後が悪い、これはレネの経験則だ。
「あの執事長、名前をラウルと言うのですが、四角四面なところがありましてね。もっと大きく構えて細かく見ろと言ってるんですが、一朝一夕に改善するものではありませんで。しかもあいつ、顔立ちが結構キツいでしょ。威圧的というか」
「い、いや、あの……そんな、ことは」
「そんなことあるでしょう? だって僕にはちゃんと伝えてくださったじゃないですか。失礼なことをするつもりはなかった、腕の傷の手当てを自分でしたかっただけだ、って」
ね、と同意を求められ、子供はこくりと首を振ってみせた。
レネ自身の姿は、オーソドックスな男性像とは少し隔たりがある。背こそ低くはないが骨格が細く、筋肉に厚みが出ない体質だ。二次性徴が大した仕事をしなかった結果、今でも声を張れば甲高い音域に届く。
見縊られやすいということは、警戒されにくいことと同義だ。険のない目元は、非力な相手に対しては有利に作用しやすい。
「さっぱりしましたし、少しだけなら食事もできそうですか?」
「……はい」
「よし。スープがあります、ひとまずこちらを。僕はこの辺を片付けてきますので、ゆっくり召し上がれ」
山になったリネンと水桶を部屋の外に運び出し、ローテーブルに真新しいクロスを広げた。
スープ皿と果実水。パンはどうしようかと迷ったが、生憎グレン好みの固い黒パンだ。病人には不向きだろう。
汚れ物の片付けをメイドたちに託して、また慌ただしく動き出す。薬棚から解熱剤と痛み止めの瓶を選び出し、調理場からコンポートを受け取って、ゲストルームに取って返す。
戻った時、ローテーブルの上のスープ皿は空になっていた。
だがカウチの背に凭れる姿は苦しげだ。スプーン二杯分のシロップを飲ませ、コンポートを一欠け口に入れてやって、そこが限界だった。
ぐったりと脱力してしまった子供を抱え、そっと寝台に横たえる。
「……まえ、」
「ん?」
「お名前、聞いて、ませんでした」
掠れた声で、切れぎれに紡がれる言葉。傷んだ長い前髪の隙間から覗く不安げな瞳は、熟した葡萄の実の色をしていた。
「レネと言います、アルビン様。また明日来ますからね」
奇異なる瞳が瞼の下に消えていく。
子供の眠りを見届けたレネは、去り際に聞いたかすかな呟きに足を止めた。
「――せんせ、」
己の口を衝いた言葉を自覚することもなく、子供は久しく穏やかな眠りの中に沈んでいった。




