三 研究と論文と 02
赤と緑の塊は、まるで引き回した腸のように見える。
「これは梅干をたたいたものと、千切りの紫蘇だよ」
三尾ともに詰め物を入れ込むと、ヒレと尾に多めの塩をくっつけて、炭火に乗せて焼き始めた。
「焼くのは時間がかかるからね。じっくりと火を通すと、ふっくら仕上がるんだ」
炭火焼だなんて、焼き鳥屋さんみたい。
実央はそんなことを思う。
オガミの調理を見ていると、あっという間に時間が過ぎていく。この時間、実央はいつも彼の料理を見ていた。骨ばった大きな手が、繊細な料理を作り上げていく様子は、まるで魔法のように思える。
こうして宿泊客がいる日は手の込んだ、オガミと実央の二人だけの日は簡単な料理が供されるが、そのいずれもが食材のほとんどでこの山の恵みを分けてもらっていた。
東京ではスーパーで一瞬の時期だけ高値で販売されるそれらは、実央が大人になってから食べることがほとんどなかったものばかりだ。
山菜も筍も川魚も、鮮度がよければえぐみも生臭さもない。
それも、ここに来て初めて知ることになった。
(きっと、この宿に来たお客様も、あまり普段は口にしないものなんだろうな)
この民宿ひとよでの食事が、いつもと違う食の楽しみとして、宿泊客の楽しみになればいい。実央はそんなふうに思う。
「それにしても、ここに来てまでパソコンを見ているだなんて、大変ね」
実央は、自分がほんの少し前まで同じような境遇だったことを思い出した。
一つの仕事を片付けたと思ったら、なぜか二つの仕事が増える。そうしてまるで細胞分裂でもしたかのように、仕事は無限に増えていった。
毎回毎回、これが終わればと思っては走り続けていた日々は、やがて実央の心を忙殺していく。
(心を亡くすで忙しいとは、よく言ったものね)
こうして、ひとよで過ごしていると時間の流れがゆっくりしていて、あの頃が嘘のように感じる。仕事に打ち込んでいた自分を否定するつもりはないが、それでも休日はきちんと取るべきだったと思うし、食事を満足に得ていないことでまわなくなっていた頭は、業務効率を下げていたと、今ならばわかる。
圭太もそうなのだろうか。
指先がキーボードを叩いては止まり、そして同じキーを連打する。あれは実央にも覚えがある動きだった。
(文章を書いては消して、書いては消しているときの動き)
上司への報告書や、チラシ用のキャッチコピー。ウェブサイトに掲載する説明書き。社内デザイナーだというのに、なぜか最後はありとあらゆる文章までもを書いてきた実央は、自分がやりたかったのは文章じゃないのにと思いながらも、ああして一番伝わる文章を書き続けていた。
「うまくいかないときって、全然だめなのよね」
何度書いても、うまくいかない。
これで完璧と思っても、翌日見ればおかしなところがたくさんある。
「そろそろ六時半だ。料理を用意していいか、聞いてきてくれ」
オガミの言葉に、もうそんな時間なのかと驚く。料理を作るというのは、時間があればあっただけかかるものなのかもしれない。
パソコンに向かって眉間のしわをこれでもかと寄せている圭太に、実央はそろりと近付いた。
静かな食堂に、カタカタとキーボードの音だけがこだまする。
「お客様、そろそろお時間ですが夕食をお持ちしても良いでしょうか」
圭太は実央の声に、指先の動きをぴたりと止める。そうして数秒目線をパソコンに向けたままでいると、ゆっくりと実央の方を向いた。それはまるで、意識をこちらの世界に戻すための、チューニングの時間のように思える。
「はい。お願いします」
それだけを答えると、すぐにノートパソコンの蓋を閉じ、テーブルの端に追いやった。
「食後もここを使っていいですか」
「かまいませんが……。でしたらお食事は一つ前のテーブルをご使用になりますか」
実央の提案に圭太は頷くと、席を移動する。それを確認すると、実央は料理を運び始めた。
ふっくらと炊き上がった白米に、鶏つくねとレンコンの味噌汁、主菜はヤマメの梅紫蘇焼きだ。副菜として春キャベツと新玉ねぎ、しいたけとこごみを蒸したものに湯せんした豆腐をのせたサラダと、コシアブラとタラの芽、うずらの卵のてんぷら、うるいの酢味噌和えが用意されている。
