三 研究と論文と01
「すみません。予約してる越野圭太です」
短く切られた黒髪に、細い眼鏡のひょろりとした男性が引き戸を開ける。小声で様子をうかがうような声が、民宿ひとよの玄関の空気にくるりと乗った。
玄関の向こうには、五月の連休明けの空が広がる。午後の少しだけ気だるい日差しが、外の木々の影を作っていた。
「お待ちしておりました。女将の実央と申します。早速ですが、宿帳の記載をお願いいたします」
リュックサックを一つ背負っただけの圭太は、こくりと頷くと宿帳に几帳面な右肩上がりの文字を書き込んだ。
実央は手元の予約帳と、宿帳に書かれた名前を照らし合わせて確認する。
「本日よりご一泊、夕食のみ朝食はなしですね」
「はい。朝はいろいろとやることがあるので」
ぼそぼそと話す圭太を、実央は二階の部屋へと案内した。
古い建物なだけに、階段は少し急になっている。そのため、階段の端にはゴム製の滑り止めが張り付けられていた。茶色の階段に、えんじ色のそれが妙に印象深い。
「お夕飯は食堂にてお召し上がりいただきます。ご希望のお時間はございますか?」
「六時半にお願いしたいです。それまでは、パソコンを使いたいのですが」
「あっ、ネット環境とか必要でしょうか」
リュックサックからノートパソコンを取り出した圭太を見て、実央が慌てる。この宿にもインターネットは通っているが、Wi-Fiはない。
「そりゃ、なければ話にならないですから」
「あの……大変申し上げにくいのですが」
「まさかネットがないとか?!」
「いえ! あるのですが、その、有線のみでこの部屋にはなくて」
「あー」
圭太はため息とともに声を吐き出すと、リュックサックの中に再びノートパソコンを詰め込む。
「どこです?」
一瞬、圭太の言葉の意味が呑み込めなかったが、すぐに有線接続が可能な場所を尋ねたのだと気付く。
「一階の、食堂なら」
「ではそこをお借りします」
すぐに立ち上がる圭太に気圧されながら、実央は食堂まで彼を案内した。部屋の右奥のテーブルに、有線ケーブルを引っ張り出す。
「お飲み物を用意いたしましょうか」
「紅茶をください」
ノートパソコンのセッティングをしながら声だけを返す圭太に、実央はその場で頭を軽く下げて台所へと向かった。
***
研究所に勤める越野圭太が予約の電話を入れたのは、昨夜のことだった。
「越野くん、行き詰ってるなら研究室の外で書いてみたら? ホテルに缶詰めとか、昔の文豪はよくやったんでしょ」
同僚の坂上は、圭太のはす向かいの席から、軽い口調でそう言った。
「そりゃ文豪はやるだろうけど、僕は生憎文豪ではないものでね」
次に発表する論文が遅々として進まず、暗中模索しているときに、言われた言葉にカチンとくる。
同じ研究所の同じ研究室に所属している坂上は、今度の学会での発表はない。気楽な立場の彼に言われ、圭太は目線を合わせることもせずに回答した。
「それに、研究室で書く方が資料も実験材料も揃ってます。帰宅するのだって非効率だと思ってるのに」
「宿泊は禁止になっちゃったからね」
以前は寝袋を使って研究室に宿泊もできたが、コロナ禍を経て全面禁止となってしまった。仕方がないので、終電ギリギリまで研究室で書いて、帰宅している。研究所から圭太の家まで電車で数駅だ。車で通勤している人もいるが、圭太は疲弊した状態で車の運転をする自信がなかったので、電車移動を旨としている。できる限り研究関係にだけ意識を集中していたい。それが圭太の信条であり、そして幸せでもあった。
「っと、電話だ」
スマートフォンが震える。圭太は同僚に手で挨拶をすると、電話に出た。
『圭太、元気でやってる?』
「母さん」
電話の先は、実家の母だった。東京の大学に進学し、そのまま大学院、就職と進んだ彼の体を心配し、手をかけずに食べられる簡便食の宅配便を送ってくれる。この電話は、今日発送をしたという連絡だった。
ごく短い会話を終えると、スマートフォンの電話帳アプリを誤タップしてしまい、そのままコール音が続いた。
(あっ、消さなきゃ)
慌てる圭太の動作よりも先に、ワンコールで電話がつながってしまう。
『お電話ありがとうございます。民宿ひとよでございます』
ワンコールで出た先に聞こえてきたのは、女性の明るい声だった。
(民宿? 聞いたことのない名前だし……なんでこんな電話番号がスマホに入って)
『お客様?』
「あ、すみません。明日! 明日泊まりたいんですが」
電話を切るわけにもいかず、さらには同僚の言葉も相まってなのか。圭太は思わず宿泊の予約を入れてしまう。
前日夜の予約なんて、いくらゴールデンウイークあけの週末とはいえ、空いているわけもない。
そう思った圭太の予想に反して、電話口ではすぐに返事が戻ってきた。
『かしこまりました。明日ご一泊一名様でよろしいでしょうか』
「はい。夕飯だけつけてください」
宿までの道順を確認し予約が完了すると、圭太は電話を切る。
(いやなんで僕は、宿に宿泊するなんて決めてしまったんだ?)
