四 倒産と会社員 01
浜野隆が東京駅のホーム椅子に座り込んで、すでに一時間半が経っていた。
足元には、くたくたの紙袋。中には使い古したマウスパッドや、『わかっちゃう! エクセル』といった業務で使う本、それに使い込んだノートなどがこまごまと入っている。
ぼんやりと目の前を走り過ぎていく山手線を見ながら、隆はほんの数時間前のことを思い出していた。
(まさか会社に行って突然、今日倒産しましたと言われるとはな)
隆の会社は東京駅の八重洲口から日本橋に向かう途中にある、小さな文具メーカーだった。経営者、従業員あわせても十数人の小さな会社ではあったが、安いながらも給料が不払いになることもなかったのに、どうしてなのか。
今朝出社したら、会社の入り口が封鎖され中から見知らぬ男性が数人出てきて、倒産したことを告げられたのだった。彼らに頼み私物だけは引き上げてきたが、渡された書類はゆっくりと読む気にもなれない。
「結婚も子どもも縁がなかったのは、良かったのかもしれない」
多少の貯金はあるので、失業保険を貰いながら転職活動するしかないが、四十を超えた男に転職の機運があるものかはわからなかった。
「今はとにかく、全部を忘れたい」
そんなこと、できるわけもないのに。
(いつまでもここに座ってるのもな)
ふらりと立ち上がると、隆は座っていた場所にぐしゃぐしゃになったチラシが一枚あることに気が付く。
「あれ、俺チラシの上に座ってたのか?」
そんな違和感に気付かないほどに、疲弊していたのだろうか。
手を伸ばし、それを拾い上げる。
「……民宿ひとよ?」
A4の半分の半分くらいの大きさの紙には、宿の名前と電話番号だけが書かれてあった。スマートフォンを取り出し、その名前を検索する。けれど一向にヒットはしない。普段であればそれで終わりにするところだった。けれど、どうしてか隆はその電話番号が気になってしまう。
「どうせ、明日からしばらく休みみたいなもんだしな」
こんな日の一泊くらい、家から離れてもいいのかもしれない。
市外局番から押していく。二回のコールのあとで、電話が繋がる。
『民宿ひとよでございます』
女性の声がして、気付けば隆は今晩の宿を予約していた。
***
梅雨入り前だというのに、雨が続いた。
それがようやく降りやんだと思った日に、予約の電話が入る。
「オガミさん、今晩予約が入りました」
「そんな気がしてたよ」
オガミは空を見上げ、笑う。
昨日までの雨空とは打って変わって、空の向こう側まで見透かせそうな青い色が、そこには広がっていた。特徴のある鳥の声が、山の彼方から聞こえてくる。
「まさかオガミさん、予知能力が?!」
「どうだろうね」
くすくすと笑いながら、オガミは立ち上がった。大きな冷蔵庫を開けて、ガラスの器を二つ取り出す。
「とりあえずこれ。おやつだよ」
「わ! プリンだ」
「美央さんに好評なら、デザートで今夜出そうと思ってね」
「それってつまり、試食ってことですよね。お任せください!」
実央は引き出しからスプーンを二人取り出すと、袖をまくる。
「腕まくりする必要、なくない?」
そう言ってオガミはインスタントコーヒーに、お湯を注いだ。
耐熱ガラスの容器にみっしりと詰め込まれているプリンは、少しかため。スプーンを入れると、しっかりとその跡を残していく。口の中にいれると、甘さが舌の上でほろりと広がった。
「おいしいです。カラメルがちょっと苦めなのもいいなぁ。これに生クリームがあったら最高なのに」
「生クリームか。俺には想像もつかなかった」
「オガミさんと生クリーム、結構似合いそう」
目の前にいる男は、ピンク色の髪の毛が妙に似合う。軽そうに見えて、実際口調も軽いけれど、でも人柄が軽いわけではない。不思議な人物だ。この間気付いたが、よく見れば耳にいくつか穴が開いている。ピアスの跡だろうか。
(実は昔、結構ヤンチャしてた、とか?)
