⑨ネクタリン・ルージュ
駆け込んだパウダールームで、レネはグレンににじり寄った。自分の詰めの甘さのせいで、あんな正体の知れぬものを主の口に入れさせてしまった。悔いても悔いきれない。
タイを緩めて吐かせようとする手から逃れつつ、当のグレンは特に焦る様子もない。
「なんで逃げるんです、早く、吐かないと……っ、遊んでる場合ですかグレン様!」
「遊んでないよ。このまま様子を見たいんだ」
鬼気迫る声で叱りつけられてもどこ吹く風だ。
拳ひとつ分の身長差を最大限に活用してくるくるとレネを躱しつつ、うーん、と唸って顎に手を遣る。
「――ベースはシャンパン。潰したクランベリーと砂糖を少し。瓜拉那の煮汁、乾燥させたエフェドラ。それと……鉄由来のなにか。大量摂取で中毒になることはあるだろうが、あの量ならまあ、ちょっと過激な強壮剤ってとこだろ。血圧の上昇、気分の高揚、健康体なら精々そんなもんだ。薬効は身をもって知っておきたいからさ、多少の毒は平気なんだ」
しれっと言い放ったグレンをしばし見つめたマスク越しの眼が、やがて痛みを堪えるように伏せられる。
安堵したのだろう。「それでも完全に無害なやつじゃないです」と呟く声はへろへろと弱々しい。
「効いちゃったか?」
「まさか。僕も少しなら慣らしてますから、毒」
「えっ、そうなの?」
「頂き物はいつも毒見してからお出ししてたでしょう?」
「……そういえばそうだったな」
グレンのほうでは、焦った様子で一気に秘薬を飲み下したレネの身こそ案じていたのだが。
ふー、と息を吐いてもまだふらついて見える。気が抜けてしまったからか。毒に慣れているといっても秘薬のベースそのものがアルコールなのだ、緊張状態で呷れば酩酊もする。
「大丈夫?」
「半分はグレン様のせいです……もうやめてくださいね、ああいうの」
「うーん、謝ってはおく。ごめん」
「……正直ちょっと見直しましたけど」
「こんなんでも一応専門家の端くれだからな」
中央都市とソルヴェール、二ヵ所に拠点を置くヴァレリス製薬工房。これらは先代公爵より継承したものではなく、グレンが自ら立ち上げ成長させたものだ。
今でこそ立場は代表、肩書きも名誉研究員だが、元来グレンは製薬研究こそが本分という人間だった。
レネとてグレンが熱心なのはよくわかっていたが、自分の体で薬効を試していたというのは完全に初耳だ。ここが領主館ならしっかり叱っただろう。
だが今は場所も場所、しかもファインプレーに助けられている。苦笑いで収めるしかなかった。
「それではパーティに戻りましょうか、"レナート様"?」
「……仰せのままに、我が羅針殿」
心なしか楽しげなグレンに腕を引かれ、レネはずれてしまったマスクの位置を正した。
ホールに戻ると、高まったボルテージであちこちの席が沸いていた。男も女も奔放に声を上げ、赤と黒の運命に翻弄されることを愉しんでいる。
給仕係が運ぶグラスの色形も様々だ。引きも切らずに手が伸びるが、特に透明なショットグラスが飛ぶように捌けていく。
秘薬で気分が高揚しているところにギャンブル、更に強い酒とダンス。己を御せない者は、丁寧に敷かれた地獄行きの赤絨毯を突き進むことだろう。
給仕係に水を用意させ、周囲を見渡す。
壁沿いのカウチに豊満な肉体を横たえている婦人の姿を見つけると、"レナート"は二つのグラスを手にして、肘掛けを挟んだ位置に腰を下ろした。
微笑んで「チェイサーです、レディ」と囁くと、婦人は億劫そうに身を起こしてグラスを受け取り、取り出した扇でバタバタと首元を扇いだ。
「気が利くのねぇ。少し当てられてしまったわ」
「大変な熱気ですからね」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも! だって三月ぶりよ、"ネクタリン・ルージュ"が景品になるのは」
「レディは、景品を獲得されたことが?」
「だいぶ前にポーカーで大勝ちしてね。でもその一度きりよ、こんなことになるのだったら無理をしてでも買っておくんだった」
「以前は購入できたのですか?」
「……ご存知なくて?」
婦人の態度が疑わしげなものに変わる。仮面があるとはいえ、相手を選んで関わらなければ簡単に破滅の入り口に足を踏み入れてしまうのが社交の場だ。
距離を取られる前に、"レナート"は一度羞じらうように俯いて、それから小さな声で秘密を打ち明けた。
「実は、今夜やっと招待状をいただいたばかりなのです。噂の秘薬をどうしても試してみたくて」
「あら、そう……ふふ、悪い子なのね。よく見たら素敵なブローチ。サファイアかしら」
