一 祖母の宿 02
「あら、いいじゃない」
最初にそう言ったのは、姉だった。
「そうねぇ。実央はなんだか最近忙しそうだったし、仕事辞めて民宿っていうのも悪くないんじゃないかしら」
そのまま言葉を受け継ぐのは母。
最近、実央との電話もあまり繋がらず、会話をしても疲弊しきっているのを気にしていたのだろう。
「しかし大丈夫か? 民宿っていうのは接客業だろ? 変な客が来たりしたら、実央一人で」
「お袋も一人でやってた宿だ。問題ないんじゃないかな」
心配するのは父だけだった。
どうやら穂高の家系は楽天的なのかもしれない。
「まぁ、やってみて駄目なら熱海に戻っていらっしゃい。近所の人に、挨拶はしっかりするのよ」
母はそう言うと、祖母の遺品の中から民宿ひとよの鍵を実央に手渡した。
何故だか強烈にあの場所に行かなければならない。そういう思いが浮かんでいた実央の手の中に落ちてきた鍵は、小さい銀色のよくあるものだった。
「川崎の家はどうするの?」
母は尋ねながら、実央の手を両手で握る。握られた手の中で、鍵は実央の体温で温まっていった。
「ちょうど二か月後が更新月だし、解約しようかな。処分しきれない荷物は、熱海に送ってもいい?」
たいした荷物もないが、いきなり多くの荷物を民宿に運び込むのも気が引けた。
「それがいいわよ。実際に民宿運営してみて、無理だと思ったらすぐに撤収できる身軽さが大事よ」
姉がからからと笑いながら言う。
そういえばこの姉は、昔からトライアンドエラーの人間だった。そんな姉の下で、地道にやれることをやっていくタイプの実央は、ほんの少し彼女の奔放さと前向きさに羨ましさを抱いていた。
(少しだけ、お姉ちゃんみたいになれたかも)
仕事は堅実。
やると決めたらやり遂げる。
実央はそうした仕事ぶりを評価され、そしてその評価を維持するために走り続けてきた。そこに不満はないつもりだった。
ただ、それに少し疲れていたのも真実だ。
「会社はどうするんだ」
父の言葉に、実央は少しだけ躊躇する。
「急に辞めたら、迷惑がかかるんじゃないか?」
「やだお父さんったら! そんなの気にしてたら、会社なんて辞められないわよ」
けれど、またも実央を救ったのは、姉の言葉だった。
「会社は社員の幸せなんて何の保障もしてくれないんだから、実央はさっさと辞表を出せばいいわよ。お母さんに聞いたけど、相当忙しかったんでしょ」
「――確かにな。きちんと引き継ぎさえすれば、問題ないだろう」
実央の働き方については、父親も気にしていたのだろうか。
姉の言葉にあっさりと同意した。
「ちょうど案件も一つ終わったし、有給休暇も二か月分くらいあるから、うまいこと調整してみる」
「なにそれ! 二か月ってつまり四十日くらい? ほとんど有給休暇使ってなかったってことじゃないの。やめなやめな、そんな会社」
こうして皆に背中を押され、実央はひと月とちょっとの間に退職届を出し、有給休暇の消化に入ったのだった。
川崎の家はあまり荷物もなかったので、必要最低限を一度実家に避難させ、今月分の家賃の振り込みをもって解約となった。ちょうど更新月だったのは、奇妙な縁なのかもしれない。妙な具合にとんとん拍子で進み、祖母の四十九日の法要も終えると、実央は川崎の家を不動産屋に引き渡し、その足で民宿ひとよまで辿り着いたのだった。
「あれ、あいてる……?」
かかっている筈の鍵が開いている玄関に警戒をし、そろりと中に入る。
そうして廊下の突き当りにある台所へと足を踏み入れたところで、オガミに声をかけられたのだった。
――実央は玄関脇にある帳場に置かれていた宿の予約帳を、ぱらりとめくる。
「あ、二週間前にも予約が入ってたんだ」
実央が生まれるずっと前――母が五歳の頃に、祖母やよいは祖父と死別した。その後一人で民宿を切り盛りしていた祖母のもとに、従業員がいたという話は聞いた覚えがない。
「っていうか、オガミさんの見た目からして、彼がここにいるのもせいぜい数年くらい? 長くても十年とかだよね」
それでも、祖母が自分の死期を悟ったのか、数か月前に熱海にある実央の実家に滞在している間は、少なくとも彼が民宿を切り盛りしていたのだろう。
「その前にも、何人か名前が書かれてる」
宿の予約帳にはその間の来客の名前が、それまでと同じようにカタカナで記載されていた。――大正生まれの祖母は、漢字が苦手だった。
「実央さん、夕飯できました。今日はお客さんいないから、二人で食べよう」
不意に、出汁と米の炊けた甘い匂いがする。同時に、オガミが台所から顔を出して声をかけた。
何かに集中していると、周囲の状況が見えなくなる実央の癖が出ていたようだ。顔を上げ、声のするほうへと目を向ける。さほど大きくないこの民宿は、玄関にある帳場にいる実央から台所にいるオガミの顔が、はっきりと見えた。
(あのピンクの髪一つとっても胡散臭いのに、そう思えないのが不思議よね)
オガミの掛け声に「はぁい」とのんきに返事をすると、実央は宿の予約帳を片付けて台所へと向かった。
台所のカウンターに、丸椅子が二つ並んでいた。
「今日はお客様がいないからね。ゆっくり食事をしよう」
カウンターの向こう側、調理場に置かれた土鍋の蓋を開けながら、オガミは目を細めて実央を見る。蓋が土鍋から離れた瞬間から、湯気とともに筍と出汁の香りがあふれ出た。
「わぁ……! 炊き込みご飯!」
思わずカウンターに身を乗り出し、土鍋の中を覗き込む。
「朝どれの筍だから、おいしいよ」
しゃもじでさくさくとご飯を切ると、お茶碗に盛り付けていく。おこげが目に入ると、実央の口元がむずむずと動いた。筍にお揚げ、椎茸の入るご飯は、醤油の色がうっすらと付いていて、今すぐに口に運びたくなる。盛り付けたお茶碗を受け取ると、実央はカウンターに並べられたトレイに一つずつ置いていった。
「ご飯は偉いから左側、と」
小さく口をついたその言葉に、オガミが実央を見る。それに気が付いた実央は、少しだけ気まずそうな表情を浮かべて笑った。
「つい、口にしちゃうんです。昔逆に置いたときに、お祖母ちゃ――祖母が教えてくれました」
いつも左右がわからなくなるので、無意識に口にして配膳している。
「お祖母ちゃん、でいいよ」
今度はお鍋から味噌汁をよそい、オガミはそのままトレイに汁椀を置いた。木彫りに漆を塗った椀は、この地域の郷土仕事だ。
「じゃぁ……お言葉に甘えて」
かすかにうなずき、実央は調理台に置かれた皿に目をやる。オガミは彼女にそれらを手渡した。
「これ美味しそう! なんだろう……厚揚げですか?」
「そう。厚揚げのふきのとう味噌焼き」
表面を軽く焼き付けた厚揚げに、ふきのとうの味噌を塗りつけ、炙ったものだという。それを一皿に二つ。輪切りのネギがかけられている。
「あとこっちの小鉢も、持ってって」
カウンターの上に置かれた漬物小鉢をトレイに移動すると、夕飯が完成した。
これで食べるだけ、と座った実央の目の前に、オガミの手が伸びる。
「オガミさん?」
「最後の仕上げ」




