⑯忍び寄るもの
ここから第五部です。
ラドフォード侯爵家には、女神アテナの加護がある――宴席での戯れや幇間の使う美辞麗句だが、そう呼ばわれるだけの事実の上にかの家門は在る。
天を突くような長身に剛健な体躯、燃えるような赤毛。立て続く国境紛争で頭角を現したラドフォード家は、拡大する戦線に後押しされるように地位を得ていった。
こと、現侯爵の辣腕が中央府にもたらした功績は多大なるものだ。奇を衒った策略と威圧的な容姿はそれだけで相対する者の士気を削ぐ。"戦うために生まれた血筋"というのも大言壮語ではない。
その一方で、女神の加護は呪いに連なる、と口さがなく噂する者も絶えない。
現状、ラドフォードの直系には男児しか誕生していない。現侯爵の直子も男児が三人、全員が壮健な佐官軍人だ。
しかし、彼らそれぞれの母は例外なく産褥で命を落としている。侯爵の迎えた四人目の妻も肺を病み、中央から遠く離れた領地にて長い療養生活を送っているという。女神の嫉妬が家系に入り込む女を排除している、というわけだ。
二人目までは与太話でも、四人続けば迷信になる。それでも侯爵令息たちに送られる子女の釣書が絶えないのは、軍を掌中にし一大派閥の核となっているラドフォードの縁戚となる恩恵が、己の娘の命よりもよほど重いからである。
壁一面の窓から海を臨む。薄暗い応接間に青色が照り映え、真夏だというのに視界は涼やかでさえある。
更紗の織り布を被せた籐椅子でパイプを燻らすエラルド・ヴァレリス卿の正面には、青菫色の瞳の若い男が座っている。
さも退屈そうに他家の歴史と評判を語るエラルドの態度を前にして、それより二回りは年下の男が臆する様子はない。むしろ悠々と長い脚を組み、その上に肘をついて老いた顔を見上げる。
「――で、そんな誰でも知っている寝言をご丁寧に語り聞かせてどうしたんです?」
問いかけておきながら、真正面から向き合いはしない。
カップの横に添えられたピッチャーからなみなみとミルクを注ぎ、金の縁取りがついた華奢なティーカップに遠慮なく口をつける。丁寧に喉の奥に注ぎ込み、深く、深く、息を吐く。
「これがなかったら律儀にここへ来ることもないんですがねぇ」
本気ではない。こんなものがあろうがなかろうが、用さえなければ出向くことはないと双方承知の上だ。
故に、エラルドはにやりと口を歪めてみせる。相手のささやかな、けれどたしかな屈服を褒めるように。
「よく合うだろう? わざわざミルクティー向きの東方の葉を買い付けたんだぞ」
「そんなことに手間暇かけるのはお止めください。先代様はそこらの草を煮出したものでも美味しく召し上がられるでしょうに」
「さすがにそこまででは……ないつもりだが」
「ない、と断言してくださらないとここのメイドが泣きますよ」
一度折れてしまえば男のほうは身軽なものだ。元公爵に対して到底許されぬ発言が次から次へと飛び出してくる。
エラルドとて満更でもない様子で相手にしている。
奇妙な信頼と連帯感。二人の間に流れるものは、凝った薄暗い気配をそのままに、話題に沿って重みだけを変えていく。
「ラドフォードのことは、愚息には教えておらんだろう」
「教えてますよ。表の話ですから」
「では、裏は?」
エラルドの口の端が綻びる。
ひそめた柳眉に明確な嫌悪が浮かぶ。悪趣味なジジイ、と喉の奥まで上がってきた言葉を押し止め、男は努めて義務的に、質問に答えを返す。
「捕虜に値札つけて悪趣味な金満家に競りをさせていた話はしてません。そもそもあなたが潰したと聞いてます。なんですか、愛息子に武勇伝を語り継いでほしいと? ご自分でなさったらいいじゃないですか」
「本丸に行き着く前に尻尾切りで逃げられておいて武勇伝もクソもなかろう。それより随分と上品になったものだ。以前のお前なら"買い手がつかなければその場で人間解体ショーに早変わりの凄惨極まるスナッフオークション"くらいの表現をしたと思うがな。見た目に違わぬ繊細な中身になったなら、今すぐにでもここの南の部屋で暮らせる手筈を調えてやるが?」
