⑳悪い子の神様
それからさらに数日を経たある日の午後。
にわかに門の辺りが騒がしくなり、ラウルは書類から顔を上げた。
窓から見下ろす園庭には、庭師のロドとメイドたちが何人かうろついている。慌てて飛び出したのだろう。
そのまま視線を上げていったラウルも、すぐに立ち上がって走り出す羽目になった。
門に着けた馬車の横腹にはヴァレリスの家紋。しかし領主館に常駐しているものでも、グレンが乗っていったものでもない。
その意味するところは、現公爵以上に恐ろしい御方のお出ましだった。
「執事長!」
「先触れは?!」
「それが、何も……っ、客間は調えさせています!」
「助かる! 茶葉と菓子はとにかく一番新しいもの、あとはパイプ煙草を! 出迎えは今並んでいる者だけでいいから、手隙の者は裏方に回ってくれ!」
廊下に出るなり鉢合わせたメイドに指示を飛ばしながら、大階段を駆け降り、チーフを整えて、エントランスに立つ。
空気読みに長けた使用人が目配せをした。
正面扉に手が掛かる。ラウルがひとつ頷くと、ずらりと並んだ使用人たちが一斉に頭を垂れる。
逆光の中に現れる威容。知命五十にして未だ衰えを知らぬ、先代公爵エラルド・ヴァレリス。
威圧感にひりひりと頬を焼かれながら、ラウルは深々と腰を折った。
「不手際をどうか平にご容赦ください、大旦那様。すべての責はこの私にございます」
「良い、良い。先触れも出さなかった儂が悪い。それに用が済んだらすぐ引き上げる」
「それが、グレン様は今、」
「あれに用はない」
にべもなく言い切られた瞬間、堪らないほど嫌な予感がラウルの腑にのしかかる。
「レネはどこだ」
今最も耳にしたくない名前が、無情に鼓膜を揺らした。
渋面のラウルにわざわざ案内をさせた上、「しばらく二人きりで話す」と人払いまで申し渡して、エラルドはレネの幽閉されている地下室の戸をくぐった。
「やったなぁ、レネよ」
人の悪い笑いを隠そうともしない語りかけに対し、ベッドに横たわったままのレネは吐き捨てるように答える。
「やれてないからこうしています」
「おい、せめて起きんか。元とはいえ公爵を相手にしとるんだぞ」
やれやれと腕を組んでベッド横までやってきたエラルドを心底鬱陶しげに見上げ、渋々身を起こす。寝ても起きても着たままのネルシャツ、ほどいたままの髪。
世拗ねた態度のレネを見下ろすエラルドはやけに上機嫌だ、不気味なほどに。
「萎れた姿も趣深いものだな。悪くない」
「……期待外れの影は即刻切り捨てるべきです」
「勘違いするな。儂はラドフォード家の客人を害した罪を問いにきたまでよ。愚息の裁量では無罪放免になりかねんだろう?」
レネの瞳が大きく見開かれる。
この男はずっとこの状況を待っていたのか。
ラドフォード家の子供に関する断片的な情報を与えて復讐に駆り立て、"現公爵付きとしてあるまじき振る舞い"を理由にグレンから引き剥がす――すべては最初から、レネを絡め取るために。
この男は、貧民出の使用人風情を手元に取り戻すためにラドフォードの大悪事を利用したのだ。
「このっ……クソジジイ!」
「懐かしいのぉその顔! ようやく年貢の納め時だ、レネ!」
振り上げた拳は容易く受け止められる。
身躱しも当て身もすべてこの男に仕込まれた。力押しでも、小手先の技でも、勝ち目がない。
叫ぼうが暴れようがレネを逃がせる人間などいない。なぜならここはヴァレリス公爵家で、相手は先代公爵その人であり、レネはしがない使用人にすぎず、おまけに罪人だからだ。
――まただ。選択肢はない。ただ頭を押さえつけられて、誰かの欲望を結実させるために日々磨り減るだけ。
「お前の罪を償わせてやろうなぁ、レネよ……愚息に貸し出しておったものを取り返すために随分と手こずった……嗚呼、愉しかったなぁ」
シースリーユの南の部屋は、さぞや豪奢な牢獄となるのだろう。
