三 研究と論文と 04
誰が聞いているわけでもないのに、何故だか言い訳をしないといけない気がして、あわあわと口を開いた。それでも、圭太の目の裏には実央の笑顔が浮かび上がる。
(その――研究室に女子はいないから、それだけで)
鼻の辺りまでぶくぶくと湯に沈みながら、圭太は心の中でそう付け加えるのだった。
***
「おはようございます」
朝七時半。
実央が民宿前の掃除を終えて食堂に来ると、すでに圭太がノートパソコンを使っていた。食堂に入った途端、彼から声がかけられる。
「おはようございます! よく眠れましたか?」
「それが、びっくりするくらいよく眠れて」
よく眠れたのは良かった。けれど、圭太はどこか戸惑ったような表情で、実央をちらちらと見る。
「その……。もしまだ間に合うなら、朝食を用意してもらえないでしょうか」
そこまで言うと、実央の顔から目を反らし、圭太は言葉を続けた。
「いえあの、駄目ならもちろん結構です。ただ想定ではもっと眠ってるつもりでしたし、ギリギリまで論文を書くつもりでしたし、朝食を食べる時間なんてもったいないと思ってたというか」
間に実央が「あの」「その」と声を入れるも、彼は一息で話しきる。そうして、少しだけ息を整えると、気まずそうに実央の首辺りを見た。
「今、論文を書いてたらびっくりするぐらい進んで」
その言葉に、昨夜の彼の指先の動きを思い出す。
何度も打っては消して、打っては消してを繰り返していた彼の手は、今朝はデリートキーではなく、エンターキーばかりを打つようになったのかもしれない。
「それは良かったです! では朝食、ご用意できたらお声掛けますね」
実央の返事に、圭太はほっとした表情を浮かべる。
再び席に座りパソコンに向かう彼の指先は、昨日よりもずっと軽やかだった。
カタカタターン、カタカタターンとリズミカルな音が響く。
白米が炊ける匂いが充満する台所で、オガミはにやにやと笑みを浮かべて実央を迎え入れた。
「オガミさん嬉しそう」
「そりゃそうさ。不要と言われてた飯を欲しがられるなんて、料理人冥利に尽きるでしょ」
そう言いながら軽やかに動く包丁が、まるで彼の心を示すかのように音を立てる。
「それに、彼は実央さんのことを気に入ってたみたいだしね」
小さくそう呟いたオガミの言葉は、実央には届かない。
「やよいさんに続いて、新しい女将も人たらしになるのかなぁ」
楽し気に口元を緩ませるオガミは、春キャベツを千切りにしていった。そこにホワイトマッシュルームを薄くスライスして混ぜ込み、フライパンで軽く炒めていく。フライパンの上でそれを円形に整え、真ん中に少しだけくぼみを作る。そのくぼみへ卵をぽとりと落とした。蓋をして蒸し焼きに。それを鶏ハムを敷いた皿に盛り付けると、上からブラックペッパーをかける。
「うわ、おいしそう」
「巣ごもり親子の完成だ」
とろとろの半熟卵と鶏ハムは、白米にどれだけあうだろうか。
ひとよで使っている卵は、地元の養鶏所と契約をして届けてもらっている。黄身が濃く、味が強いのが特徴だ。
きっととろりと流れ出した黄身は、鶏ハムの薄い桃色に被さり、甘しょっぱい味を口の中に広げるだろう。
「想像しただけで、おかわりできそう」
「味噌汁はミニトマトとチーズで洋風にしてみた」
「えっ。お味噌汁ってそんな具材もいけるんだ」
「味噌汁は自由だからね」
確かに味噌もチーズも同じ発酵食品だし、味が喧嘩することはなさそうだ。こちらも食べたことがない味だけに、気になってしまう。
「トマトも過熱して食べることもあるしなぁ」
考えてみたら、トマトスープなんてトマト自体がスープになっているではないか。
そうして、どことなく洋風な献立をパンではなくご飯で食べる。
それはとても幸せな朝食だ。
さらに小鉢としてスナップエンドウとヤングコーンの夏みかんサラダを添える。スナップエンドウは、今朝裏の畑から実央が収穫してきたものだった。夏みかんを加えたさっぱりとしたシンプルなドレッシングが、さっぱりとさせてくれるだろ。
「さあ、届けてきて」
ワゴンに乗せて、食堂に運ぶ。
はたして、朝食を前にしただけで圭太は頬を緩ませて、穏やかな表情を浮かべたのだった。
「お世話になりました」
朝食後、チェックアウト時間を延長し圭太は論文を書き上げた。
そのあたりの融通はいくらでも利かせるつもりの実央は、彼が昼頃まで残りたいと言ったときに快諾した。
(どうせ、次のお客様がすぐに来るわけじゃないし)
追加の朝食と昼食分はしっかりとお代をいただき、昼にはおにぎりと味噌汁を提供する。
「紅茶も、おいしかったです。昨日は味なんて気にしてなかったけど」
そう笑う圭太の表情は晴れ晴れとしていた。
「夕飯食べてから、なんだか調子があがってきて」
宿を出るときにそう口にした彼に、実央は頷く。
「今日食べたものが、明日の自分を作るそうですよ」
「――なるほど」
圭太は初めてしっかりと実央の顔を見つめた。
「論文も書きあがりましたし、今夜からしっかりと飯食べたいと思います」
そうして歩き出した圭太の足取りは、軽やかだった。




