三 研究と論文と 03
考え得る最悪のシナリオを一瞬で立て続けに脳内に思い描き、その中で一番マシだと思える質問を、実央は投げかけた。そんな彼女の不安な気持ちなど、当然気付きもしないまま、圭太は首を振る。
「あぁ、いや。今夜はあと風呂に入って、寝るのも悪くないかと思って」
その言葉に、実央はパッと表情を変えた。
ぱちんと両手を胸の前で合わせると、三回ほど頷く。
「それは良いですね。我が民宿は、温泉が出ておりますので、ゆっくり温まっていただけますよ」
「え、温泉なんですか」
この山はもともと温泉が出る。
町会で引いているものを民宿にも入れていて、お風呂場で楽しむことができるのだ。
風呂は昔ながらのタイル敷きで、大きな窓がとられている。浴槽も広めにできていて、ゆったりと足を延ばすことができるので、きっとリラックスできるだろう。
しかも源泉かけ流しときている。
泉質は弱アルカリ性単純温泉。無色透明で匂いもほとんどしない。さらにこの辺りは水がやわらかく、シャワー自体も肌当たりの良いお湯が出るので、お風呂が好きな人にはかなり楽しいだろう。
――残念ながら圭太は、そのタイプではないが。
「芯からあったまりますよ。ゆっくりお入りください」
風呂場は階段の裏手にある左側に抜ける通路の先にあった。
タオルと寝巻は脱衣所にある旨を告げると、圭太はノートパソコンをリュックサックに詰め込んで、部屋に戻っていく。きっとすぐに、風呂場に向かうだろう。
「実央さん。俺たちも飯にしよう」
食堂の食器を全て台所に戻しに行くと、パチパチと水が油に跳ねる音がする。お腹に響く香りがしたと思えば、揚げたての天ぷらが皿に盛られていった。
「お客様に出したのは、コシアブラでうずらの卵を巻いたものとタラの芽だけど、追加でレンコンも揚げておいたよ。味噌汁の具材の余り」
「わ! レンコンの天ぷら大好きです」
「知ってる」
「私、言ったことありましたっけ」
「小さい頃、よく食べてたでしょ。やよいさんと一緒になって、ほくほく~って頬を緩めてさ」
祖母に話を聞いていたのか。なんだか面映ゆくなってしまう。
「オガミさんって、お祖母ちゃんから私の話を結構聞いてました?」
実央の問いに、彼はうっすらと笑みを浮かべる。
「どうだろうね」
「またそうやってはぐらかす」
「別にはぐらかしてなんて、いないさ」
オガミの筋張った腕が、実央の前を通り皿を置いていく。
小さくじゅうじゅうと音を立てている、揚げたての天ぷらが実央の前に置かれた。
少しだけ冷めたヤマメと、熱々の天ぷら。それにサラダと酢味噌和えが彩も鮮やかに瞳を満たしていく。
「さぁ、食べよう」
目の前に並べられた山の恵みに、実央は今日も腹を満たしていった。
***
宿の風呂に浸かりながら、圭太はぼんやりと窓の外を見る。
網戸がかけられている窓は大きく開き、風呂場に入ったときには、わずかに肌寒く感じた。けれど、かけ流しのおかげか、床のタイルはじんわりと温かく、頭と体を洗っている間に寒さなどどこへか消えていく。
壁は漆喰でできているのか、クリーム色で殺風景と思わせておきながらも、温かみのある気配を感じさせた。
「あー、月が見える」
肩までしっかりと浸かると、窓の上部に浮かんだ月が目に入る。
この宿の周りには、民家も目に入る範囲にはなかった。それはつまり、明かりも何もないということでもある。
窓の外は真っ暗で、ほの明るく見えるのは空に浮かぶ月のおかげだ。
その月が作り出す山のシルエットは暗闇の形をしていて、まるで夜闇の化け物がこの世に現れたかのようにも見えた。
「そういや、昔は山を神様に見立てたりもしてたとか」
圭太は理系ではあるが、何くれと本を読むことが好きだった。
最近はすっかり自分の研究に関係する本ばかりを読んでいるが、学生の頃は学校の図書館にある民俗学の本やら、文学の本やらも手にしていたと思い出す。
学生時代はそうして読んだ本をもとに、旅に出ることもあり、ジャンルは違うがフィールドワークだ、などとうそぶいていた。
(坂上は、僕が旅行好きだって覚えてたのかな)
圭太に軽口を告げていた同僚に、内定者のころそんな話をしたのかもしれない。だからこそ、ホテルにでも泊まればと声をかけた可能性もある。
(いや、あいつはそんな気が利くタイプではないか)
なんでも良い。
それでも彼の言葉がきっかけとなって、こうしてこの宿に縁がついたのだ。
わずかにとろみのある、透明な湯を救い上げる。
匂いもなく柔らかな湯は、論文執筆で凝り固まっていた筋肉を、優しくほぐしてくれるような気がした。
「どうにかあと半分くらいでも書き進められれば、研究室に戻ってから終わらせて。それから英文にして、査読の依頼にまわして……」
論文を書き上げた後の工程と日程を考える。
食事をしたあとにパソコンを前にしても、指先が動かなかった。けれど、それは今までのような、上手く書けないというものではなく、脳が動き出してどうまとめるかを、迷って指が動かなくなった感覚だ。
それであれば、一度書くことを脳内でまとめる時間が必要だと思った。こうして風呂に入って感じるのは、それは正解だったということ。
「頭洗ってると、するするって考えがまとまっていったんだよなぁ」
この調子であれば、学会までにはどうにか間に合いそうだと思って、腹の底から息を吐き出した。体に触れるお湯が、内臓まで温めてくれている気がする。
「それにしても、晩飯旨かったな」
揚げたての天ぷらも、焼き魚も、シャキシャキの野菜も、具材のたっぷり入った味噌汁も、随分と久しぶりに食べた。どれも味がはっきりしていて、脳の細胞の一つ一つが立ち上がるような気配を感じるほどだ。
ここに来る前の自分の食生活を思い出すと、あまりにも杜撰な日々だったと感じる。
「母さんにも心配かけてたのかも」
以前は食材を送ってくれていた母も、いつしかすぐに食べられるインスタントなものを多く送ってくれるようになった。それはきっと、それすら食べない可能性のある圭太を案じていたのだろう。
ふと外を見れば、月の近くに星が出ている。
明るい月の光の近くにあるから、気が付かなかった。
「母さんに、ちゃんと食うって連絡しようかな」
もう社会人として何年も経つというのに、母親に心配をかけてしまっていた自分を思う。
「どっちにしろ、書き上げてからだけど」
それでも、今は目途が立ちそうな状態まで復旧した。この二週間、ずっと泥沼の深い場所まで落ちて藻掻いていたのが、まるで嘘のようだ。
「なんでスマホにここの宿の電話番号が入ってたのか、思い出せないけど」
もしかしたら、どこかテレビや雑誌で見聞きした情報を入力していたのかもしれない。旅が好きだった自分を思い出すと、それもさもありなんと思えてきた。
「温泉だし、秘境過ぎない場所のわりに静かだし、飯もうまいし、宿も清潔だし。どれをとっても最高だな」
ちゃぽ、と湯の中で体を動かす。窓際に寄り、空を覗き込む。
叢雲が月の光を薄く透かし、風で流れていく。
「あの女将さんも、なんだか若くて可愛かったな」
そう呟いたてから、圭太は自分の顔が赤くなるのを自覚した。
窓の外の木々が、ざわりと風で揺れる。
「いや、けっして不埒な気持ちでそう言ったわけじゃなくて」