絡みつく視線の不快さを隠しもせず、男は話の軸を戻す。
老人の手慰みにこれ以上付き合ってやる暇はない。ただひとりの主人に約束しているのだ。できるだけ早く帰ると。
「今は捕虜そのものが調達できないんですから話す意味がないでしょう。一番新しい停戦条約が十五年前ですよ」
「捕虜に拘る必要がどこにある? 健康な人間の肉体さえ調達できれば同じ商いは可能だ。今回の件とて特段難しい謎解きではなかっただろう? なあ、レネよ」
今度こそ、男――レネは、青菫色の瞳でエラルドをきつく睨みつけた。
察してはいた。情報を渡すのではなく、わざわざロンサールの舞踏会に潜入させた理由は、ラドフォードの人身売買の餌食になっていたのがアズール修道孤児院の子供たちだと知っていたからだ。
そして、事実を察した後もすぐに派手な動きはせず、こそこそと地固めに奔走しているレネを嗤っている。
「愚息の影響で腑抜けられては敵わんのだがな」
「跪いて慈悲でも乞いましょうか?」
「悪い提案ではないが生憎気分にそぐわん。相変わらず臭みが抜けきらんな……それも含めてこそのお前だが」
ふう、と濃い白煙を吐き出して、エラルドは部屋の隅に置かれた花を見る。毒々しいほど赤い芙蓉の花は、太陽の下から遠ざけられて、薄い花弁をだらりと重力に投げ出している。
「ラドフォードのあの子供は悪運が強い。"珍しい色素欠乏を標本にしたい"と言い出した輩のために、血抜きされる寸前だったそうだ。それで、医者の真似事をしていたあの小悪党が特殊な血の組成に気がついた。少し手間をかければ新たな商売の種になる――そんな小悪党の欲目で、あの子供は首の皮一枚、生き延びた」
「肝心の小悪党自身は死んでしまいましたがね」
「青い血の流れぬ者が不相応な商いに手を出した結果だ。憐れなものよ」
ふん、と鼻を鳴らすエラルドの口元が引き結ばれるのを見る。
貶しはすれど蔑んではいないのだ。性質の悪いことに、この性悪ジジイは泥の底から這い上がろうと足掻く平民を好む。それに失敗して沈んでいったポール・ガラン然り、そして、かつてのレネ然り。
「あの子をどうなさるおつもりで? ラドフォードの商売を乗っ取るのですか」
「くだらん。子供を食い物にするほど落ちぶれるようならとっくにお前がこの喉笛掻っ切っておろう」
「それもそうですが」
「それより、お前はどうする」
「どう、とは?」
「儂はお前を気に入っておるからな。ひとつサービスしてやる」
嫌な予感がした。この男の手札は既に見切ったと思っていた。
レネの表情から余裕が消える。
反対に、エラルドの顔には勝利の笑みが浮かんでいた。
「あの子供は正真正銘ラドフォードの血統だ。"療養中"の実母は既に生きておらん」
どくん、と心臓が跳ねる。物理的な攻撃を受けたような衝撃で視界が揺らぐ。
よからぬことを考えなかったわけではない。ラドフォードの真実が見えてくるにつれ、あの子が重要な財源ならばいつか必ず取り戻したがるだろうと――その時に使えると、打算はあった。
違う。助けたい、守ってやりたいと本心から思ったのだ。嘘じゃない――きっとどこからか攫われてきた子供なのだと信じていればいくらだって優しくなれた。
大事にしてやりたかったのだ。レネの手の届く範囲にいた、小さく弱い生き物だから。
鼻水を垂らしながら笑っていた"弟"。踊り子になりたいと夢を語った"妹"。神の家を仮住まいとして与えられたに過ぎない、レネの"兄弟"たちと同じように。
「求めよ、然らば与えられん、だろう? なあ、レネよ」
エラルドの顔は、もうレネの目には映っていない。
ただ、その言葉だけがいつまでも、頭の中を支配していた。




