一 祖母の宿 03
左右の手を上下にパン、と軽くたたき合わせると、彼の手の中から、スッとした香りがほのかに立ち上がる。オガミの手のひらには、二センチないくらいの小さな緑の枝先があった。
「木の芽。これを炊き込みご飯に乗せたら完成」
炊き込みご飯の上に置かれた木の芽は、温かい湯気に乗りさわやかな香りを立ち昇らせる。
「木の芽ってなんの木なんですか?」
「山椒だよ。春先に伸びた柔らかい芽をそう呼ぶんだ。食べられるから、ご飯と一緒に口にしてみて」
そういわれれば、たまにこういう葉を見たことがあったな、と思い出す。ただの飾りだと思って口にしたことはなかったから、今日初めて食べることになる。
「いただきます」
実央が両手を合わせてそう口にするのを見届けたオガミも、同じように「いただきます」と少し低い声で言う。
豆腐と蕪の葉の味噌汁は、実央の腹の中に落ちると思わずため息を呼び込んだ。
「お祖母ちゃんの、お味噌だ」
「あれ、よくわかったね。これはやよいさんが一昨年仕込んだ味噌だよ」
「一昨年……。オガミさんはいつからここに?」
実央の問いに、オガミは笑みを浮かべるとご飯を口に運ぶ。
(あ、はぐらかされた)
答える気がない。そう空気を読んだ実央は、お茶碗を持ち上げる。炊き込みご飯なんて、いつぶりだろうか。そう考えながら、オガミに続くように箸を動かした。
筍のはりんとした歯ごたえと、肉厚の椎茸のぎゅいんとした食感。それに油揚げから染み出る出汁が、薄く色づいたご飯とともに口の中に広がる。
(おいしい)
思わず頬が緩む。
二口、三口と箸を進めると、おかずが手付かずだったことを思い出した。
「炊き込みご飯って、これだけでも食べられちゃう」
「それはわかるな。でも、ちゃんとおかずも食べないと」
厚揚げを箸で割る。しっかりと角のついた厚揚げも、二等分に割られると中からぷるんと柔らかな木綿肌を見せた。湯気が立ち昇る。
「熱っ」
木綿豆腐が熱をため込んでいたらしい。口の中でハフハフと言わせていると、オガミが水を出してくれた。
「猫舌にはきつかったかも。少し冷ましてから食べな」
口内で少し冷ましてどうにか飲み込むと、渡されたコップの水を一気に飲み干す。涙目になった実央を見て、オガミは目を細めて笑った。
「そういうところ、やよいさんとそっくりだね」
「お祖母ちゃんも猫舌だったっけ」
「実央さんほどじゃなかったけどね。漬物で冷やしたら」
小鉢の一つは、蕪の浅漬けだった。冷蔵庫で冷やされていたであろうそれに、箸をつける。
「んっ。これ少し辛い――胡椒?」
「さっぱりするでしょ」
「浅漬けに胡椒って初めてかも」
白胡椒の香りが鼻を抜けた。木の芽の山椒の香りとはまた違う、少しだけむずむずとさせる香りが、蕪のやわらかな歯ごたえに不思議と合っている。
「そろそろ冷めたかな」
湯気が途切れてきたのを確認し、実央は改めて厚揚げを口に頬張った。カリ、と厚揚げの焼いた部分が歯に当たると、それだけで口の中にざりざりとした焦げ目の味を感じる。お揚げ部分の歯ごたえに、ふきのとうの味噌の甘くも苦い味が混ざり合う。それを木綿豆腐がまるで包み込むように、中和させた。
「味噌田楽の厚揚げバージョンかなって思ったけど、全然違いますね」
「嚙み心地がいいんだ」
うんうん、と何度も首を縦に振ると、実央は一気に平らげてしまう。
最後に味噌汁の残りを飲み干す。お椀にかすかに残った麹の粒が、なんだか懐かしく感じた。
「指先が、あったかい」
四月も下旬とはいっても、民宿ひとよの辺りは山の中。空気はまだひんやりとしている。着こんでもどうにも指先が冷えると思っていたけれど、今は指先も、そして足のつま先も内臓も、どこもかしこもポッポとしていた。
「ごちそうさまでした」