***
領主館の空気が突然物々しくなったことに気づいて、アルビンは窓に走り寄った。
見覚えのない馬車が門のところに停まっている。
御者と思しき人間がなにやら後輪の周りでうろうろと歩き回っていたと思ったら、従僮に引っ張られてラウルの後ろ姿が現れた。
「あれ……なんで……?」
領主館には今、とんでもない大人物が来館しているはず。
主であるグレンは不在、ならば代理で対応できるのは執事長のラウルか――レネだけだろう。
けれどレネは動けない。そして今、ラウルは馬車のところにいる。
「誰が、対応してるの……?」
さわ、と背筋を撫でられるような感覚。なにかとても嫌なことが起こっている、気がする。
ラウルには「もし部屋の外が騒がしくなっても、誰かが様子を確認しにくるまで出てきてはいけません」とよく言われていた。
領主館に来てからもう半年近く。いくら家族のように迎えてもらっていると言っても、自分はゲストでしかないと理解はしている。共もないまま館内をうろつくのは礼を失した行動だ。
でも、もし今、どこかで誰かが動けなくなっているのなら。自分にはなにもできないけれど、突然異物が発生することで小さな混乱でも引き起こすことができたなら。ほんの少しの時間くらいは稼げるのではないだろうか。
「……ごめんなさい、」
誰にともなく謝罪を口にして、アルビンはひとりゲストルームを後にした。
人気のない二階と対照的に、一階では慌ただしく人が行き来している。調理場と客間が特に騒がしい。何人ものメイドがひっきりなしに出入りを繰り返している。
おかしい、と思う。ゲストへの対応中ならもっと静かに動くだろう。
なら、もてなすべき人物はまだ到着していないのか。門のところに停まった馬車は、先触れに使うような簡素なものではなかったのに。
背筋のざわざわが強くなる。一体なにが起こっているんだろう。
「……レネさん、」
レネならわかるかもしれない。アルビンの持っている断片的な情報から正解を割り出してくれるかもしれない。
怖くはなかった。仇の血を引く自分はレネを傷つけてしまうかもしれないけれど、ヴァレリスの一大事となったら、きっとレネは動けなかった事実のほうを悔やむ。
アルビンは人が途切れるのを見計らって、そっと地下への階段を下っていった。
階段をすべて降りきる前に、叫ぶ声を聞いた。荒々しい言葉遣いと結びつけるのに一拍の間が必要だったが、それはレネの声だった。
対する哄笑は年嵩の男の声。"愚息に貸し出していたものを取り返す"と話すその男の正体は、きっと。
「――先代公爵様」
考えるより先に体が動いていた。開いたままの扉に飛び込んで、背筋を伸ばして声を出す。
利き手を捕まれて身動きを封じられたレネが、度しがたい表情でアルビンを見る。
エラルドは動かない。レネを捕らえたまま、這うような視線だけをアルビンに向ける。
「これはこれは。ラドフォードの神変が自らお目見えとは。小さいのぅ……よう生き延びたものだ」
「卑賤の身にして畏れ多くも先代様の御前に姿を表しましたこと、どうか御寛恕ください。漏れ聞こえたお話から、先代様の誤解をお解きしたく、堪らず出て参りました」
多くの人間と話し、笑うことに慣れた喉がつかえることはない。
胸に片手を当てて小さく膝を折る――震えるな、自分にそう言い聞かせる。
「盗み聞きは感心せんが、聞いてやろう」
そこにきてようやく、エラルドはレネの手を離した。顔がアルビンのほうを向く。
アルビンは、まるで礼儀など知らぬ子供のように、腕を上げてレネを指差す。
「その使用人に、僕は害されておりません。公爵様は突然部屋の扉を開けたものですから、きっと別のことをしているように見えたのです」
「そうか。なら実際は何をしておった?」
「飴を食べさせていました」
その一言で、室内の空気が変わった。
飴、と小さく復唱したエラルドが、完全にアルビンに向き直る。
