⑩沈むもの
宴の喧騒を抜け、辻馬車をつかまえる。
旅商向けの宿が集まる区画で一度降りた後、中央都市のはずれで待機させていた公爵家の馬車に乗り込んだ。
戸が閉まって外界から隔絶される。窓には分厚いカーテン。人目を憚る必要はもうない。
首からタイを毟るように外して、グレンはこめかみをぎゅっと押さえた。
秘薬の覚醒効果は順当に消えつつある。眼精疲労を感じられるようになってこめかみが鈍く痛むのがその証拠だ。身に迫る疲れがありがたい。これはなかなかの希少体験かもしれない。
塞き止められていた分だけ膨れ上がったように思える強い疲労は、レネにも襲いかかっているらしい。座面を開く手つきが危うい。のろのろと革張りの箱を取り出し、慎重にブローチをしまい込む。
身軽になると、すぐにシャツのボタンを外して首筋を晒した。「あつい」と吐息混じりの呟きが聞こえる。
普段から砕けた態度のレネだが、こうやって襟を乱した姿を見せるのは、実のところ相当に珍しい。
「大丈夫かレネ。結構薬残ってそうだけど」
「ん……風に当たっておきます。もう中央を出ましたから」
カーテンを引けば、そこには薄闇に沈んだ田園風景が広がっている。月明かりが遠い家々の輪郭を浮かび上がらせ、過ぎ去っていく川の水面が月光を照り返す。
細く開いた窓からひんやりとした夏夜の風が吹き込む。馬車の中に、ようやく安堵の空気が広がった。
「ふ、ふふ……疲れましたね、グレン様」
「やっぱり俺にああいった場の楽しさはわからん」
「僕はグレン様がグレン様でいらっしゃることに無二の喜びを感じておりますよ」
「嫌味か?」
「本音です」
レネは座面の下にブローチの箱をしまい、代わりに真鍮の水筒を取り出した。
勧められるまま口をつけると中身は果実水だった。
半分飲んで残りを差し出す。レネは首を横に振ったが、「早く薬抜かないと」と言い添えると素直に口をつけた。
ようやく難しい話をする気力が湧いたのは、馬車が町をひとつ抜けた頃だった。
「――赤かったな、あの男の髪。マスクをした上に黒染めまでして、厳重なことだ」
「そうですね。あの場で赤毛を晒すと身元がわかってしまうでしょうから」
レネが黒づくめの男の生え際を見ておけと言った理由。流れ落ちた黒い汗。
色粉が溶け落ちた髪の根本は、燃えるような赤毛だった。
これは謎かけだ。レネの口を通したあの狸親父からの。
腹立たしいが今はそれ以上に、正解を知る必要に迫られている。
「ロンサールの銀山開拓時、軍からの公式な援助を口添えしたのはラドフォード侯爵、って話だよな? その縁でラドフォード家はロンサール夫人の後援になっている。だが表立って知られるとまずいことがある、と」
「ご名答です。あれはラドフォード家の三男、アレックス様でしょう。最初に接触したレディの言った"秘薬をゲームの景品に"と提案した人間も、恐らく彼ではないかと」
ラドフォード侯爵家とロンサール伯爵家の密接な繋がり、それだけなら騒ぐようなことではない。
銀山開拓時の周辺事情は新聞にさえ載っていた。採掘された上質な銀は中央府に認可され今後は市井にも流れるだろう、山を拓くための爆薬や周辺警備の人員が軍から援助されるのは理に適ったことである、という提灯記事だった。
ラドフォードの口利きの件とて、厳に秘されていたものではない。成人した女性が家族構成員にいさえすればお茶会経由で耳に入った程度の話だ。
「長く通えばわかる……ラドフォード家がサロンで発言力を持ち、秘薬にも深く関わっているのは公然の秘密となっている。秘薬そのものが後ろ暗いものだから、か?」
兎角、金のある場所には人が集まる。
ロンサールは富を得て、ラドフォードは恩を売った。美しい友情とは程遠いが、貴族間としてはむしろ至極真っ当な付き合いと言えるだろう。
だが、それを隠すからには探られて痛い腹があるのだ。
ロンサール夫人のサロン内部という、それなりに大規模だが閉じられた貴族のコミュニティ。彼らが示し合わせて口を噤んでいられるほどの秘密が秘薬にあるのか。それとも、更に大きなものが深みに沈んでいるのか。今の時点では知りようがない。
