幕間 キャンディマン
ある日"リジー"が連れてきたその人は、くすんだ白衣を着ていた。
もしゃもしゃの髪に丸い眼鏡で、髭がまばらに残っていた。
近づくと不思議な匂いがした。青い草の匂いと、消毒液の匂いと、甘い匂い。
その人は、僕の血が必要だと言った。僕は体が小さくて弱いから、悪いところがないかどうか調べたいのだと――"リジー"のように「できそこない」とは言わなかった。
大きな注射器は怖かったけれど、「よく見てみろ、針はこんなに小さいぞ」と言われて目を開いた。たしかに針は小さくて、ペン先よりも細かった。
「これだけ採れりゃ充分だ。よく頑張った」
大きな掌が頭の上に乗る。
笑っている人を、はじめて見た。
血を採るのは、あんまり良い気分ではなかった。手足の先が冷たく痺れてきて、くらくらして起きていられない。
ある時"リジー"が鞭を使おうとしたのを、その人は止めた。
「針が動いたらどうしてくれる!」
それから、その人が来る日は"リジー"の姿を見なくなった。
月に二回、あるいは三回。僕から血を取った日はそのまま離れにいるようになった。
その人に連れられて、はじめて部屋を出た。廊下は暗く、床板は軋んで、行ける場所も限られていたけれど。
その人のいる部屋には、細々した機械とガラスの容器がたくさんあって。「触られると困るからな」と言って、僕を抱きながら色んなものを見せてくれた。
大人しくしていたら、部屋を出るときに、その人は言った。
「御褒美やるよ。口開けな」
黙って従うと、口の中になにかがころんと入ってきた。硬くて、とても甘くて、少ししょっぱい。ゆっくり舐めて溶かせと言われた。
その日からその人は、なにかあると僕に御褒美をくれるようになった。
その人を"先生"と呼ぶようになったのは、肌寒い雨の日だった。
先生はいつものように僕の血を採って、甘い御褒美を口に入れ、ベッドに寝かせて部屋を出ようとした。
「……さむいよ、……先生」
引き留めたのは僕で、どうしてそんなことができたのか今もわからない。
先生は驚いた顔で僕をしばらく見下ろした後、こめかみの辺りを指先で掻きながらなにか考えていた。
しばらくして、先生は僕を毛布にくるんだまま抱き上げて、部屋を出た。
僕がいる部屋、その隣の扉。開くと壁三面いっぱいに本が詰まっている。棚に収まりきれず床に積まれているものもたくさんあった。
先生はその一角に陣取って、胡座をかいた膝の上に僕を乗せる。
その辺りにあった一冊の本を取る。冒険活劇の絵本だった。荒々しい筆致で描かれた灰色の海を、旗を掲げた大きな船が果敢に進んでいく。
「これ、わかるか? 船だ。嵐の海を越えて、」
「……ふね」
「宝を探しに、水平線の向こうへ」
「……たから」
「そう、宝」
大きな絵に目が吸い寄せられる。
膝の上はあたたかくて、口の中は甘かった。
「お前は賢いから。溜まった泥の中からでも、きっと宝を見つけられる」
耳元で聞こえる先生の声が、やけに心地よかった。
***
ある日、こんなことがあった。
採血の後、僕はベッドで本を広げ、先生は手元の帳面になにかを書き付けていた。今日もラボ――この離れにある先生の部屋だ、いつからかそう呼ぶようになった――に籠るのだろう。
だから今のうちに声をかける。
「先生」
「どうした、また難しい話か」
帳面から顔を上げない先生の手元に、開いていた頁をずいっと割り込ませる。
隣の書庫で最近見つけた本だが、言葉がいちいち難しいのだ。
「これ、なに? どういう意味?」
先生がやっと視線を上げる。
差し出された本をひっくり返して"兵法"と書かれた表紙を睨み、ぼそっと「軍人家系がよ」と呟く。
「これはなぁ、ようは"騙し討ち"だ。少数を前のほうで騒がせて注目させておいて、こっそり横や後ろから襲うやり方。そういうのに向く地形とか、人柄とか」
「はんざい?」
「戦術に犯罪かどうかを持ち出すのはやめてくれ」
先生はげんなりした顔で「いいからもう横になってろ」と僕を寝かしつけた。
「御褒美は」と催促したら、仕方ねえなぁとキャンディを一粒口に入れてくれた。
違うある日、こんなことがあった。
「先生、これは?」
ラボの片隅にある座面の破れた椅子に座って、僕はまた本を広げていた。
血を採っている最中だったが、今日はいつもと方法が違う。小さな針の先にチューブがついていて、シリンダーの中にゆっくりと血が溜まっていく。
「巧くいけばお前の負担も減るし俺は研究の時間が増やせる」と意気込む先生に「ならラボで採血したい」と申し出てみたのだ。
意外にも先生はすんなり了承してくれた。今日は試験結果をまとめるだけだからいいか、とのことだった。
今日の本は図解が多い。表紙には"護身術"と書いてある。
