幕間 ノーブル・グレイ
海辺の町シースリーユ。その高台に居並ぶ別荘の中で、一等豪奢な家屋敷。先代ヴァレリス公爵の住まう邸宅の、一面に海を臨む書斎。
静謐なその場所で、深緑のデイドレスを纏った老婦人は先代公爵エラルドと向かい合っている。
「また目付きが悪くなったか?」
「先代様こそ、眉間の皺が深くなったようにお見受けしますが」
「減らず口」
「お褒めの言葉と受け取っておきます」
剣呑なやり取りを横で聞いていた老人は、喉の奥で笑って背を揺らした。
擦りきれた上着や日に焼けた手は、高位貴族の近くに身を置いて許されるようにはとても見えない。長年の庭仕事が彼の白い肌を焼き、土汚れを染みさせたのだ。
「お前も御苦労、ロド。田舎者がすっかり板についた」
「そりゃ逆立ちしても褒め言葉にゃなりませんわなぁ旦那様」
老人に一瞥をくれ、エラルドは楽しげに笑う。出会ってからもうじき四十年になるのだ。応酬に僅かな毒を含ませるのは親愛の抱擁と変わらない。
ごつごつとした老人の手は、いたく繊細な手つきでポットを傾ける。
瀟洒なカップに注がれる、白い花の浮かんだ薬草茶。この屋敷では、婦人の好むカモミールが茶棚から消えることはない。
「あなたのお茶の腕はいつまでも鈍りませんのね、ロドリゴ」
婦人が老人の名を呼ぶ。封じて久しい諱を知る者は、ここにいる二人ですべてだろう。
「爪ってのは研いで隠しとくもんですからな。レディはよくご存知でしょうや」
「もうレディなんて歳じゃないわ」
「なにをおっしゃる。なにも変わりませんよ。ねえ旦那様」
「ロドの言う通りだ」
カップの中身を半分まで減らした頃、婦人はオーバースカートの内側からナイフを取り出してテーブルに乗せた。金細工の鞘に艶のある革の柄。暗器と呼ぶには華美な装飾だが、婦人の凛とした佇まいには調和する。
先代はにやりと笑い「研いでおこう」とナイフを受け取った。
「残念でしたわね。あの子に女中を消させることができなくて」
婦人の表情にさしたる変化は見られない。しかし、付き合いの長い者ならば彼女の感情が見て取れる。
憤る灰色の瞳の輝きを、その美しさを知っている。優越感に一層笑みを深め、エラルドは口惜しげに呟いた。
「願ったり叶ったりだったろうに」
「相変わらずの人でなしで逆に安心しています。あの子の手は汚させませんよ」
「一度ならず二度までも防衛されてしまった」
「抜かるものですか。あなたの考えることですもの」
窓の向こうの青に目を遣って、婦人はそっと回想した。
孤児院から出た子供の大半は職工となり、少数が文官に、女児なら針子か売り子を経て花嫁になる。もし困窮していれば食い繋げるよう裏で手を回すこともあるが、大抵は己だけの力で生き抜けることを前提として送り出す。
けれど十年前、レネにだけは違う道を示した。優秀だからこそ、過酷な環境を生き抜ければ地位も富も手に入れられると踏んで、とある貴族の元へやったのだ。
――このシースリーユの保養所に間諜として忍び込み、エラルドに捕縛されたついでにヴァレリスの影として抱き込まれるまでのレネは、人として扱われていなかった。いたずらに搾取されるだけの日陰者に堕とされるとわかっていたらそんなところにはやらなかった。
己の判断を呪って、呪い続けてきた。そして今年の春、また大きな呪いを背負い込んだ。ポール・ガランを孤児院に迎え入れたことは人生の汚点だ。己の甘さが招いたことの中でも最悪の失敗だった。
「悔いているのか」
「悔いていますよ。この愚かな五年間で何人も……それに一度は引き戻せたあの子まで、地獄へやってしまうところだった」
「なぜポールを信じた?」
「彼がヴァレリスの関係者だったから」
ポール・ガランがヴァレリス製薬工房の研究員だったこと――すべての悲劇はそこから始まっていた。
誤った判断が取り返しのつかない結果を呼び、彼女の大切なものを破壊して、心に決して癒えぬ傷を刻むこともある。
一度や二度ではない。修道女という社会的弱者となってから、彼女は幾度となくそうした傷を受けてきた。
「恨まれてやっても構わんのだぞ。八つ当たりはいつでも歓迎だ」
婦人はエラルドの羽根の下の雛鳥ではない。いっそそうなってしまえば、ありとあらゆる煩悶から切り離し、清潔で安全な籠の中で安らかに暮らさせてやれるのにと、何度歯痒く思ったか知れない。
けれど彼女は、それでは嫌なのだと言う――その愚かさを、エラルドは気高さと呼んでいる。
「いいえ。恨むなら我が身の至らなさを。あなたには感謝だけを捧げます」
「神に、ではなく?」
「ご存知ありません? 教義というガイドラインに則った社会福祉システムにおいて、真に感謝すべきはその出資者なのですよ。それにあなたはいつも、私の個人的な願いを叶えてくれます――そうでしょう?」
かつては、闇の中に追いやられたレネの保護を。
そして、死んでいったアズールの子供たちの復讐を。
彼女だけの力では叶えきれぬ願いのために、ほんの僅かな助力を乞われる時、エラルドはこの上ない充足を得る。
「変わらんな、ミランダ。ずっとそうして損をし続けるつもりか」
エラルドの低い声に、ミラは静かに目を細める。
「いいえ。私はいつでも合理を選択するだけですわ、エラルド」
老婦人、シスター・ミラ。不器用な彼女の、その真の慈愛の深さを知るのは己だけであると再認識して、エラルドは満足げに息を吐いた。




