⑫赤
危機の夜を乗り越えたグレンが短い休息に就き、領主館は平時と変わらぬ朝を迎える。
ラウルが着替えを持ってゲストルームに訪れた時、アルビンは既に目を覚ましていた。ヘッドボードを背凭れにして、膝の上で本を広げている。
「お早いですね、アルビン様。夜更かしを?」
「違います! 昨夜途中になってしまった分を早起きして読み終えたんです」
「それは失礼を。内容はいかがでした?」
「辛いけど、好きな結末でした。語り部と歌姫の魂はきっと、白薔薇の咲く丘の上でまた寄り添えたと思うのです」
柔らかな髪が寝癖であちこちに跳ねている。手櫛をする暇も惜しんで読み進めたのだろう。
どんな本でもいいと乞われて急ぎ用立てた、アルビンの年齢よりずっと年上向きに書かれた小説だが、読解にはなんの障りもなかったようだ。
「良い時間を過ごされたのならそれに勝ることはありません。お疲れは?」
「大丈夫です! 早起きと言っても、六時まではぐっすり眠っていましたから」
ならば夜明けの帰還にも気づかなかっただろう。
もし起床していたとて、アルビンが舞踏会での一件を知ることはない。館内が騒がしければゲストルームから出ず指示を待つよう伝えているし、アルビン自身も無断で動き回る気質ではない。
それでも咄嗟に安心してしまったのは、目の前で無邪気に喜ぶこの子供を苦しめまいと思うが故か。それとも単に己の罪悪感から逃れたいがためか。
よぎる雑念を振り払うように、ラウルは天蓋を飾り紐でまとめた。
向き合うべきは目の前にある日常だ。今日は午後から医者を呼んでいる。アルビンが自由に散策できる時間を確保しなければならない。
「昼過ぎに来客の予定がありますので、庭を歩かれるのでしたら午前中がよろしいかと。赤茄子を収穫できそうですよ」
「ほんとですか?!」
「ロドから、アルビン様のために一株取ってあるからお誘いしてくれと。朝食が済んだら早速参りましょう」
はい、と元気に返事をして、アルビンは洗面台に向かっていった。
足取りはしっかりとしている。もう小走りになってもふらつかない。肌の色からはくすみが抜けて、血色の乗りやすい頬は上気すると林檎の色に染まる。
色素欠乏は肌が特に弱いと知った。今日はブリムの大きな帽子を用意しよう。
あの子供にとって、日の下が少しでも楽しい場所であるように。
そうして午前中に行われた赤茄子の収穫は、アルビンにとってなかなか刺激的な体験だったようだ。
見事に育った赤茄子の茎は意外にも手強く、庭師のロドに指導を受けながら剪定鋏を扱う手付きはとても危なっかしかった。
ようやっと収穫した赤茄子に一口齧りついた途端、表皮の下から溢れる青臭い中身に目を白黒させていた。
なんとかひとつ食べきった後、残りは夕食のスープにと提案すると、ほっとした顔で頷いていた。「お料理に使われている赤茄子は大好きなんです」と言い訳のように何度も訴えているのが大変可愛らしくて、よかった。
午後になると、アルビンはここ数日はじめたばかりの日課に着手した。
スケッチブックに木炭で絵を描き、パステルで色をつける。園庭で見たものを書き残しておきたいという希望からだった。
アルビンは、包帯を見られることをあまり嫌がらなくなっていた。相変わらず諸々の処置は自分でしているが。
この時間のラウルの仕事も、シャツの袖が汚れぬように時折捲ってやることだ。
「今日はやはり赤茄子ですか?」
「それと、向日葵を。とても大きくなりました。僕より小さな苗だったのに」
くすくすと笑いながら木炭を滑らせる。
線は揺れるが、立体を意識して描いている。光の当たる部分にだけパステルで色を乗せるので、そこだけふわりと温かく見える。
――賢い子供。見目に反してラドフォードの優れた頭脳を受け継いでいるというなら皮肉なものだ。
どんな方法を駆使しても、素地がなければ知識や技術は根付かない。アルビンの頭脳は堅実に、貪欲に、与えられたものを吸収する。たとえ肉体が死に瀕するほど追い詰められていても、事実としてそうだったのだ。
ずれ落ちた袖を引き上げた時、指先が包帯の目にかかってしまった。幸いほどけてしまうことはなかったが、アルビンは手を止めてラウルを見上げる。
怯えはない。取り乱している様子もない。ただ、アルビンの大きな瞳がラウルに向けられている。
試されているようだと思った。口の中が乾いてしまう前に、なんとか言葉を見つけて舌に乗せる。
「もう、痛むことはありませんか?」
「鞭の痕は、たまに。注射の痕は、元々あまり痛むことはなかったんです。腕の良いお医者様でしたから」
「注射で投薬を?」
「いえ……検査のために、血が必要だったそうで」
血、という言葉に反応して思わず表情が険しくなる。
アルビンは目をそらすことなく言葉を継ぐ。過去の情報を的確に選別する。まるで、ラウルが求めている情報を悟っているかのように。
「僕は体が小さいから、採血の後はすぐに倒れていました。量も、本当は大きなガラスの注射器に三本とおっしゃられたのに二本で終わってしまうことがほとんどで。それでもお医者様はいつも、よく頑張ったなって、キャンディを口に入れてくださいました」
