⑪疑惑
ここから第三部です。
宵闇が晴れ、東の空が浅葱色に染まる頃。公爵家の馬車はソルヴェール領主館の園庭内に乗り付けた。
馬の嘶きを聞いて起き出したラウルは、最低限の身繕いでエントランスに走り出る。
館内に灯を残しておいてよかった。住み込みのメイドや下男はまだ夢の中だが、廊下と階下は仄明かりに照らされている。音を立てぬように一枚ずつ、正面扉を開いて固定した。
真夏といえど日の出前。立ち込める空気は青く晴明だ。御者がしずしずと設置した踏台にゆっくりと足を乗せて馬車から降り立ったグレンの後に、重心の不安定なレネが続く。
「――お帰りなさいませ」
「ただいま、ラウル……そんな顔するな。ご覧の通り五体満足だよ」
「あー、ちょうどいいや、お前ちょっと肩貸して」
否とも応とも返す前に、レネはラウルの肩に腕を回して体重を預けた。まるで骨のない海月のようだ。体の芯に力が入っていない。
穏当でない事態に、思わず主の顔を身遣る。
「荒事でしたか?」
「いや、そういうんでもないけど……ああ、ラウル、そのまま部屋まで連れてってやってくれ。俺は書斎に行ってる」
「承知しました」
レネを私室に送り届け、とんぼ返りで書斎へ向かう。
去り際に「明日一番で報告書に取りかかりますって伝えて」と告げたレネのことも心配ではあったが、優先順位を履き違えてはならない。
ラウルの立場は執事長。常にヴァレリス公爵家が円滑に運用されるよう目を配り、安地として揺るぎなく在るよう管理するのが役目だ。
諸々を歯痒く感じているうちはまだ未熟者だと己を戒めても、なにかと気の休まらない乳兄弟や無駄に小器用な同輩を案ずる心ばかりはどうしようもない。
「失礼いたします、グレン様」
書斎に入室すると、撫で付けていた髪を乱してガウンに着替えたグレンが安楽椅子に身を沈めていた。いくらか虚脱した様子で、朝焼けの色を濃くする窓に漫然と視線を投げている。
ラウルの姿を目の中に認めると、くたびれた顔で笑う。
「朝っぱらから騒がしくして悪かった。もっと遅いと思ってたろ?」
「ご無事でお早く戻られる以上の望みはありません」
「一応、午後には医者を呼ぼうと思ってるから。俺はともかく、レネを看てもらわないと」
「なにがあったかお聞きしてもよろしいですか」
「あー……長くて楽しくない話になるけど、今からいいか?」
グレンの話は、簡潔な結論から述べられた。
地下水道の遺体――ポール・ガランの作った危うい強壮剤を撒き餌に、ロンサール夫人のサロンを餌場にして、ラドフォード家が不穏な動きを見せていること。
そして、強壮剤の製造にアルビンが関与している可能性があること。
ラウルはすぐさま内容を飲み込むことができなかった。並べられたパーツが巧く繋がらない。
「無礼を承知で申し上げますが、些か思考が飛躍してはおりませんか。グレン様もその強壮剤を召し上がったのですよね? 影響が出ているのでは」
「それは否定しない。会場では"効果は三時間"と聞かされた、たしかに意識の明瞭さと気分の高揚はその程度で落ち着いた。だが、これはなかなかショッキングじゃないか?」
グレンはおもむろに立ち上がって、ローテーブルに近づいた。
置かれていた果物籠から林檎をひとつ取り上げる。掌に乗せ、そのまま紙屑を丸めるようにクシャッと握り潰す。
指の隙間から流れ落ちた果汁が天板にぽたぽたと雫を描く。破片は微細だ。指の力で瓦解させたのではなく、掌で圧壊したことが一目でわかる。
「何年か前に力試しをしたの、覚えてるか? あの時、柔らかい順に並んでいたのは赤茄子、夏蜜柑、林檎、胡桃だったな。俺があれから特に鍛えてないのはよく知ってるだろ」
当時のグレンの握力は、やっと赤茄子を潰せる程度だった。ラウルが楽々と握り潰せた夏蜜柑にも歯が立たなかった。
グレン自身はフィールドワークを好むアウトドア派だが、それは薬効のある自然物を求めるが故だ。地面に向かって蹲ったりその場にじっと留まっていることが主目的になる。娯楽としての運動にも、己の肉体を発達させることにもさして興味がない。熱心になるのは新たな成分の発見に対してのみだ。
兎角、物理面でのグレンは強くはないはずだった。ここ一年の多忙で、なんなら筋力は衰えている。
ならば今目の前で見ている、ラウルを凌ぎかねないこの力は、本当に謎の強壮剤がもたらしたものだというのか。
己の手指を開閉しながら語るグレンからは、強い感情は読み取れない。
「おそらく一番"効いてた"間は掌が疼くようだった。胡桃もいけたかもしれん。筋肉を過活性させるんだからそりゃ三日三晩でも踊っていられるだろうさ。増強剤の類はたしかに存在してるが、長期に渡って摂取していくものだ。こんな短時間で急激に効くものは、少なくとも俺には覚えがない」
――なんということを。
口から飛び出そうとする言葉をなんとか飲み込んだ。
薬学を修めたグレンでさえ覚えがない、何があっても飄々としているレネが無力化するほどの、後ろ暗い薬。安全な要素がひとつもない。劇薬ではないか。
