⑱凶行
午前一時。夜闇に響いた蹄の音で門番は我に返る。
領主館の門前に乗り付けた馬上には、見慣れぬローブを羽織った男が跨がっていた。
何者だ、と叫びながらランプを翳して見上げれば、フードの下からよく見慣れた顔が現れる。
「こんな時間にごめん! 夜食中だった?!」
「レネ?!」
「グレン様に火急でお伝えしなきゃいけないことがあったんだけど……もしかしてすれ違い?」
「残念ながら、昨日執事長を連れて中央に発たれた。最近そういうの多いな」
「だねー、ツイてないなぁ」
グレンとラウルは中央都市からまだ戻っていない――幸運なことに。
門番に礼を言い、そのまま馬を預けて、レネは園庭を抜けた。
玄関ポーチに入ると、大階段の上から白い寝間着姿がひょこりと顔を出して、そのまま一直線に駆け降りてくる。
「レネさん!」
「どうしたんですアルビン様、こんな夜中に!」
「えぇと……昨日まで熱で寝込んでいて、昼間うとうとしたせいで、眠れなくなっちゃったんです」
「熱?! ちょっとおでこ触りますよ?!」
小さな額はひんやりとしていた。顔色は明るいし呼吸も乱れていない。今はねちねちと詳細を問うよりも、無事に回復したことを喜ぶべきだろう。
――今夜のうちに自分がしようとしていることを無視して、そんなことを考える。
「僕がいない間に大事にならなくてよかったです。せっかくですし、快気祝いに甘いものでも食べちゃいましょうか。中央のお土産もあるんですよ」
ひょいとアルビンを抱き上げて廊下を歩き出す。まだまだ細いが、もう骨格標本を抱いているような具合ではなくなった。子供らしい体温とたしかな質量を腕に感じる。
途中、手洗いに向かう庭師のロドと鉢合わせた。ロドは「今朝っから執事長がいねえで寂しっかったものなぁ」とアルビンの頭を撫で、レネにも「悪ぃごとはちゃあんと黙ってでやっからな」と茶目っ気を見せる。
ざわりと胸が騒いだのを黙殺し、レネは「ロド爺も悪よのぅ」と笑ってみせた。
アルビンを一度送ってから、調理場で軽食の支度をした。ミルクを温めてポットに移し、メイドたちが空き時間に駄弁りながらつまんでいるクッキーを少々拝借して皿に並べる。
主役になるのは、中央都市で若者に大流行中のキャンディ。様々なフレーバーがたっぷりと入った特大の包装袋を乗せて、サーブワゴンはアルビンの待つゲストルームへと向かう。
調理場の明かりを落とす前に、アイスピックをベルトに挟むことは忘れなかった――これを使って丸く形成した氷を見て、葡萄色の瞳がキラキラ輝いていたことを、やけに鮮明に思い出していた。
「お待たせしました、アルビン様! 悪い人がやってきましたよ!」
ゲストルームの扉を開く。
カウチに座っていたアルビンは勢いよく立ち上がり、無邪気にサーブワゴンに走り寄る。
ホットミルクの匂い。白黒のチェッカークッキーと、苺色のジャムクッキー。ワゴンの上は舞踏会のように華やかだ。
「わぁ……夜中に、こんな、贅沢な」
「罪深いでしょ? さ、これもアルビン様のものです。開けてみて」
「これっ、このキャンディ……キャラメル味はありますか?!」
「ありますよ、キャラメル。一番人気だそうですからね、多めに入れてもらいました。好きなだけ食べていいですよ」
夢中で包装袋を覗き込むアルビンを、じゃれつくように抱き上げた。膝に乗せてカウチに深く座り、肩に腕を回して、逃れられぬよう拘束する。そう珍しくもないおふざけの一環だと思っているアルビンはくすくす笑って、くすぐったい、と身をよじる。
――この子の生きた十年のどこかに、今以上の幸福はあったのだろうか。最後に聞いてみようかとぼんやり考えて、止めた。
抱き込まれてようやく顔を上げたアルビンは、首筋に触れた冷たい感触の正体を理解していない。
「レネさん……?」
「食べ終わるまで待っています。苦しくも痛くもしませんから、心配しないで」
アルビンの口にはキャンディがひとつ入っている。いたく気にかけていたキャラメル味のキャンディだ。
砂糖の溶けた甘い唾液が少しずつ滑り落ちていく喉の、あまりにも白く柔い皮膚に、アイスピックの先端を突き付ける。
「……僕を殺すんですか」
「あなたはなにも悪くない。けれど生きているべきでもない。それだけのことです」
