二 初めての客 01
じりりと甲高い音が民宿ひとよに鳴り響いた。
「えっ、何?!」
「電話だよ。帳場のとこの黒いやつ」
オガミが台所からかけてくれた声に、実央は手にしていた掃除機を床に置いて慌てて玄関脇の帳場へと向かった。
(これ、絵文字と同じ!)
受話器を持ち上げると、黒電話の本体につながる線がぐにゃりと伸びた。
「お待たせいたしました。民宿ひとよでございます」
会社員として電話に出ていた癖で、受話器を持つと自然に出るフレーズが口をついた。会社名が民宿ひとよになっただけだ。
『すみません。今夜泊まれますか?』
電話の先は、女性の声だった。
どことなく不安そうな響きがある、息の浅い声音。
「今夜、ですね。空いておりますので大丈夫です。お名前は――」
電話の横には宿の予約帳が置かれている。その一ページ目には、確認すべき内容が箇条書きとしてリスト化されていた。祖母が作ったものだ。
実央はそれを一つずつ確認し、メモに書いていく。最後に宿までのルートを説明する。自家用車かバスで来るしかないこの場所は、最寄りのターミナル駅からタクシーに乗ると、想定以上の金額になってしまう。その旨もきちんと説明をしておく必要があった。
電話を切ると、予約帳本文に情報を転記していく。これまでは祖母がカタカナで書いた文字が並んでいたが、実央は予約時に確認した漢字を丁寧に書き写していった。
これとは別に、当日本人が到着したときに記載してもらう宿帳もある。そちらは、法律で義務付けられている項目が並んでいた。
記載を終えると、実央は立ち上がり台所へ向かう。
「オガミさん、予約が入りました! 今夜! 今夜ですって! 大丈夫ですか?」
「落ち着け。今ここで俺が大丈夫じゃないと言っても、予約受けちゃってるだろ」
「……あ」
初めての予約に浮かれてしまっていた。予約が入る前は「私にできるだろうか」「お客様にどう対応すればいいかな」なんて不安になって、スマートフォンで『民宿の心得』なんてサイトを見たりもしていたのに。
「安心しろ。ここはたいてい前日や当日に予約が入る」
オガミは棚からインスタントコーヒーを出して、二人分お湯を注ぐ。
「そうなんですか。それじゃお祖母ちゃんは大変だったでしょうね」
「この宿はそういうとこなんだ。まぁすぐに慣れるさ。少し休憩したら、今夜の客の情報共有だけ頼むな」
カウンターの丸椅子に座り、出されたコーヒーを口にする。
大きく開け放たれた窓の向こうには、雲一つない青空。五月を目前にして、これが五月晴れか、などと思ってしまう。
「インスタントコーヒーもあるんですね。なんだか、勝手に豆から挽いてると思ってました」
「楽だしうまいだろ。一応豆もあるけど、ここはコーヒー専門店じゃないから、種類も用意してないし、それはお客様用」
言われてみれば、確かにこの民宿に本格的なコーヒーの味を求めてくる人はいないだろう。お湯を注ぐだけで飲めるインスタントコーヒーは、手軽だしそれなりにおいしい。正直、実央にとって飲み比べないとインスタントコーヒーかドリップコーヒーかもわからないだろう。――飲み比べても、言われないとわからない可能性が高いが。
「大事なのは、何を求めているかだよ」
笑いながらそう口にするオガミの言葉は、まるで謎かけのようだ。首を傾げた実央に、彼はピンク色の髪を風に揺らせて笑った。
「それで、今夜のお客様はどんな方?」
実央は手元の予約帳を開く。祖母が確認すべき項目としてリストアップしていたものを、読み上げていった。名前、性別、年代、人数。そして――
「アレルギー他、食べられないものはないそうです。お食事に関してのご希望は特にありませんでした」
「それはどんな風に言ってた?」
「えぇと、なんでもいいです、と。そういうことじゃなくて?」
「いや、それを知りたかった。なんでもいい、ね」
郷土料理を希望したり、山の幸を希望したりということもあるのだろうか。料理長――一人しかいないが――のお任せメニューなんてものを、広告にしたらわかりやすいかもしれない。