それも、この場所から随分と遠い、電車とバスを乗り継がないといけない民宿なんかに。しかも一度も宿泊したことがない宿だ。そもそもどうしてこの電話番号が自分のスマートフォンに入っていたのかはわからない。だが、わからないことをいつまでも考えていても時間の無駄だと割り切り、圭太は今晩のうちに進められるところまで論文を書き続けることにした。
(まぁ、本当に場所を移動したら、書ける可能性もあるわけだし)
あまりにも進まない論文に、圭太は一縷の望みすらかけ始めたのかもしれない。
翌朝、圭太の自宅のある八王子から電車を乗り継ぎ、バスに乗り、民宿ひとよまでどうにか辿り着いた。
(随分遠いところにある)
最寄りのターミナル駅から、事前に調べたバスの時刻通りにスムーズに乗換をし、ようやく辿り着いた民宿ひとよの前で、圭太が最初に思ったのはそれだった。
(この移動時間で論文が進められれば、と思ったけど、バスの揺れが酷くてそれどころじゃなかったしな)
特急電車の中ではノートパソコンを開くも、全然進まなかった。
――行き詰ってるなら研究室の外で書いてみたら?
坂上の言葉を思い出す。
(研究室の外とは言っても、移動中は無理ってことがわかった)
となれば、この宿ではどうだろうか。
ここまで来たからには、意味のある結果――つまりは論文を書き上げること――を残したい。
圭太はそう意気込み、目の前の扉を開いたのだった。
実央は台所へと移動すると、こっそり圭太の様子を伺う。
じっとパソコンの画面を見つめているが、キーボードを叩く音はまばらだ。
「実央さん、紅茶が入りました」
オガミの声に、実央は慌ててカウンターを振り返った。紅茶は深さのあるマグカップに、なみなみと淹れられている。
「これならしばらくの間、邪魔しないで済むでしょ?」
彼の言葉に頷くと、実央は圭太の座るテーブルに、そっと紅茶を置いた。
「どうも」
一瞬だけ圭太は実央の動きを目の端で捉えると、パソコンの画面から目をそらさずにそう口にする。
(結構、丁寧な人なのね)
飲食店などでも、店員が水を提供しても当然と言わんばかりに何も言わない人間も多い。その点、圭太は目を合わせはしないものの、実央に紅茶のお礼を告げた。
(とっつきにくそうって思ったけど、悪い人じゃないのかも)
真剣な目でパソコンと格闘している圭太の邪魔をしないよう、実央はそっとその場を離れる。
台所では、オガミが夕飯の仕込みをしているところだった。
「今夜は何にするんですか」
「お客様は、ずいぶんと仕事が忙しいみたいだからね」
そう言う彼の手元には、ザルに乗った三匹の魚。
「わぁ! きれいな魚! なんていう名前なんですか」
「これはヤマメ。ここに模様が入ってるでしょ」
オガミはヤマメの体を持ち上げ、横部分にある小判型の模様を実央に見せる。まだら模様が並び、窓の外から入る陽ざしを浴びて、その魚体が銀色にきらきらと輝いていた。
「ヤマメって私初めて見たかも」
「味もとびきりだよ。楽しみにしてて」
手元のヤマメを流水に流しながら、オガミは包丁の背で軽く表面を撫でる。ぬめりがとれたことを指先で確認すると、まな板の上にヤマメを横たえた。
腹を開き、内臓を指で取りだすと、そのままえら蓋も開き、付け根を包丁で切りおとす。腹の中まできれいに洗った後、清潔な布巾で水気をとると、全体に塩を振った。それを一尾ずつ繰り返し、三尾目を終えると、最初に塩を振ったヤマメにうっすらと浮いてきた水分を再びふき取る。
それからオガミは、先に用意していた詰め物をヤマメの腹の中に押し込む。
「それは?」




