二 初めての客 02
「メモ、ですか」
「そうなの。宿の名前と電話番号だけ。でもなんだか、ここにかければいいって気がしちゃって」
彼女の年齢からして、もしかしたら昔新聞広告を出していた頃にでも見かけて、メモを残していたのだろうか。
つまりふらり旅ネットワークのようなものが、あるわけではないらしい。クチコミを共有されていると思っていたのだが、当てが外れてしまった。
(うぅん。結局よくわからないままだ)
オガミ曰く、それなりに予約は入るから、心配しなくても良いらしい。
(信じていいのかな)
しばらくは貯金もあることだし、様子をみるしかないのかも。
(どっちにしろ、宿のことも勉強しないといけないし)
ホテルや旅館とは違うが、それでも法令上守らないといけないこともあるだろう。そうしたことを、きちんと学ばないといけない。
(そう考えたら、ちょうどいいのかもね)
それに、あまりにも予約が入らなかったら、そのときに考えればいい。
姉が言う『トライアンドエラー』とは、そういうことなのかもしれないと、ぼんやりと思った。
綾女は部屋に入ると、小さく「わぁ」と声を漏らす。
部屋の正面の窓は換気のために開けられ、レースのカーテンが揺れていた。その先には遠くの山の稜線と、この山の木々が折り重なるように見える。青空には薄く伸びた白い雲が浮かび、晴れやかな心になる。
部屋の違い棚の上には、玄関にも活けていた山吹が枝垂れていた。
「これ、山吹ですよね。私好きなんです」
綾女は口元を緩ませて、部屋の中に入ると違い棚の前へ進む。小首をかしげるようにして花を見つめ、指先でちょんと触れた。
「夕飯は食堂で召し上がっていただきます。何時ごろをご希望されますか?」
「そうねぇ。何時でもいいけど――」
「では、六時頃を目途にお声をかけさせていただきますね」
あと三時間。民宿ひとよのあるこの場所は、特に商店街が近くにあるわけでもない。周囲にあるのは山と川という大自然のみ。
「宿の周りは散策ができるように、小道がありますが……どうされますか?」
「本を持ってきているから、部屋で過ごさせていただくわ」
山吹もご覧になれます、と告げるか迷った。けれど、外出をするつもりのなさそうな彼女にそれを言えば、出かけることを強要しているかに思えるかとも考える。
「では、お茶をお持ちしますね。日本茶、紅茶、コーヒーのご希望を承ります」
「なんでも大丈夫よ」
綾女はにこりと笑みを浮かべると、和室の奥にある窓際に座椅子を移動させた。実央はそのまま部屋を出ると、台所へ向かう。
夕飯はなんでもよくて、夕飯の時間も何時でもよくて、飲み物もなんでもいい。
彼女の言葉は、あまりにもなんでもいいが続きすぎている。
(あんまりこだわりがない人なのかな)
それでも山吹は好きだと言っていたし、読書のために本も選んできたのだろ。食に興味がないだけなのかもしれない。
台所に顔を出すと、そこではオガミが筍の下処理をしていた。
「お茶を出したいんですが」
実央はそう口にすると、少しだけ困ったように口をすぼめる。
「ああ。なんでもいいって言われたか」
「なんでわかるんですか」
「食事の希望もそうだったからな」
「こだわりがない人なんだと思います」
その言葉に、オガミは軽やかに笑う。
「どうだろうな」
調理台で切り口を水に浸しているハーブに手を伸ばすと、オガミは実央を見た。
「そこの透明のポットをとってくれるか」
実央の後ろにある棚に飾られていた、ガラス製のポットとカップを取り出す。小さなトレイにカップを乗せ、ポットはオガミに手渡した。
「それは?」
「こっちの細長いのがレモングラス。この産毛がついてるのがローズゼラニウムだ。あとこっちはミント」
宿の裏は小さな畑があり、そこでハーブやちょっとした野菜を育てていた。どうやらそこから採ってきたらしい。それらをポットについている茶こしに入れて、熱湯を注ぐ。少し待つと、じんわりとお湯に色がついてくる。壁にかかっている時計を見ていたオガミは、小さく「よし」とつぶやき茶こしごとポットから取り出した。
調理台の端に置かれたぐい飲みに少しだけそれを注ぎ、味見をすると、目を細める。
「美央さん、これをお客様に」
薄い黄金色の液体は、ガラスのポットの中で光を浴びてきらきらと輝いていた。
(オガミさんって、ハーブにも詳しいのかな。いや、そもそも料理めっちゃ上手だけど、料理の修行してきた人なのかも知らないや。料理めちゃくちゃおいしいけど)
料理人の修行は大変だと聞いたことがある。
髪の毛をピンク色にしていたら、親方から殴られたりしないのだろうか。
(ここの宿に来てピンクに染めたのかもしれないか)
そもそも祖母とはどういう縁で、出会ったのだろう。
実央の記憶にある祖母は、いつもニコニコ笑って、次から次へと食事を出してくれていた。