米の一粒すら当然残さずに食べ切った実央を、オガミはにこにこと見ている。実央は二人分の食器を流しのたらいにどぼりと入れた。漆塗りのお椀だけは先に洗う。その横でオガミが湯を沸かすと、ほうじ茶の香りが広がった。
「食器を浸してる間に、お茶でもどうぞ」
オガミの言葉に、実央は再びカウンターに戻る。満腹のせいか、少しだけ眠くなってきていた。
「オガミさん。ご飯ありがとうございます。すごくおいしかった」
「それはよかった。山の恵みに感謝だね」
「ほとんどが、ここで採れたものなんですか?」
「山で採れるものは、恵みをもらってる。それ以外は、ふもとの商店と契約してて、配達してくれるんだ」
今日の献立でいえば、豆腐類がそうだろう。
「この宿の裏手少しばかりまでが、やよいさんの土地。この山は――俺の庭だよ」
そう言って窓の外を見て目を細めるオガミに、実央は何故だか懐かしさを感じる。
いつか会ったことがあったのだろうか。けれど、二十年ほどはここに来ていない。彼の年齢を想定すると、会ったことはない筈だった。
実央の視線に気づいたらしいオガミが、「どうした?」と眉を上げる。誤魔化そうと思ったわけではないが、思わず
「オガミさんの髪の毛の色、なんでピンクなんですか」
なんて口をついて出てしまった。
(しまった)
髪の毛の色なんて、個人の自由だ。
今日初めて会った相手のファッションに口を出すなんて、踏み込みすぎたと後悔する。けれどオガミは気を悪くしたような顔は微塵もさせず、髪に指先を絡ませて笑った。
「山桜みたいできれいだろ?」
その瞳が、まるで深い山の洞穴の中のように真っ黒で、そして美しく感じる。
「うん。すごくきれい」
だからなのか。
実央はまるでつられるように笑う。その笑った瞳に、涙が浮かんだ。
「ごめんなさい。なんか……なんだろう。涙が」
オガミは実央の頭をくしゃりと撫でると、立ち上がり流しの前に立つ。水を一気に出すと、ザァザァと大きな音が台所の中に響いた。
(あ、泣いてもいいって言ってくれてるみたい)
どうして自分が泣いているのかもわからないけれど、それでも次から次へと止まらない涙に、実央はついに嗚咽をあげる。けれどそれはすべて、流し台に落ちる水の束にかき消されていった。
しばらくそうしていると、流しの水が止まる。
「オガミさん、ありがとうございます」
「うん? 実央さんは今日到着したばかりだからね。洗い物は俺の仕事」
オガミはそう言ってほうじ茶を注ぎ足した。
「ご飯も全部おいしかったです――私、久しぶりにちゃんとご飯食べたかも」
「ほんと? じゃあ今夜から実央さんは、毎日たっぷり食べないとね」
布巾で手を拭くと、オガミは腰に巻いていたエプロンを外す。
(……ちょっと、色っぽい)
そんな目で見るつもりは毛頭ないが、伏目がちになった瞳と、その先でエプロンを外す仕草に、実央はドキドキとしてしまった。
「実央さん。明日の体が楽しみだね」
「体が?」
「今日食べたものが、明日の自分を作るんだよ」
「お祖母ちゃんの」
「そう。やよいさんの口癖」
オガミは実央の隣に再び座ると、ほうじ茶を口にする。
「おなか一杯食べて、ゆっくり寝て。そうやってしばらく過ごすといいよ」
「そんな生活、社会人になってからしてないかも」
入社してからずっと、自分ができることを必死でやってきた。
営業の話を聞き、提案し、顧客の声に耳を傾け、制作物に反映させる。それはとてもやりがいがあって楽しかった。楽しかったけれど、どこかでだんだんと、しんどくなってきていることを感じてもいた。
ここに来ようと、思ったのはほとんど突発的な衝動だった。
けれど。
「ゆっくり、する」
「まぁ、お客さんが泊まりに来たらそれなりに忙しいだろうけどね」
オガミはそう言って、再び笑った。