「それは、どのくらいの頻度で?」
「月に二回です。三回の時もありました」
小さな子供に対して二百ミリの採血、それを月に二度、三度。
どう考えても異常だろう。アルビンの発育不良と虚弱は生来のものではなく、そうなるように意図されたのかもしれない。
その医者の行いとて醜悪なものだ。あどけない子供から命を脅かしかねない量の血液を搾取しておいて、口では優しい言葉を吐き、甘味というまやかしで偽りの信頼を得る。
「とっても綺麗なキャンディだったんですよ。キャラメルとミルクの味で、リボンを縒り合わせたような可愛い見た目で、甘いのに少ししょっぱくて」
思い出を語る表情に憂いはない。
過去を思い返す時、大抵アルビンの表情には影が落ちる。それがないということは、アルビンにとって紛れもなく良い思い出なのだろう。
そんなものを後生大事に抱えてしまうほど、この子供に与えられたものは少なかったのだ。
「――おかしいとは思わなかったのですか。そんなに血を取られて」
「それは僕が判断していいことではありません。それで体がダメになるなら、ダメになってしまえということだったのでしょう」
「悪用されているかもしれない、とは考えなかったのですか」
思わず口調を強めていた。
知らなかった、わからなかった、とはっきり口に出させたかったのかもしれない。
同情が過ぎているのは自覚している。それでも――もし明け方のグレンの話の通り、アルビンがおぞましい劇薬の糧とされていたのなら。自発的にしろ、強要されたにしろ、あまりにも救いがないではないか。
「それなら……悪いものの元になっている僕ごとダメになってしまえばよかったのです」
返答の声は、やけに無感動だった。クリーム色の睫毛の下にある葡萄色の眼はぞっとするほど静かだった。
これとよく似た目を数時間前に見たばかりだ。己の命を忌んでいる。それどころか、この子供はその先すら求めている。
その感情を否定することなど、ラウルにはできなかった。
***
宵の口。領主館の窓の灯りが少しずつ消えていく時間。通いの使用人は帰途につき、住み込みの使用人も持ち場を離れてエプロンを解きだす。
最後まで残るのは門番と、全室巡回を行うラウルだ。
ランプを翳して異常の有無を確認し、カーテンを閉じて、扉を施錠する。三階を回り終え、二階へと下り、やがて辿り着いたのは東端の部屋。
アルビンの寝起きするゲストルームの前で、ラウルは足を止めていた。
気が重い。昼間の不穏当な応酬が後を引いている。夕食はメイドに運ばせたので、あれからアルビンとは接触していない。
いっそ後回しにしてしまおうか、と逃げの思考が顔を出す。
「――ダメに決まってるだろうが」
小声で己を叱咤して、ラウルはドアノブに手を掛けた。
部屋の中央まで歩き進み、カーテンが閉じていることを確認し――天蓋に隙間を見つけて、動きを止めた。
「ラウルさん」
囁くような声音だった。
闇の中で、あの子供は身を起こしているのだろう。いつからそうしていたのか。眠ることができなかったのか。その理由は肉体の苦痛か、それとも不安や絶望感か。
騒ぎ立ててはいけない。ただ傍に行って、話をしなければならない。そう思う。
「起こしてしまいましたか?」
「いいえ……ここ、座ってください」
「いえ、それは、」
「近くでお話したいのです」
寝台の端を手で示される。
使用人にあるまじきことだが、ここで意固地になったとて何も好転はすまい。
ランプをサイドボードに置いて、已む無く腰を下ろすと、想像以上に距離が近い。
橙の薄明かりに浮かび上がるアルビンの姿は、淡い全身の色と真白の寝間着が相俟って、一種の異形めいた気概すらあった。
「ラドフォード侯爵家は、よくないことをしているのですか?」
小さな唇が問いかける。
正直に答えるべきではないのだろう。ヴァレリスがラドフォード家を調べていることそのものが内密で、迂闊に仔細を知られれば必ずアルビンを傷つける。
されど、ここで話題をそらす小器用さをラウルは持ち合わせていなかった。
「――杞憂か誤解であってほしいと思っています」
「じゃあ、きっと、それは叶いません」
辛うじて捻り出した一言を呆気なく不意にして、アルビンは枕の下からなにかを取り出す。
ラウルには見覚えがあった。
古びて黴臭い、小さな鞄。領主館に現れた日、アルビンが唯一持っていた私物。
掛け金を外して取り出されたものは、紐で綴じられた帳簿のようだった。
膝の上でぱらぱらと捲られていく頁。規則的に並ぶ数字と名前。異様なのは、すべての名前が赤い線で消し込まれていることだ。
「それは、」
「僕にもわかりません。ただ、ここには僕の名前が載っています」
頁を捲る手が止まる。
"25/12/01 アルビン M ラドフォード 出品取消"
指差したその一行がやけに目立つのは、そこにだけ赤い消し込み線が引かれていないからだ。
「これを読み解ける人を知っています」
無言のまま、先を促すために視線を向ける。
ランプの明かりを大きな瞳に宿して、幼い唇が紡いだ名に、ラウルは息を詰めた。
「ポール・ガラン。僕を看てくださっていた、往診のお医者様です」