「うわっ……これは、俺は門外漢だぞ……ああ、まあ、書いてあることだけを読み解くんならな、……こう、か」
「こう?」
「あっ、やめろ! 針が抜ける!」
先生が腕を突き出してみせたので真似をしたら叱られてしまった。御褒美のキャンディも、くれるというから口を開けて待っていたのに何度もフェイントされた。
結局はくれたのだが、ちょっと理不尽だ。
また違うある日、こんなことがあった。
「ねえ先生、これ一緒に見て」
辞書より分厚い本に先生は一瞬たじろいだが、中身を見ると表情が和らいだ。
理解の簡単な内容だったらしい。僕にはわからない部分が多すぎるので、完全に詰まってしまっていたのだが。
「うーわ、懐かし……あー、東の隣国エメトワの、」
「それがわかんない。東の隣国って、バッカラでしょう?」
「そうか、お前生まれてねぇもんな……昔はな、バッカラの一部はエメトワって国だったんだ」
それから先生は、本に書かれていないことを含めて、この国と近隣諸国との関係を教えてくれた。
この本は古い新聞の記事を書籍としてまとめたもので、今は変わってしまったことのほうが多いらしい。
シリンダーに二本の血が溜まった頃、本は残り三分の二になり、僕は目を開けていられなくなった。口の中のキャンディはいつの間にか溶けきってしまっていた。
「本の虫だな」と笑う先生が布団をかけてくれる。
また次もこんなふうに過ごせたらと、最近いつも考える。
***
そしてこれは、先生と最後に会った日の記憶だ。
いつものように"リジー"の目を盗んで、もうほとんど読み尽くしてしまった書庫の本を漁っていたら、あるものを見つけた。
厳密には本じゃない。紐で綴じられた帳簿だった。
ラボの隅っこで座っていた僕を見て、先生はぎょっとした顔をして。それから手に持ったものを見て、なにか苦痛を与えられたような顔になった。
「ねえ……先生、これ、なんで僕の名前だけ、線引いてないのかな」
膝の上で帳簿を捲ると、ぱら、と乾いた音を立てる。
枠線の中に連ねられた人の名前、それを両断する赤い線。
"09/10/01 ―ジュリア― F アズール 全体"
"25/10/01 ―ショーン― M アズール 肺"
"09/11/01 ―ニコル― M リュータン 廃棄"
"25/11/01 ―ローラ― F アズール 全体"
"09/12/01 ―バーナード― M メイアン 眼球"
"25/12/01 ―メリナ― F アズール 全体"
"25/12/01 ―カレン― F アズール 全体"
"25/12/01 アルビン M ラドフォード 出品取消"
"25/12/01 ―モニカ― F ラドフォード 脚"
"25/12/01 ―ダスティン― M シュベール 廃棄"
"09/01/02 ―ジーン― F アズール 肺"
"25/01/02 ―カリーナ― F アズール 全体"
なぜかと問われても上手く理由を説明できないけれど、これはきっと、とても良くないことの証になるものだと思った。
名前を消された人々はきっと幸福ではなかった。
それなら、ひとりだけ名前を消されていない僕は、これから不幸になっていくのだろうか。今以上に苛まれ、追いやられていくのか。
いつ。
どうやって。
――どうして。
「アルビン」
お腹が痛い。胃が焼けるようだ。
動けそうにない。ただの一歩も。
「アルビン、すぐ元の場所に戻せ、触ったことがわからないように。そして、」
なのに先生は、僕を立ち上がらせようとする。
帳簿を持った僕の手を握り込んで、なにかを必死に訴えている。
「いつかお前がここを出る日がきたら持って行くんだ。これに入れて、必ず」
研究机の中から引っ張り出した、古い小さな鞄を僕に握らせる。
泥だらけになったのを何度も洗って使ったであろう、汚い鞄。
「前借りさせてやる。口開けな、アルビン」
優しい声でそう告げて、口の中に放り込まれたキャンディの味が、ずっと消えてくれない。
それから七十二時間後。
"リジー"が僕のところへやってきて、気がふれたように鞭で打った。
「できそこない」はいつもと同じ。そこに「役立たず」と「お前のせいで」が加わっていた。
最後は泣き喚きながら頭を搔き毟っていて、なんだか可哀想にも思えた。
消毒もせずに包帯を巻かれ、やたらとゴテゴテした丈の合わない上着を着せつけられる。
「ヴァレリス公爵にこれを渡して御目通り願え」と申し付けられ、一通の書簡を懐に捻じ入れられる。
――得られた時間はほんの一瞬だった。"リジー"が馬車を迎える間に、書庫からあの帳簿を持ち出した。
そのままラボに走り、引き出しの中から古い鞄を取り出して、ありったけの包帯を帳簿の上から詰め込んだ。
何をぐずぐずしてる、と怒鳴りつける"リジー"に襟首を掴まれ、馬車まで引きずられて、僕はラドフォード侯爵家を後にした。