(あれ、そういえばここって、どこかに広告出してるのかな)
祖母がネット予約のサイトを利用しているとは思えなかった。
もしかしたら、地元に看板広告でもだしているのだろうか。だとしたら、その広告予算を工面しないとならない。それだって、継続するならば費用対効果を考えて、と考えたところで実央は思考を止めた。仕事を辞めたというのに、自然に仕事をしていたときのような考えになってしまう。
(まぁでも、予算は大事よね。今のところ、予約客は一人だし。いくら賃料がかからない場所だからって、水道光熱費に食費は最低限かかるわけだしね)
「オガミさん、ひとよって皆さん何を見て予約をするんでしょう」
まずは現状を把握することからだ。
祖母と一緒に民宿をやっていたのであれば、何かを知っているかもしれない。
「うーん。昔はやよいさんも、新聞広告とか出したこともあるみたいだけどね」
「新聞広告! 今は新聞をとってる人も少ないし、やめちゃったんでしょうか」
「俺が働くようになった頃から、出さなくなったよ」
それは、オガミの人件費のせいだろうか。いや、給料は支払っていないと言っていた。
「もともと大人数を受け入れるような場所でもないしね。やよいさんの体の負担を考えても、広告はいらないと思ったんじゃないかな」
「確かに。じゃあ今は、どうやってここを知って連絡が来るんだろう」
ネット予約全盛のこの時代、電話でのみの予約だなんて、若い人からの予約は入らないだろう。今日明日でどうしても泊まりたいという奇特な人だけが予約する? だとしたら、そうした人たちの間でクチコミを呼んでいるのかもしれない。
「ここに来るといい人に、自然と情報が届くんだ。不思議だね」
オガミはそう言ってくすくすと笑う。
「そんな摩訶不思議あります?」
「でもそう考えると、ちょっと素敵だろ」
実央は彼の後ろに広がる緑の山を見つめた。なんだかオガミのよくわからない言葉を、そのまま受け入れてしまいそうになる。
(お客様に聞いてみればいいか)
オガミはああ言ったが、きっとふらり旅ネットワークでもあって、そこで情報共有でもされているのだろう。
宿泊客に、どこでこの宿を知ったかを尋ねれば解決する。
実央はそう結論付けて、掃除の続きを始めることにした。
***
三時を過ぎた頃に、宿の引き戸が音を立てた。
「ごめんください。予約してた細野綾女です」
オガミが食材とともに山で摘んできた山吹が、細い枝をしなだれ下げて帳場の机に飾られている。明るい黄色の花弁と緑色が、玄関を華やかに見せていた。
「お待ちしておりました。女将の実央と申します。お荷物はこちらに、早速ですが宿帳の記載をお願いいたします」
わずか一泊の荷物だ。大き目のトートバッグ一つを実央に渡すと、綾女は縦書きの宿帳に小さな文字で連絡先を記載していく。
「千葉からでは、大変だったでしょう」
記入内容に漏れがないかを確認すると、実央は顔を上げて綾女に笑いかけた。目の前にいる女性は、予約時の話だと五十前半。だが、それ以上の年齢に見えるくらい疲れていた。後ろに一つにまとめている黒髪には、いくつもの白いものが混ざっている。目の下にクマがあるというようなわかりやすい疲労感はないが、目元に深く刻まれたしわや、大きくいくつも主張しているシミが、彼女の年齢を上に見せているのかもしれない。
「ええ。朝お電話をしてから支度をして、すぐに出てきたのにこの時間です」
「バスのタイミングもありますしね」
民宿ひとよへのバスは一時間に一本と、この地域にしては少なくはない本数ではあるが、逆にいえば、タイミングを逸すると一時間は待たないといけなくなる。綾女もそうして四十分以上を駅前のカフェで過ごしてきたと笑った。
ありがたいことに、ターミナル駅の周辺はかなり栄えているので、時間をつぶすこと自体は難しくない。
「夫と子ども達がねぇ、ゆっくりしてきなさいって休暇をくれたの」
部屋へと案内する廊下で、綾女はそう教えてくれる。
「こちらの宿は、どこでお知りになったんですか」
「どこで……。そういえばどこだったかしら。メモが出てきたのよね」