(あれ、でもお祖母ちゃんが料理ものすごく上手だったって話、あんまりお母さんから聞いてないような)
大正末期の生まれの祖母は、長い日本の戦争期を生き抜いてきた。その中で食うや食わずやのこともあっただろうことは、戦争に無縁の時代を生きている実央にも想像がつく。
「母さんはなんでも料理しちゃう人だった」
とは、以前母に聞いた祖母の話だ。なんでも、というのは野草でも虫でも、ということらしい。地域によっては昆虫を佃煮にする文化があると聞いたことがあるが、実央はまだ食べたことがなかった。
どうにもこの民宿での出来事と、祖母自身のことの記憶に齟齬があるように感じる。
(それでなんだっけ――オガミさんだ。オガミさんのことは本人に聞いてみよう)
また、話をそらされるかもしれないけれど。
二階にある客室へ、そろりとお茶を運ぶ。乾いた木の扉をノックすると、中から穏やかな返事が返ってくる。部屋にある小さなちゃぶ台でハーブティをカップに注ぐと、綾女は手にしていた文庫本に栞を挟んで床に置き、窓際から近づいてきた。
「いい香りね」
ゆっくりと息を吸い込み、彼女は息を吐き出す。カップを口に運ぶと、綾女は一気にそれを飲み干した。
「おいしくて飲み切っちゃったわ」
「おかわりもありますので」
ガラスのポットにはあと三杯分はゆうにあろう量が、残っている。カップに注ぎ足すと、綾女は実央をじっと見た。
「あなたお若いのに、ここで女将をしているのね。もう長いの?」
その言葉に、ほんの数日前にここに来ました、と素直に言うべきなのか迷う。けれど、隠しても良いことはない。仕事では変にごまかすよりも、素直に相手に告げるほうがうまくいくという経験則を、実央は持っていた。
「実は、この民宿はもともと祖母が経営していたんです。私はほんの数日前にここに来たばかりで」
「後を継がれたんですね。娘もあなたみたいに、しっかりしてくれると安心なんだけど」
綾女は小さく笑うと、じっとティーカップの水面を見る。
「私、息子と娘がいるんですけどね。この四月に娘も大学に入って、息子は就職して、一息ついたところなの」
「それでご家族が、ご旅行をプレゼントされたんですね」
「ええ。旅行というか、好きなことをしてきなよって言われて」
実央は綾女の耳元を見て、頷く。目を合わせすぎないほうが、相手も話さないといけないというプレッシャーを感じにくいのだ。
「若い時に結婚して、ずっと家族のために家事や育児をしていたから、さぁ好きなことをしなさいと言われても――困っちゃったのよね」
綾女の言葉に、実央は窓際の本へと目を移した。それに気づいた彼女は、眉をハの字に形を変える。
「それも、駅構内の本屋で適当に買ったのよ。入り口すぐの台に『今一番読んで欲しい本』なんてPOPが出てたから。おかげで、宿でのんびりできているわ」
その言葉は、自分の意志で選んだわけではないということを示していた。
(家族のことを最優先してきたから、自分の選択を捨て去ってきたのかもしれない)
実央は母親というものになったことがないが、自分の親を思うと、なんだかわかる気がした。いつだって母は実央や姉、父のやりたいこと、食べたいこと、したいことを優先していたのだ。
「のんびりしすぎて、なんだかこれでいいのか心配になっちゃうくらいよ」
「目的のない時間って、勇気が必要なんですよね」
頷きながら実央は笑ってそう返した。綾女はティーカップをちゃぶ台に戻すと、本を窓際に取りに行く。
「お茶もあるし、今度はここで読もうかしら」
「では座椅子を移動しましょうか」
「いいわいいわ。そのくらい自分でやるから。お夕飯の時間になったら教えてくださいね」
柔らかな口調で、けれどこれから自分の時間を一人で楽しむ、と決意したような言葉だった。
実央は挨拶をし、部屋を出る。
(好きなことをしてきな、かぁ)
はたして自分は、そう言われたときに何をするだろうか。
答えがでないまま、実央は台所へと足を運んだ。
台所では、オガミが米を研ぎ終えたところだった。
「ハーブティ、おいしいって言ってました」
「だろうな。あれはリラックスとリフレッシュに効果がある」
リラックスとリフレッシュだなんて、たいていのものに当てはまりそうではあるが。
そんなことを口にして、不愉快な気分にさせたら申し訳ないから、言わないが。
「オガミさんって、ハーブにも詳しいんですね」
「山のものなら、たいていのことは知ってるさ」
オガミはフフンと音が聞こえそうな顔をする。
「裏の畑ですけど」
「山の一部だろ」
「そんな換算でいいんですか」
二人で顔を見合わせて、くしゃりと笑った。
「あれ、もしかしてオガミさんって山生まれなんですか」
実央の言葉に、彼は一瞬目を見開いて実央を見た。そうして再び笑みを浮かべる。