ピアスの穴が複数開いているからといって、ヤンチャだったとは限らないのだが。いくつものピアスを耳にしているオガミを想像して、悪くはないな、と思ってしまう。すぐに忘れてしまうが、オガミは思いのほかイケメンなのだ。
「生クリームって、冬の雪山みたいでいいよね」
実央よりも早く食べ終え、オガミは空になった器を目の高さまで持ち上げて笑う。彼の大きな手で持つと、プリンの入っていた器が妙に小さく見えた。
「オガミさんって、山が好きですよねぇ」
「実央さんは山、好きかな」
コーヒーのお代わりを淹れながら、オガミが問う。
「好きですよ。特にここの山はなんか、空気が穏やかな気がします」
「へぇ。そんな風に感じるんだ」
「変だったかも? でも、ここに来た時も思ったけど、なんか――お帰りって言ってくれたような、そんな気がして」
そんなわけはないのに、祖母の魂がここにいるような、何かあたたかな気持ちにさせられたのだ。包み込まれるような空気感は、幼い頃に来ていた記憶がそう思わせているのかもしれない。
「そりゃ嬉しいねぇ」
やはり同じように山が好きな相手がいるのは、良いものなのだろう。オガミは目元をほころばせ、笑った。
「すみませーん」
玄関から声が聞こえる。
「あ、お客様」
実央は慌てて口元を拭く。
「残りは冷蔵庫に入れておくから」
食べ切らなかったプリンの器を手にしたオガミを振り向くと、実央はお願いしますと言い残して玄関に急いだ。
玄関先に人は立っておらず、わずかに開けた隙間の向こう側に彼は立っている。
「失礼いたしました! どうぞお入りください」
ガラガラと引き戸を開けると、短く刈り上げた頭のスーツ姿の男性がそこにいた。手にはボロボロの紙袋と、年季の入った通勤鞄。歩き回る職種なのだろうか、革靴の底は歩き癖ですり減って斜めになっている。
「急な予約ですみません。電話した浜野隆です」
「バスの時間、大丈夫でしたか?」
「いやぁ、タイミングが悪かったみたいで一時間くらい待ちました」
はは、と力なく笑う隆は、紙袋を開いて見せた。
「でもその間に、着替えを買うことができたから」
中には雑多な荷物の上に置かれた、チェーン店のビニール袋が入っている。タオルや歯ブラシなどは提供できても、着替えまでは宿で用意できない。
宿帳に記載を終えると、実央に案内されて隆は二階の部屋に向かう。
「静かで良い宿ですね」
「ありがとうございます。雨のあとなので、夜は近くの滝の音がよく聞こえると思いますよ」
「へえ、滝なんてあるんだ」
「小さいんですけどね。この時間ならまだ見に行けますが、案内しましょうか」
「うーん。行きたいけど、なんかちょっとそんな気分にならなくて」
空気が抜けるように笑う隆に、実央は頷く。
「音を聞くだけというのも、情緒的です。お夕飯の支度ができましたらお声を掛けますので、どうぞゆっくりお過ごしください」
部屋を後にすると、実央は宿の裏手にある小さな滝へと足を向けた。
ごりごりごり、とすり鉢をする音が台所に響く。絹豆腐と山芋をともにすりおろし、そこに水で戻したひじきと生シイタケに人参、胡麻、それに山椒の実を少し入れ込む。丸めて揚げれば、香ばしいごま油の香りが広がった。
「がんもどきって、作れるんですね」
実央は手に小さな白い花を一輪手にし、勝手口から顔を出す。
「そりゃ、豆腐屋でだって作ってるんだから――ユキノシタか」
「この花そういう名前なんですね」
全部で五輪の花弁を持つ小さな花は、下側二枚だけが長く大きい。上三枚には濃いピンク色の模様が入り、どこか凛とした空気をまとった線の細い花だ。
「お客様が滝に興味を持たれたんだけど、行くほどの元気はないみたいだったから」
ユキノシタは滝のすぐ近くに咲いている、湿地を好む植物だ。
その場まで行けなかったとしても、せめて花を部屋に飾れば、滝の音と相まって気分が清涼になるかもしれないと思った。
「そこの棚の下に、一輪挿しがいくつかしまってあるはずだ」
「じゃあ靴を向こうに置いてから、回ってきます」
勝手口で脱いでしまうと、外に出られなくなる。
――何度か繰り返して、あとで面倒になると最近ようやく気が付いたのだ。
玄関からぐるりと戻ってきた実央が一輪挿しを選びユキノシタを挿す頃には、台所は味噌汁の匂いが充満していた。
「今日の具材は何ですか」




