幕間 前略、泥の底から
――バチが当たったんだろう。きっと。人生ってのは、なかなかどうして巧くできている。
世界は、自分のためにはできていない。物心ついて真っ先に悟ったことだった。
求めて与えられるものなんてなかった。自由を欲すれば殴られ、満腹を欲すれば泣かれる。知恵を欲すれば嗤われ、正しさを欲すれば謗られる。
欲して詰られないのは金だけだった。与えられやしなかったが。
逆説的に、金があればなんでもできると知った。庭先の泥しか握れない手で、金がほしいと思った。
金がないうちは、タダでできることで暇を潰した。
家の周りの草を毟って、鼠に無理矢理食わせた。食わせると苦しむ草と、苦しまなくなる草があった。
そのうち、弟ができた。鼠よりは大きかった。苦しまない草と、たまに見つける甘い木の実を口に入れてやった。飲み込みやすいように潰してやるとよく食べた。
弟は猫より大きくなり、やがて犬くらいになって、笑うようになった。
小さな弟の擦りむいた膝に、蕊の長い黄色の花をつける草を潰して貼った。熱を出せば、紫の小さな花の根を擂ってお茶に混ぜた。腹が痛いと言えば、五弁の白い花を茎ごと煮て汁を飲ませた。そこらに生えているものの色や形を覚えるのは得意で、弟は「兄ちゃんに言ったら痛いの治るよ」と言っていた。
それでも、大の大人に酒瓶で殴られてへこんでしまった頭蓋骨は、治してやれなかった。
弟は二度と笑わなくなった。奇妙な形になった弟を、泥の中に埋めた。
弟のいなくなった場所を飛び出して、働ける先を探した。ゴミを漁って、靴を磨いて、泥にまみれて土を掘った。
自分で稼いだ金で鞄が買えた時、中央都市に行こうと思った。
巨大な市民図書館には無尽蔵の知恵がある。学びたかった。知りたいことが山ほどあった。
中央都市は乞食まがいの俺を拒まなかった。かつて鼠に食わせた草の名前を、弟の膝に貼った薬草の名前を、殴りも詰りもせずに教えてくれた。
都市のはずれにある薬草園で働くようになった。草にまみれた、忙しくて豊かな職場だった。
知りたいことは日々増えた。やりたいことも、いくらでもあった。
それでも――暮らしの中で、思い知っていった。
自由がほしいなら、地位が要る。地位には能力が、能力には学習が、学習には時間が、時間には金が要る。
そして、金のためには地位が必要で、自由はいつまでも手の届かないものだということ。
少ない給金を削って、白衣を買った。白衣を着ていれば医者のふりができると思った。
実際、拍子抜けするほど簡単なことだった。適当に首の周りを触って口の中でも見てやれば、大半の人間は"お医者様"を信じる。手に負えなければ"大きな病院にかかりなさい"で終わりの楽な仕事だ。
喉の赤いのや舌の白いのには、してやれることも少しだけあった。熱を下げる薬草、痛みを鎮める薬草、咳を止める薬草。
気まぐれに「先生に言ったら痛いの治るよ」と話す子供の顔を見ていると、少しだけ視界が明るくなる気がした。
俺は、真っ当になにかを成せたことがない。ただの卑劣で薄汚い詐欺師だ。
最期にはバチが当たった。反吐が出るほど巧くできた人生だ。
だけど――だから。最期くらいは、正直にいこう。
子供なんてものは、甘い飴でも口に入れて、ご機嫌に笑っているのがお似合いだ。
***
黴臭い地下水道の片隅にいる。
目の前に立つ貌なき影に向かって、口を開く。
「あいつらにはっきり通告しろ、一日でも早く。"アルビン・ラドフォードをヴァレリス公爵家に引き渡すように"ってな」
薄闇に銀色の光が疾って、それでおしまいだった。
水路の底の泥の中が、俺の最後の場所だった。