握った拳の内側にきつく爪を立て、思い付く限りの暢気な声を出して、アルビンは訴えを続ける。
「僕は、人の膝の上で飴を食べるのが好きなのです。そこの使用人がちょうど手隙だというので、膝に乗せて飴を食べさせるよう命じました」
エラルドがアルビンに歩み寄る。石の床に膝を着いて視線を合わせ、小さな両手を握る。
一見すれば優しい交流だ。しかし、実際には首筋にアイスピックなど比にもならない恐怖と威圧感に晒されている。
子供相手とてエラルドは手を抜かない。ここで僅かでも綻びるようなら、アルビンにもレネとさして変わらぬ運命が待っている。
「震えているが」
「寒いのです。地下ですので」
「レネは好きか?」
「彼は優秀な使用人です」
「何を以てそう思う?」
ほんの数秒。まるで赤ん坊が蝶を目で追うように中空を見つめたアルビンは、エラルドに視線を戻すや、にっこりと笑った。
「膝の上があたたかいところです」
人を従える立場に在る、ということ。
使用人を"所有物"と考える人間の前で人格や情緒の話をしても無意味だ。奪われたくないと願うなら、"それは自分にとって有用なものである、ないと困る"という主張をせねばならない。
エラルドは理の通じぬ相手ではない。ただ我を通したいだけの人間であったなら、腕の立つ者を連れてきて強引にレネを連れ去ってしまえばよかったのだ。そうしていないということは、交渉の余地はある。
「レネ、真実か?」
低い声で問いかけるエラルドに、レネは、にやり、と笑って答えた。
「――ええ。神に誓って」
神の御手が人の子を動かすというなら、今目の前にいる美しい子供こそがレネの"神様"だ。
許しを乞うことはしない。ただ、その御心のままに偽を真とする。愛とは時に盲目だ。それ自体には、罪はない。
「なるほどなぁ……誤解だったというならば仕方があるまい。今日のところは、おとなしく帰るとしよう」
不承不承、しかしなぜか充足を得た顔で、エラルドはアルビンの手を離した。
エラルドの姿が階上に消えていく。
足音が完全に聞こえなくなった時、アルビンの体がふらりと傾いだ。
「は……ぁ、」
「アルビン様!」
細く息を吐いてへたり込む。レネは駆け寄って手を伸べ、そのまま膝の上に小さな体を抱き取った。
"あたたかい膝の上が好き"な子供を石の床に座らせるわけにはいくまい。まして今日の千両役者だ。下に置けば間違いなくバチが当たってしまう。
「ダメですよアルビン様、あんな危ないことしたら!」
「でも、レネさんがいないと、公爵様が案山子になってしまうって、前に」
「――先に私のほうが死体になるかと思いました」
「ラウルさん!」
一足遅れて駆けつけたラウルは、躊躇なく床の上に直接腰を下ろし、首元のタイを鬱陶しげに緩めた。最早良い子をやっている余裕はないらしい。
エントランスで「帰る」と告げられたときは巧くやり過ごせたものと安堵したが、地下に入るなりアルビンの名を呼ぶ声がしたので血の気が引いた、と肩を落としてみせる。
「つーか大事な時にどこほっつき歩いてたのよお前」
「御者に足止めされたんだよ。馬の様子がおかしいだの車輪が軋んでるだの、要領得ないことをいつまでもグチグチと。あれは本気でお前を持っていくつもりだったぞ、座席に枷と轡があった」
「うそぉ……こっわ……!」
露骨に震え上がるレネを、アルビンがよしよしと宥めてみせる。
本当につくづく危機的状況だったのだ。ラウルも、レネも、アルビンも首に縄が掛かっていたようなものだ。奇跡的な確率で、今こうしていられる。
安堵の空気の中に突如、気の抜けた声が割り込んだ。
「こんなとこでみんなで座ってなにしてるんだ?」
帰ってくるなり騒動があったことを聞かされ、慌ててレネの無事を確認しに降りてきたグレンは謎の状況に面食らう。
三人分の声が乗った「遅いです」の一言は、石造りの地下によく響いた。




