⑬長夜
ここから第四部です。
ロンサールの舞踏会から丸一日が経過した夜。
三階南東の私室にて、レネは慣れた旅装に身を包んでいた。
ネクタリン・ルージュの効果は無事に消えている。グレンから筋力の過活性が随分後まで残っていたことを知らされたが、レネは神経覚醒効果の時点で相性が悪かったようで、色々と試す前にブラックアウトしてしまった。
それでも、医師から異常なしのお墨付きをもらった今は関係なくなった話だ。これ以上休んでいる暇はない。
ワードローブから帽子を取り出そうとしたところで、控えめなノックの音が静寂を破る。
黙ったまま扉を引き開けると、そこにはガウン姿のグレンが立っていた。
「おや……下々の居室にわざわざお出ましとは。せっかくなので安眠に良い薬草茶でもお淹れして差し上げたいところですが」
「君はラベンダーあんまり好きじゃないだろ」
「カモミールなら好きですよ。ミルクティーに入れると美味いです」
「知ってる。前に淹れてくれたしな」
おどけた会話とは裏腹に、纏う空気は重たい。
閉じた窓の向こうから聞こえる虫の音がやけに遠く感じる。
「行くのか」
どこへ、とは聞かなかった。なぜ、とも聞かなかった。
それを手放しの信頼と呼ぶべきか、愚かな油断と呼ぶべきかは、お互いにわからないままだ。
「大詰めが見えて参りましたからねぇ。ここで後手に回るわけにはいきません。ヴァレリスの威信に関わります」
言葉に皮肉げな鼻笑いが混じる。
グレンの表情がわずかに歪んだ。レネの見えない首輪の先が"ヴァレリス公爵家"に繋がっていると明示されることが不愉快なのだ。
だからレネは、ひとつだけ手札を明かしてみることにした。
「――グレン様」
「うん?」
「戻ったら、謝罪をひとつ聞いてください。どんな処罰も受け入れますから」
「急に物騒なこと言うなぁ」
「なかなか大したやらかしですから。首が飛んじゃうかもしれません」
「もしそうなったら、俺は狸親父に関してなんにも言えなくなるよ」
我を通すために理を曲げさせる。
黒いものを白と言わせるくらいなら潔く別の方法を模索するべきだと、グレンはずっと考えてきた。今も許される限りそうした在り方でいたいと願っている。
だが――レネが犯した罪で裁かれねばならないのなら、そしてその代償が軽くないものだったなら。
グレンはなんの葛藤もなく、公爵の権限を振りかざして理を曲げるだろう。
「影がなければ光もない。忘れるな、レネ」
グレンの覚悟を知っているのか、いないのか。
常に飄々としてつかみどころのない、類いまれに優秀な執務補佐官が表情を崩すことはない。
「急いで帰って参ります」
浅く膝を折る、芝居がかった礼。
見慣れた微笑みを浮かべた青菫色の瞳は、帽子のつばに遮られて消えた。
***
耳に届いたノックの音で我に返る。
自覚のない間に書斎に戻っていたようだ。
グレンが入室を許可すると、姿を見せたのはラウルだった。
「どうした、悪いものでも食べたのか?」
様子がおかしいのは一目瞭然だ。もう午前二時になろうというのに未だ執事服のまま、表情も暗い。
軽口にも反応せずにグレンの目前に立ったラウルは、おもむろに深く頭を垂れる。
「ご報告に参りました。ラドフォード家の一件、アルビン様は関与しておられます」
声は低く、それでも淀みなく、そう言い切る。
ついさっき聞いたレネの言葉が過る。
『大詰めが見えて参りましたからねぇ』――まったくその通りだ。目を凝らさなくても嫌というほどよく見えるし、なんなら向こうから近付いてきて目を逸らすなと強いてくる。腹は決めているつもりだったが、一夜にこうも立て続くとは。
疲労する表情筋をなんとか引き締めて、聞き取りの姿勢に入る。
「血を悪用していた、とアルビン自身が言ったのか?」
「自発意思ではありません。しかし、ご自身の血液が悪用されていると悟っていらしたようで」
「脅されて差し出していた?」
「いいえ……検査の名目で、定期的に大量の血液を抜き取られていたとおっしゃいました。それから、これを」
差し出された、紐綴じの帳簿。表紙にはなんの但し書きもない。薄汚れているところを見るとどこかにしまいこんであったのだろう。
内容を検めはじめたグレンの傍で、ラウルが続ける。
「侯爵家を出る際に持ち出したのだそうです。ただ、ご自分でも詳細がわからないので、いつ誰に見せるべきか迷っていたのだと」
「詳細がわからないのに持ち出した?」
「そうするように強く言われた、と。そして指示した人物は、この帳簿がなんなのか知っていた様子だったと」
「誰だ」
「ポール・ガランです。アルビン様は、彼を"往診のお医者様"とおっしゃいました」
――また、そこに繋がる。
地下水道の遺体。ヴァレリス中央製薬工房の研究員。ラドフォードの企みに加担する者。そして、アルビンの往診医。
帳簿を捲っていく。
赤の消し込み線を引かれた名前が延々と並ぶ。日付、氏名、M/Fは性別か。大半が"アズール"と記された項目には、時折違う単語が書き入れられている。
指でなぞりながら情報を追っていたグレンは、ある頁で手を止めた。
ひとつだけ線の引かれていないアルビンの名前。
気になったのは、その少し上の欄だ。
「ニコル・リュータン……聞き覚えがないか?」
視線を上げて問いかけると、少し思考の間を置いて、ラウルが答える。
「数年前に失踪された、リュータン伯爵家の二番目の御子息です」
「酒で身を持ち崩したという噂があった。いなくなった時も、家族ですらあまり悲しんだ様子はなかった」
行の最後の言葉を見るに、ここに名前を書かれた人間は録な目に遇っていない。命があれば御の字だろう。
そんなものの上に、法と制度から何重にも存在を守られているはずの高位貴族がはっきりと名を連ねている。
この帳簿は外に出てはならなかったものだ。奇跡の秘薬"ネクタリン・ルージュ"と同じように。
糸口は掴んだ。あとは情報を積み上げるだけだ。
「バーナード・メイアン。ダスティン・シュベール。それと、モニカ・ラドフォードについて調べてくれるか」
「早急に。しかし……アズール、という家名には覚えがありません。出自がないことを示す符丁でしょうか……グレン様?」
訝しむラウルに、返答はなかった。
眉頭をきつく寄せて、若葉色の瞳は手元の一点を睨む。視線の先は、帳簿に落ちていながら、そこにないなにかをじっと見つめている。
「近く、中央に行く。たしかめたいことができた」
ただ簡潔に、グレンはそれだけを告げた。
ラウルとの話が一区切りつく頃には、東の空が白みはじめていた。
書斎の灯りは落としてある。自分とてこれからやっと寝支度をするくせに「少しでも休まねば体に毒です」と言い募るラウルを安心させるためだった。
実際、短い休息を取る意思もある。ただ多少の後押しが必要というだけだ。寝酒で睡眠を買うのは大人に許された特権なのだ、嬉しくはないが。
薄闇の中で見渡せば、当然、書斎は荒らされてはいない。引き出しや机上は整頓され、鍵は所定の場所にある。
変わったのは、キャビネットの最下段が空になっていることだけだ。所持しているだけで気の重かった書類は、そこにはない。
「――俺は光じゃないよ、レネ」
この事実がどんな結末に繋がるのかは、そう遠くない未来に知ることになるだろう。
ひりつく胃に一口分の洋酒を流し込んで、グレンは目を伏せた。




