⑰白日
麗らかな日だった。
夏空は青く澄んで、陰影の濃い白雲が縫い止められたように浮かんでいる。高い門の外からひっきりなしに聞こえる馬車の音と対比するように、教会の敷地内には豊かな緑が広がっている。
――ここにいたのだ。"弟"も、"妹"も。なにも知らぬまま生きていられた自分も。
レネは立ち尽くしたまま、足元に落ちている白い花に目をやった。茶色く朽ちて、虫に集られ、わずかな水分でさえ吸い尽くされてしまう。
なんのために、と思う。一体、なんのために、生まれてきたんだろう。
「レネ」
顔を上げると、そこに白い頭巾の修道女が立っていた。
何度足を運んでも会ってはくれなかった、レネの育て親――シスター・ミラ。
「忠告していたはずですよ。忘れなさい、もう来てはいけない、と。あなたは昔から聞き分けのない……いいえ、やめましょう」
厳しげな表情の中に一匙の安堵を見つけてしまうのは、昔そうしたことを褒められたからだ。
"レネは人の細やかな感情によく気がつきますね。"
"私は無愛想ですから、助けられているのです。"
"あなたは、きっと誰かを救う人になります。"
そんなかつての言葉が真実になるかどうかは、今この喉を通り抜けようとする言葉にかかっている。
「ひとつだけ聞かせてください……シスターは、」
「悔いなかった日はありませんでした。ただの一度も」
レネの言葉を遮って、シスター・ミラははっきりとそう口にした。
眉間の皺が深くなる。灰色の瞳に薄い水の膜が張る。
「私の不甲斐なさは、私自身によって贖われねばなりません。だからあなたは忘れなさい」
やっぱりこの人は、とても優しい人だ。求めた答えは与えられた。
潔白。ここが穢れえぬ場所であった証明。今のレネにとって唯一の福音となりうる言葉。
「それは……ちょっと難しいです」
「レネ」
「自分でできることは自分でやりたいんです。だから、」
「神は必ずお救い下さいます!」
――足元をですか?
そんな皮肉を言うたびに、口が悪いと叱られていた、安らかで遠い日々。白い陽光が降り注ぎ、幼い笑い声の聞こえる場所。
今、ここにレネの居場所はない。ここから連れ出され、暗く冷たい場所に葬られてしまった"弟妹"たちにも。
だからレネは動くのだ。ここで生かされ、育てられたから。
今この手の中にあるものを、すべて失うのだとしても。
「神は、自らの御手の代わりに、人の子を動かすのです……それを忘れないで、どうか」
背を追うシスターの声に、レネは振り返らなかった。
***
アルバローズ中央都市西部、地下水道。そこにふたつの人影がある。
ひとつは、汚れきった道の上に横たわっている女だ。上等な生地で作られた臙脂のデイドレスは、女がそれまで不自由のない暮らしを送っていたことを物語っている。
「――なんでかなぁ」
それを冷たく見下ろす影は、不意にブーツの爪先で女をつついた。
二度、三度。そのままつまらなそうな声音で、ぽつぽつと女に語りかける。
「まあ、あんたには相応の結末だよねぇ。問題起こしてカヴァネス馘になって、ラドフォードの女中になるしかなかったんでしょ?」
調べはついていた。
元を辿れば下位貴族の娘。まともな縁談にありつけず、カヴァネスとして問題を起こして放逐された後、ラドフォードに拾われた。
対象を恐怖と暴力で支配するような人間性は、ラドフォード家が求める"アルビン付きの女中"として最適だったのかもしれない。逃げる先がないことも囲い込みには好条件だ。
もっともこの女に危機感はなく、いずれお手つきになって侯爵夫人に、とでも考えていた節がある。最後まで誰からも相手にされることはなく、その鬱憤を鞭に込めていたようだが。
「それで……あの可哀想な子を虐めて、苛めて、鞭を使って。あの子の腕の傷は死ぬまで消えない痕になったよ」
ブーツの足先が一層に力を込めて女の肩を蹴る。
されるがままごろりと転がって、女の顔が上を向いた。老い染みた険しい表情。汚れと黴にまみれた天井が濁った瞳に映る。
「それだけじゃない。ラドフォードの男どもの言うなりになって、ポール・ガランと一緒に子供を調達してたの、あんただね。だから、」
ぽつりぽつりと呟きながら男がしゃがみこむ。
女の胴体には無数の刺し傷。縦長の傷口はナイフ――ポール・ガランの殺害と同じ手口。
憎々しげに吐き捨てる声が、地下水道に響く。
「罰が当たったんだ。僕が殺してやりたかったのに、先越されるほど恨まれてたんだ。ホント最悪だよあんた」
恨み言を吐き終えて、二本の脚はふらふらと歩き出した。
行き先は、シースリーユを出る時に決めていた。
「もう、できることひとつしか残ってないじゃん」
――呆然と呟くレネの声に応える者は、今はない。