聞かれてもいないのに、言い訳じみた言葉がつらつらとまろび出る。
――そうだ、殺すのだ。これからこの子を。なんの罪もない、憐れなだけのこの子を。
アルビンは抵抗しない。ただ、内緒話をするような声音で「理由が知りたいです」と問うた。
「ラドフォード家は……人命を軽んじすぎました。あなた自身は犠牲を被った側ですが、同時にラドフォードを継ぐこともできてしまうお立場でもある。苦しみだけの生が約束されているのなら、ここで終わったほうがいい」
「それは僕の苦しみです。僕を殺せばレネさんまで苦しみを背負うことになる。どうしてそこまで、」
「そういうところですよ、アルビン様。突き詰めればあなたが死ぬ理由は"ラドフォード家の連座"です。理不尽だと怒っていい、逃げようとしていい。なのにあなたはそうしない。だから」
詭弁だ、と思う。自分自身を騙しきれていない、児戯にも足らぬ空言だ。
こんな状況になってなお正論でレネを慮るアルビンの態度は、偏った思想に酔うことを許さない。
それでも、もう止まれない。
「これ以上尊厳を踏みにじられる前に、僕が……楽に」
「それでレネさんが楽になるなら、僕は嫌じゃないです」
ひゅう、と喉の鳴る音がする。殺そうとしている側だというのに、首にかけた縄を引かれるように喘いでいるのはレネのほうだった。
アルビンは沈黙している。己の命を奪わんとするレネに脱力した体を預け、抱かれるままになって、口の中のキャンディをカラカラと転がす音だけが雄弁だ。
回す腕が知らず強くなる――明日はもっと美味しいものを食べましょう。そう言ってやりたいと感情が抗うたび、枯れゆく白い花の幻影を見る。
やがて、飴を転がす音が止んだ。アルビンは眠るように瞼を閉じている。
柄を握り直してアイスピックの角度を変えた時、にわかに廊下が騒がしくなった。
「アルビン様!!」
大きな音を立てて扉が開かれる。
まずはラウルが、そしてグレンが、張りつめた空気に動きを止めた。
青菫と若葉の瞳がかち合う。
「レネ、やめなさい」
「やめません」
「復讐になるか? その子を殺して」
ふ、とレネは吐息で笑った。
グレンは正しい人間だ。出会った時からその正しさに救われていた。正しく在ることができる立場が眩しくて、正しさに縛られる姿が痛ましくて、苦しみを分かち合えば自分まで明るい場所にいられる気がした。
生きるために選び取らざるを得なかった"ヴァレリスの影"という立ち位置を、はじめて喜ばしいものだと思えた。グレンが内に抱える暗闇ごと、レネにとっては光そのものだった。
――だから、グレンには決してわかるまい。闇の中に押し込まれた人間に、正しく生きる術を奪い取られた人間に、破滅がどれだけ優しい顔を見せるのか。
「僕、育ちが悪いんです。公爵家に身を置いているくせに、アズールで生きてきた過去を消し去るつもりがないんですよ。グレン様、聞きましたか? ラドフォードの手口。"貴族家でなんの憂いもなく働ける、上等なお仕着せでゆっくり学んで、いずれは上級使用人にする"って言って連れ出していたんだそうです。数日後には物言わぬ肉の塊にするっていうのにね」
「――っ、」
露悪的な物言いに反応したのはグレンではなく、ラウルだった。眉をひそめて、苦痛と同じ表情を浮かべる。
生まれながらの貴族。どこまでも優しい人間。レネより年上のくせに弟のようで、グレンが何を差し置いても傍に置きたがる理由がよくわかる。
だからこそ、そのままでは足りないのだ。補える人間はこうして不意にいなくなるのだから。
「ラウル。お前もうちょい冷徹になりなって。これからひとりでグレン様をお支えしなきゃいけないんだから。グレン様も甘やかしすぎてはいけませんよ。ラウルはあなたの片腕、半身です。あなたはいつもひとりで背負いすぎる」
グレンは物言いたげに口を開きかけ、声は出さぬまま口を閉じる。視線は、何かに気づいた様子だった。
レネの腕を静かに掴む、力ない細い指。
「ラドフォード家のお話、もう少し聞きたいです」
「……嫌な話ですよ」
「どうせなら聞いて死にます。腐っても生家のことですので」
アルビンの声は淡々としていた。瞼は閉ざされたまま、安らかにさえ見える。
