幕間 昔日
薬師になるのが幼いグレンの夢だった。
公爵家の嫡男として生まれはしたが、抱えた事業にやれ医学だやれ薬学だとつくものが山ほどあるのだから、そのうちのひとつを学び詰めるのは悪いことじゃないはずだと思っていた。十五になって製薬の専門機関に入りたいと願うまでは周囲も静かなものだった。
しかし、薬師への道のために帝王学と経済学を捨てたいとなった途端、環境は一変した。
――騎乗の練度や銃剣の技量を磨くことにはとんと食指が動かない、変わり者の落伍者。
――室内でスポイトやフラスコとばかり遊んでいる、陰気な公爵家の七光り。
それまでは陰口に留まっていた社交場での口さがない悪態が容赦なく耳に入るようになった。
貴族学院ではつまらない嫌がらせを受けたこともある。
主導していたのは縁戚の伯爵家で、教師まで買収してせっせとケチな攻撃に勤しんでいたようだ。
曰く、"近い将来ヴァレリス公爵家を担う自覚が致命的に欠如した稚拙な精神性を矯正せんがための善意であった"。
曰く、"ヴァレリス一門の頂点に立つからには私的な望みや願いを懐くことは許されず、一門の存続のためにのみ生きなければならぬ"。
赤ん坊のような傲慢と自分本意。成人を過ぎ子を成してなお一度も自省の機会を得なかった、誰からも道徳や善悪の軛を与えてもらえなかった憐れな動物。そんなものでも平然と生きていられる、貴族とはなんと理に反した生き物だろうとグレンは呆れた。
ともあれ、そんなものは単なる外野だ。
極めて悪質だったのは実父であるエラルド・ヴァレリスだった。
『一門からそういった意見が出ている以上、無視することはできん。どうする、グレン。すべて捨てるというなら止めん。進学費用くらいなら賄ってやるが、爵位を捨てて薬学に人生を捧げるか?』
それでもいい、と言うつもりだった。
元より望んで公爵家に生まれたわけではない。貴族の水が肌に合うわけでもない。
己の能力を叩き上げて、ひとりで生きていく未来に希望さえ見ていた。
『そうなれば、二度とラウルに会わせるわけにはいかんがな』
その一言でグレンの威勢は挫かれた。
産褥で母を亡くしたグレンにとって真の肉親と思えるのは、母の実家でメイドをしていた乳母と、乳兄弟のラウルだけだ。その乳母も流行り病で不惑四十を迎えることなく世を去っている。
奪うように連れてこられたソルヴェールの領主館で、ラウルだけが絶対の味方だった。
『フロイス子爵家はヴァレリスの寄子。そして、女子爵亡き後はラウル自身がフロイス子爵だ。寄親として、年若い寄子の人間関係にはよくよく気を配ってやらねばならん』
グレンが一令息でしかなかった頃、ラウル自身は既に子爵であったのだと、その時に知った。
侍従として勤めながら、相続した資産を運用し、母より継いだ爵位を返上せずに済むよう人知れず励んでいたのだと。
『お前が気を遣わぬようにと口止めされておったがな。あれは堅実だ、ヴァレリスの役に立つ。むざむざ芽を摘みたくはないものだ』
寄親に睨まれたという理由で身代を潰す下位貴族など掃いて捨てるほどいる。二度と会わせない、という言葉は虚仮威しではない。
だから――グレンは折れたのだ。
専門機関ではなく平均的な学問機関に進み、いずれ必ず公爵家を継ぐことを約束させられた。
いつかのカヴァネスがしたように、グレンの失態を大義名分としてラウルが吊し上げられるのが怖かった。
薬学を学ぶことそのものに制限は設けられなかったが、他のタスクに時間を取られる分だけ足を引っ張られ、疲労は重く蓄積していった。
その頃だ。領主館にレネがやってきたのは。
当時からレネは聡かった。活発で、気安く、よく笑っていたはずだ。
しかし、グレンの中にあるレネの姿には不思議と笑顔がない。張りつめた目付きで常に周囲を警戒し、いずれ舌を噛んで死んでしまいそうな危うさを背に纏い、それを上手に覆い隠して綺麗に笑っているのがレネだった。
その姿が――羨ましかった。ひとつ年下だというレネのしなやかな強さを、いつか自分が手にできる気はしなかった。
それを正直に本人に伝えると、レネは心底怪訝な顔をしてグレンを見上げた。
『何をおっしゃってるんです? 僕が持ってるなら、あなたが持ってるのと同じことじゃないですか』
『君は君だろ。君の強さは君のものだ』
ころころと変わる他人の表情は面白いものだ、しみじみとそう思った。
レネの顔は見る間に純粋な驚きを示すものに変わり、それから間もなくして、どこか照れたような笑いを形取る。
『悪運尽きたと思ってましたけど、そうでもないかもしれないです』
十六歳と十五歳。空の高い、夏の終わりの頃の話だ。
それ以来グレンの中のレネは、今のレネの顔になった。
エラルドに強いられた学習カリキュラムに憔悴したグレンを見たレネは、グレンと共に教本を読むようになった。「よくわからないです」と言うので教えているうちに身についたものは多い。
未来の公爵という重荷を「ちょっとだけ一緒に持ってあげます」と言って、社交の必要な場にはついてくるようになった。見目良く明るいレネは、そこにいるだけでグレンの印象を底上げしていたと思う。
本当は薬の研究だけしていたいと打ち明けたら「なら本業にしてしまいましょう」とも言った。ソルヴェールのはずれの浮いた土地を活用して製薬工房を立ち上げること、資金繰りや研究者の調達先、新聞社を抱き込んだマーケティング。現実から逃げるために拙い知恵で語った夢物語は、レネの助言と交渉で見る間に実現していった。
結果が出れば扱いも変わる。成功の恩恵に与りたいとすり寄ってくるのは学問の徒であっても同じこと。薬学の教授陣が特別に時間を割いてくれる機会が増え、グレンは無事に望む分野での課程を修め終えることができた。
中央府直々の声掛けで都市内にも工房を持つことが決まった頃には、グレンの評価は"堅実な実業家の顔を持つ有望な小公爵"に変わっていた。
エラルドは苦い顔をしていたが、課された要件を満たしている息子の粗を探すことまではしなかった。
レネは「すべてグレン様のお力で成し得たことです」と言う。「グレン様のお人柄が僕に動きたくさせたんですよ」とも言う。
レネの隣は心地良い。嘘偽りなく、そう思う。
温かく明るい記憶には、常に陰が差す。
自分ひとりではなにもできなかったことくらい嫌というほど理解している。
グレンがなんとかヴァレリス公爵をやれているのは、ラウルとレネがいるからだ。公爵家に首輪で繋がれて、逃れればきっと真っ当に生きてはいけない二人。
ままならぬ地獄の中で足掻き続けるためにグレンが掴んでいた手は、同じ地獄に繋がれた人々の手だった。