次々と目の前に並べられるそれに、圭太は特に反応もせずにじっとテーブルを見つめていた。
「お客様、ご用意が終わりました。本日の献立は――」
「説明は結構です」
実央の説明をシャットアウトすると、圭太は箸を手にする。それを以て、実央の配膳の仕事は完了となった。
その場にいるわけにはいかないので台所へと戻ると、食堂の様子をこっそり観察するために作られている小さな窓を覗く。
(お祖母ちゃんも、こうしてお客様の食事する様子を見ていたのかな)
そんなことを思っていると、実央の後ろに人影ができた。
「あんまり凝視するなよ」
ピンクの髪がさらりと揺れる。
オガミの二重の瞳が、わずかに細まった。
「そう言いながら、オガミさんだって見てるじゃないですか」
「まぁ別に、俺は見ないでもわかるけどな」
「何ですかそれ」
くたくたと笑いあいながら、視線を圭太へと戻す。
彼はじっとヤマメを見つめていた。
箸先がわずかに濡れているので、味噌汁を飲んだのだろう。手を付けていないわけではないとわかり、ほっとする。
(あの人、なんだか適当に食事を済ませそうだったんだもん)
圭太はヤマメに箸を伸ばしかけ、その行先を天ぷらへと変える。
(うん。天ぷらは熱々のうちに食べてほしい)
端に添えられた塩をつけ、口に運ぶ。さくりとした音が、こちらに聞こえてきそうな気がした。
「……たまご」
小さく漏れたその言葉に、思わず笑みが浮かぶ。
うずらの卵は、コシアブラでぐるりと巻いて揚げていたのだ。中がわからないびっくり箱のような膳。彼はきっとこのあとヤマメを食べても、驚いてくれるだろう。
ちらりとオガミの方を見ると、彼の口元がかすかに上がっている。
(オガミさんの狙い、しっかりぴったりハマってますよ)
そんなことを思いながら、再び圭太へと目線を戻す。
天ぷらのあとにはご飯。そして次に味噌汁。中に入っているレンコンを、しゃくしゃくと咀嚼している様子が見て取れた。
彼はそのままヤマメに口をつける。周囲に人がいないからか、圭太は箸を置き、ヤマメの両端を手にもってかぶりついた。
その途端、圭太の目や眉、口が全て配置を変えて鼻に集中してしまったかのような表情を浮かべる。
「酸っぱい!」
大慌てで白米を口に放り込む。それを飲み込むと、圭太の表情はこれまでとは一転した。彼のぼんやりとした瞳には、部屋の蛍光灯の明かりが入り込み、まるで太陽光を受け止めたように、輝きを放っている。
ヤマメに再びかぶりつくと、勢いよく白米を口内に運ぶ。そうして今度は味噌汁を飲み込み、天ぷらに手を伸ばす。お茶碗が空になったようだったので、実央は圭太のもとに急いで近付いた。
「先ほど言い忘れちゃったのですが、ご飯とお味噌汁はお代わりが可能です」
すぐに茶碗が差し出される。
「お代わり、ください。味噌汁ももらえたら嬉しい」
「はい。具をたくさん入れてきますね」
実央の言葉に、圭太は軽く頷く。
味噌ドレッシングをサラダにかけると、圭太は豆腐をいくらか箸から零しつつ、野菜とともに口に入れる。シャクシャクと春キャベツと新玉ねぎの、みずみずしい音が聞こえた。
それから圭太はさらに一膳、都合三膳の白米を食べ切る。
食べ終えた後に出されたほうじ茶を飲むと、彼はようやく落ち着いたようで、ほうとため息をついた。
「女将さん、すごく旨かったって料理長さんに伝えてください」
それは実央にとって、何よりも嬉しい言葉だ。
「はい! オガミさん! 聞こえましたか!」
笑顔で台所に向かってそう言えば、その声の大きさに圭太がぎょっとする。すぐに奥からオガミが顔を出すと、暖簾の端で軽く頭を下げた。
つられたように、圭太も頭を下げる。
「なんだか、久しぶりにしっかりと満腹になった気がします」
そう言うと圭太は立ち上がり、先ほどまでいたパソコンの置いてある席に戻った。けれどロックを解除したあとの手が、そのまま動かない。
「……お客様、もしかしてネットに何か問題が?」