昔から捨て身のような真似をしがちだが、グレンはヴァレリスの後継者だ。公爵家を背負う立場なのだ。炭鉱のカナリアの真似事をしていい身の上ではない。
そういった役を負うためにラウルが、レネが傍にいるというのに。
「先に言っておくけどレネを責めるのはお門違いだからな。どうにもならない状況があって、俺自身が飲む判断を下したんだ」
「しかし!」
「狸親父としても、この程度やり過ごせない軟弱は公爵家に要らんという判断だろう。だからまぁ、そうそう死ぬことはないだろうし、死んだってどうということもない」
「グレン様っ!」
果汁で汚れた手を手巾で清め、グレンは安楽椅子に戻っていく。
ラウルは時折痛ましくてたまらなくなる。高を括ってしまっているのだ、グレン・ヴァレリスという人間は。
危機に陥る前に他人を動かすことができる立場にいながら、自ら進んで危機の中に飛び込んでしまう。いくら先代が過酷な環境を与えても、根を上げる前に自力で生還してしまう――諦めて人を使え、という先代の思惑は伝わらないまま、グレンの自尊心だけが目減りしていく。
物言えずにいるラウルを尻目に、グレンは淡々と推論を組み立てていく。
「話を戻させてもらう。現地で飲んだ秘薬からは明らかに鉄の味がした。見てくれも真っ赤な粉薬だった。ポール・ガランは血清部門の責任者だ、血の解析はお手のものだろう。人の血液でなにかしていたとは思いたくないが……現状、最も疑わしいと判断せざるを得なくてな」
「では……その、今夜の分の秘薬とは一体なんだったのですか? アルビン様はずっとこちらで保護されていました。領主館からは出ていませんし、外部の人間と接触させてもいないのですよ」
「ポールと調合のノウハウを共有する者がいた可能性はあるだろう。代用できる血液を確保したのかもしれない」
言葉を重ねるほどに、ラウルの心情には否定の色が強くなった。
――あの傷ついた子供を疑わねばならないのか。もう十分すぎるほど苦しんでいるのに。
数ヵ月前には自発的にしていたことが、今のラウルには酷く耐え難いことに思えた。
ラウルの逡巡を見越して、グレンは手元にあったペーパーナイフを手に取った。柄をラウルに向けて差し出す。
「例えば、だ。今すぐこの場で喉を突いて死ぬか、その後ろ髪を切って俺によこすか選べと言われたら、髪のほうを選ぶだろ。そういう状況にアルビンは置かれていたかもしれない、と言ってるんだよ。与していることと、能動的に事を企てることは同一じゃない」
動揺を隠せぬラウルと向き合うグレンの視線は暗鬱だ。
しかし、丁寧に紡がれる言葉はラウルを納得させもした。アルビンの関与を疑うとは言っているが、強制された可能性を見失うなとも言っている。
「たしかにアルビン様の腕には傷がございます。しかし、アルビン様はラドフォードの昨今の内情についてほとんどご存知ないのです。謀り事だけを仔細に知らされているのは、不自然ではないかと、私は思うのです」
包帯の下にあった傷に関しては既に報告してある。鞭の痕の他に、数えきれないほどの注射痕があったことも。
離れから出るなと厳命されていたことがアルビン本人の口から語られ、疑惑は確定事項となった。
アルビン・ラドフォードは生家で虐待を受けていた。離れに閉じ込められ、鞭に苛まれる日々を過ごしていた。
庭で水を被った一件以来、アルビンと過ごす機会が増えたラウルは、普段のなにげない会話の中から生い立ちに関する情報をいくつか拾っていた。
行動の自由はなかったが、文字資料はある程度好きに手に取れたこと。図鑑や物語の他に、国史や家系譜、古い新聞の縮刷などにも目を通していたこと。
――それから、本人ははっきりと言いたがらないが、"悪い人間"と"良い人間"が近くにいたらしいこと。
"悪い人間"は恐怖と理不尽の象徴だ。鞭を振るい暴力でアルビンを押さえつけていた張本人だろう。
一方の"良い人間"は、アルビンに本の読み解き方を教えていたようだ。家系譜や新聞の読解には下知識が必要だが、子供でもわかるように噛み砕いてくれたという。
だが、いずれにしてもそこ止まりなのだ。書籍になっているような情報しか与えられていない。アルビンが侯爵家について認識していたことは、その昔ラドフォード家の興りとなった人物をモチーフとした、脚色まみれの"物語"だけだった。
ラウルは忠誠心の強い人間だ。主家の意思、グレンの意思が第一の指針となる。仮にそれが己の意思に反することでも、滅多なことで覆るものではない。
それが成り立つのは、主と仰ぐグレンが、情を失わず理を重んじる人格を持つからだ。
「心配するな。今すぐどうこうしようなんて思ってない。ただ、今後は今以上によく見てやってほしい。知り得たことがあれば欠かさず報告してくれ。それがアルビンを守ることにもなる」
最後の言葉は、ラウルを安心させるためのものだろう。
窓の外で日が昇る。そこにあるものが偽りに変わってしまわないことを願って、ラウルは深く頷いた。