「ゾイサイトの最上品です。身の丈は誤魔化せませんから」
「舶来物じゃないの。細工の腕も良いし、胸を張らなければもったいないわよ」
見目良い青年のいじらしい姿は婦人のお気に召したらしい。
おしゃべりな口が輪をかけて軽くなる。
「わたくしマチルダ様とは五年来だけれど、秘薬が買えたのはとても短い間だけだったの。毎回増えるゲストの分が足りなくなってしまうからって。そうしたらどなたかが、ゲームの景品にしたらいいっておっしゃったのよ。それなら公平だし、なによりゲストが楽しめるからって」
"レナート"は心底感心した声を上げ、婦人に話の続きをねだる。
「それは妙案です! どなたの発案……いえ、ここで聞くのは不作法でした、どうかお許しを」
「大丈夫。しばらく通えばあなたにもわかるわ。それでね……巧く回っていたのだけど、三月前マチルダ様が、しばらくはゲストに振る舞う分だけになってしまうとおっしゃって。とても困ったご様子だったからお労しくてね。でも今宵は晴れ晴れとしたお顔をなさってるでしょう」
婦人の視線の先で、ロンサール夫人の座る卓から歓声が上がった。ホストである彼女は、勝者の胸に薔薇を飾る。
年配の紳士が誇らしげなボウアンドスクレープを披露し、ディーラーはチップを回収し始める。
「そろそろニューゲームのようね。わたくしももう一勝負してこようかしら。さあ、あなたも頑張って、女神の御加護を!」
肘掛けに置いていた"レナート"の手を一度握ってから、婦人は意気揚々と卓に向かっていった。
――初手にして上々な収穫だ。
音もなく立ち上がり、真横の壁沿いで息を潜めていた"ジル"に近づく。
「場所を移ろう。もう少し調べたい」
「……壁の花ではどうにもなりませんか」
「不調が?」
「いや、あの……人が多い、ので」
マスク越しにも深刻さが伝わるほどの圧が、返答した瞬間に霧散した。露骨に呆れなかったのはさすがだったが、代わりになにか良くないオーラが口元に宿る。
耳元にそっと口を寄せた"レナート"は、レネの口調に戻ってこう囁いた。
「このまま突っ立ってたらレディからお声がかかりますよ。自分で言いたくないですけど、僕ら狙い目に見えるんですから」
「君だけだろそれは」
「試してみますか? お一人で。僕は情報集めないとですし、絡まれても自力で脱出できるんで困らないですけど。僕の影から後ろ見てみるといいですよ」
言われるがままホールを見れば、こちらに顔を向けてこそこそやっているドレス姿がワンペア、ツーペア。
秘薬の効果で心拍と体温は上昇している。なのに顔から血の気が引いていく。
慌てて壁から背を離して歩き出した。
口の中で笑いを噛み殺した"レナート"は、「待ってよぅ」と言いながら"ジル"の後を追った。
***
そうして、人の間を縫いつつ集めた話はこうだ。
ロンサール夫人主催の舞踏会に招待される者は九分九厘が秘薬を目当てにやってくる。その存在は口外禁止とされ、破った者は社交界から消えるという。
名を"ネクタリン・ルージュ"。シャンパンに溶かして喫すればたちまち全身の血が沸き立ち、三日三晩寝ずに踊り続けられるという赤き秘薬。
はじまりは五年ほど前、まだほんの小規模だったロンサール夫人の絵画サロンで、画家の士気高揚に用いられていた。
銀山の発見以来、夫人の信奉者数が一気に膨れ上がったことでサロンは拡大し、秘薬を求める声も増加した。
今はこうして賭博の景品として扱われ、直接の売買はされていない。ロンサール家と縁戚関係にあっても交渉すらできないという。
そして、異変は三ヵ月前。
それまでは饗宴のたびに五包程度あった秘薬の供給が途絶えた。提供されるのはグラスに注ぎ分けられたものが各自一杯分だけ。賭博は行われず、舞踏と楽奏のみの凡庸な宴が続いていたという。
熱気冷めやらぬホールの片隅で、"レナート"と"ジル"は声を潜める。
そろそろ潮時だ。できれば秘薬本体を持ち帰りたいところだったが、激戦を勝ち抜く勝負強さとは生憎と縁がない。
秘薬入りのグラスはガラスの箱に入れられ、ロンサール夫人と共に常に移動している。
「口惜しいですね、目の前にあるというのに」
「さすがにあの厳重さでは手出しできないねぇ……ところで」
"レナート"の視線が一点に定まる。
開宴の口上を述べていた黒づくめの若い男。今はガラスの箱の隣で秘薬を守っている。
「あの男の髪を見ておくといいよ、"ジル"。全体じゃなく、生え際をね」
じっと目を凝らす。
やがてこめかみから流れた一筋の汗は、男の衣装のように真っ黒だった。