――自分はこの子にとって加害者以上のものにはなれない。だからせめて、与えられるものはすべて与えよう。それが吐き気を催すような事実でも。
「ラドフォード家は昔、捕虜の生体売買に手を染めていたんです。近隣諸国との停戦条約締結が進んだ頃は一時的に手を引いていましたが、ここ五年ほどで商売を再開しました――"商品"を捕虜から孤児、それから家族に見放された落伍者に変え、侯爵の眼鏡にかなわなかった実子と用済みになった妻をラインナップに加えて、金持ち相手に販売するんです。生きたまま求められれば命ある状態で引き渡されますが、そうでなければ求められた部位だけを取り出して、加工なんかもオプションで請け負ったそうですよ? 標本とかね」
「……どうかしてる、」
「それが正しい反応だ。けど、その機微を持たずに生まれ育ってしまう人間がいることから目を逸らすな」
思わず口を挟んだラウルが、甘さを指摘されて黙り込む。
アルビンは反応しない。ただ腕の下で、緩やかな呼吸とともに上下する胸が、音もなく続きを促す。
「アルビン様も"商品"だった。ですが、競りにかけられる前にその血の特異性に気づいた者がいた――"往診医"のポール・ガランです。彼が手を加え、アルビン様の血液は強力な強壮剤となった。まるでラドフォード家の人間として生まれついたが如く、強く猛然と活動できる……心身の過覚醒状態を長時間維持し、副作用も起こらない。奇跡の秘薬は"ネクタリン・ルージュ"の名を冠され、数多の貴族を虜にしました」
「……先、生」
「本当はね、アルビン様、その敬称さえ不相応だったんです。ポール・ガランはそもそも医者ではなかったのですから。あなたの血を使った"ネクタリン・ルージュ"はポールの懐を潤し、ラドフォード家の人脈掌握の要石となりました。近々には陞爵の話も持ち上がっていたそうです。いやぁ、なんとも景気のいいお話で」
皮肉に笑って話を締め括る。
アルビンは満足したようだ。腕から指が外れ、瞼がほんの少し開いている。
――潮時だ。これ以上引き伸ばせば恐怖が長引く。
ケリをつけようとするレネに、ラウルが追い縋る。
「だからって……アルビン様を殺すのは違うだろう」
「合ってるよ。アルビン様は生かしておく限り富を生む。ラドフォード侯爵が権力の座を逐われても、血の特性が知れ渡れば平穏はない。中央府もアルビン様を欲するだろう。そうなってしまえばアルビン様は、用途のために生かされ続ける家畜と変わらない」
家門のために罪人の軛をかけられ、中央府の監視下で生体調査のために生かされる――ラドフォード家での待遇と大差ない暮らしを強いられることになるだろう。
だからここで終わることが最良なのだ。自分ならただ一瞬の苦痛で終わらせてやれる。復讐の責任を転嫁するつもりなど更々ないが、一度光の当たる場所に届いてしまったアルビンが再び絶望を見る前に、一切の憂いのない場所まで逃がしてやりたい気持ちに嘘はない。
アイスピックを握り直す。鋭い先端がアルビンの首筋に触れる。
「アルビン様は十分に苦しんだでしょう? もう、楽になってもいいじゃないですか」
誰にともなくそう訴えるレネの表情は、どこか諦めたような、酷く疲れたようなものに見えた。
ここまで口を噤んでいたグレンが不意に口を開く。
「楽になりたいのは、レネ、お前でしょ」
若葉の両目は、ただ真っ直ぐにレネを見据えていた。
小さく首を横に振った後、レネはアイスピックを振り上げる。
瞬間、ラウルが弾かれたようにグレンの横を飛び出していった。アイスピックの軌道に左腕を突き出し、そのまま腕を薙いでレネを突き飛ばす。
右腕で強く引き寄せられたアルビンは、アイスピックが深々と刺さったラウルの腕を見て声にならない悲鳴を上げた。
「……っ、ラウルさん、血が、」
「私が怪我をしたら悲しいですか、アルビン様」
問われた言葉の意味が飲み込めない、という表情だった。目を見開いて、どうしてそんな当たり前のことをこんな大変な時にわざわざ聞くのか、とでも言いたげな。
「もしそうなら、私も同じ気持ちです」
ラウルが継いだ言葉でようやく意図を理解したアルビンは、途方に暮れたようにひとつ頷いて、そのまま音もなく泣き出した。