思考を伴う沈黙が長く続いた後で、レネが再び口を開いた。
「さて、ここらで別の枝も伸ばしてみましょうか。グレン様、地下水道の件に関して共有してくださった情報を振り返ってみません?」
「あー……ちょっと待ってくれ、今思い出す」
地下水道の件が最後に進展してから既に三ヵ月以上が経つ。あの時、警邏隊に呼び出されたグレンは調査班からの情報提供を受け、関係者の聴取にも立ち合った。
地下水道で殺された男。名はポール・ガラン。ヴァレリス中央製薬工房の血清部門責任者だった人間だ。
警邏が聞き取りをしたのは、しばしば酒を酌み交わしていたという同僚だった。
「そういえば、なぜその方だけに聴取を?」
「血清部門の主査で、必然的に接する時間が長かった人物だ。ポールは独身だったし、連れ立って飲み食いするほど打ち解けてた唯一の相手だったんだと。仕事の合間に論文の執筆だけでなく、なにやら慈善活動もしてたとかで、単純に忙しかったんだろうけどな」
グレンは苦く笑う。
体を生かすための仕事、心を生かすための論文、それで手一杯になって社交に身を入れる時間が惜しくなってしまう。謙虚といえば聞こえはいいが、ようは興味の幅が狭くて無気力なのだ。
もしも本当にグレンと似た心持ちだったとしたら、慈善活動で社会性を維持しようとしていたポールのほうが立派だったかもしれない。
「貴族相手の商売は実入りが良い、七割持って行かれても生きるに困らない、と話してたんだと」
「ポール・ガランは貴族相手になにかを売っていたんですね。"七割持って行かれ"るのは仲介料でしょう、販路の確保は最難関ですから。では、なにを売っていたのか、です」
多忙な研究者が片手間にできる商売。
専門性や興味関心の線で絞るなら、答えは単純だ。
「薬、だよな。一から作れて職場の設備も拝借できる。工房からはとても発表できないような……」
「そうですね。例えば"三日三晩寝ずに踊り続けられる"なんて効能はどうですか」
覆い被せるようにレネが言う。
月明かりが見慣れた横顔を照らし出す。青菫色の瞳が、射るような強さでグレンを見ている。
「少量なら、短期間なら、"ちょっと過激な強壮剤"で終わる薬。楽しく芸術や娯楽に耽る閉じた場所。罪の意識よりも、人とは違う愉しみを知っている、という優越感が勝るよう設計されているんです。共同体意識が強くなればひとりで抜け出すことも難しくなります。一度評判が広まってしまえば安全性など誰も気に留めません」
配られたものと景品の秘薬が同じ成分であると決まったわけではないが、たった一口で三時間の覚醒効果がある薬を扱っているのは確定した。
数年来広まっているわりに副作用の話が聞こえてこないのは単に強運だったのか、それともまだ導火線に火がついていないだけか。
「購入できた頃は、オペラの一等客席を一週間押さえておける額だった、という話だったな」
「マージン七割でも満足できるならそのくらいの元は必要です。ゲームの景品にするのは一見良心的に思えますが、景品獲得のためにすべてのゲストが毎回ベットする総額を考えれば胴元は確実に得をする、阿漕な手口です。そしてグレン様、覚えていますか?」
意味深に言葉を切ったレネは、探るような視線をそのままに、グレンに語る。
「ネクタリン・ルージュの供給は、三ヵ月前に激減しています。原因を知る人間には辿り着けませんでしたが、薬が供給されなくなるとしたら調合者か材料か、あるいはその両方が失われた可能性があります。その頃、我々の周囲でなにが起こっていたか」
思い起こす、まだ肌寒い春のはじまり。工房直下の地下水道で発見された遺体。事務手続きの書類の山。アポイントのない来客。侍従たちの警戒と、それが少しずつほどけていく空気。
偶発的に重なった事象が紐解かれていく。
貴族相手の裏商売に手を染めていた研究員ポール・ガランの死。
そして。
「――アルビン……、ラドフォード」
ラドフォード家からやってきた謎の子供。みすぼらしく、虚弱で、惨い怪我を隠していた、血の気のない子供。
「御明察です」と告げるレネの顔は、笑ってはいなかった。




