一 祖母の宿 01
目の前に立つ男は、野菜や山菜を山盛りにしたカゴを両手に抱え込み、笑った。
「あれ、やよいさんのお孫さん?」
男のピンク色の短い髪が、彼の後ろの窓から入る風でふわりと浮く。
見た感じ、三十歳を少し過ぎたくらいだろうか。二重のくりんとした瞳が、少し幼い印象をもたらすが、そんな顔がついている体は妙にがっしりとしている。
「祖母の――知り合いですか」
朝倉実央は、男の言葉に思わず口を開いた。あまりにも顔と体がちぐはぐな印象の彼が、けれどこの祖母が残した民宿の台所に、妙に馴染んでいたからかもしれない。作務衣から覗く胸元の筋肉に、目をやりすぎないように気を付けた。
「俺はオガミ。やよいさんに助けてもらってから、ずっとここで働いています」
手にしていたカゴを台所の調理台に置くと、オガミと名乗った男は少しだけ眉を下げて言葉を続けた。
「この度は、お悔やみ申し上げます。俺はここを長く離れられないので、葬儀には行けませんでしたが」
オガミの言葉に、実央は慌てて頭を下げる。そうして、彼が勧めてくれた丸椅子に腰を下ろすと、二十年ぶりに入ったこの台所をぐるりと見た。
先月。実央の母方の祖母、穂高やよいは百一歳を目前に控えた誕生日前日に、天寿を全うした。大往生と言っていいだろう。
彼女の営んでいた民宿が、ここ『民宿ひとよ』だ。
実央は自宅のある川崎から、電車とバスを乗り継ぎ約三時間半をかけてここまで来た。
(昔となんにも変わってない)
厨房というには小さく、台所というには少々広めのこの場所に、実央は八歳の頃まではよく顔を出していた。
大小様々なサイズの鍋やフライパンが壁にかかり、几帳面に重ねられた皿たちは、細かな虫よけの網のついた木枠の棚に収まっている。シンクの下には扉がなく、ボウルやザルが規則正しく置かれていた。
「オガミさん、でしたっけ。私は朝倉実央。この民宿を継ごうかと思って、仕事を辞めてきました」
「仕事を辞めて! それは英断だねぇ。じゃぁ、俺の新しい雇用主ってことかな」
その言葉に、実央はわずかに視線を泳がせる。
祖母の民宿に、従業員がいたという話は聞いていない。自分一人であれば、どうにか食べていけるかもと思っていたが、給料を払う相手がいるとなると、話が変わってくる。
オガミは目を細めてそんな彼女を見ると、二人を隔てるカウンター越しに実央の鼻先でくるくると指先を回した。
「お金の心配をしてるんだよね。大丈夫。俺は給料を貰ってないから」
「え、それは――もしかして民宿ひとよはブラック企業……?」
「住み込みだし、食費を全部出してもらってる。必要なものは、都度やよいさんが買ってくれたし」
必要なものは、都度おばあちゃんが? 実央はオガミの言葉に首を傾げた。そんな彼女に、オガミは人懐こい笑みを浮かべて笑いかける。
「俺、やよいさんのツバメだったから」
「ツバッ……?!」
「冗談だって。俺が欲しいものは、やよいさんがくれたからね。恩義を感じてここで働いてるんだ。主に料理担当」
中腰でカウンターに頬杖をついていた彼は、腰を伸ばすとやかんに水を注ぎ、火にかけた。アルマイトでできた大きなそれは、実央が小さい頃から見慣れたものだ。
「コーヒー、紅茶、日本茶、ハーブティ、何を飲む?」
オガミはそう言って、竹で編まれたかごを棚から取り出す。中を見れば、それらの茶葉や豆がとりどり詰め込まれている。
「紅茶で」
「だったらこれだ」
彼が取り出したのは、実央にも見覚えのある箱だった。
「イギリス人の家庭には、たいていあるらしいよ」
実央の伯父、やよいにとっては長男にあたる穂高海正は、長い海外赴任の後にイギリスに移住している。実央の実家にも定期的にイギリスから紅茶が届いているが、それと同じものが祖母の元にも届いていたのだろう。
白い陶磁器のシンプルなティーカップに、牛乳とともに淹れられたそれがカウンターに置かれる。
「オガミさんは、牛乳が先なんですね」
「なんの話?」
「ミルクティの作り方です。イギリスだと一大論争になるらしいですよ。牛乳を先にカップに注ぐか、後に注ぐか」
カウンターの向こう側から、ティースプーンでカップを混ぜるオガミは、実央の言葉を聞いて小さく笑った。
「えぇと、キノコタケノコ論争、だっけ。日本では」
「それ! イギリス版キノコタケノコ論争ですね」
はいどうぞ、と攪拌を終えたカップを実央に差し出す。高温で淹れた筈の紅茶は、牛乳と攪拌の両輪で適度に冷めていた。
「私猫舌だから、牛乳が入ってると冷めていい感じです」
「うん、知ってる」
「え?」
顔を上げてオガミを見れば、彼は眉を軽く上げて笑った。
「それで、実央さんはここの女将になるってことだよね」
オガミに言われて、話の本筋を思い出す。
実央は椅子から立ち上がると口を真一文字に引き結び、オガミに頭を下げた。
「私には今、ここしかないんです。どうぞよろしくお願いします」
ドッドッドッ、と自分の心臓の音が耳の奥から響く。
祖母が亡くなり、誰もいないと思っていたこの宿で働く男。
けれど実央は、どうしてか彼に許可をとらないといけない気がしてしまった。
「うん。俺からも、よろしく。頭を上げてよ」
下げた頭の上から、軽やかな声が聞こえる。
ゆっくりと体を引き起こすと、そこにはオガミの大きくて骨ばった手が、差し出されていた。
***
実央は私立の美大を卒業後、新橋にある小規模のハウスメーカーに社内デザイナーとして勤務していた。
二年前にチーフになったが、それとともに仕事量と幅も増えていき、休日返上で働く日々。土曜の朝に住宅展示会場から「すぐに修正して」と連絡が来たり、美しい景色の見えるダイニングでの食事風景を訴求するチラシを作りながら、自分は食事を抜いていたり、だんだんと疲弊していった。
そんな実央が、祖母の葬儀で久しぶりに会った家族の顔を見て、ぷつりと何かが切れたのは、自然なことだったのかもしれない。
「さて、お袋が残した民宿だけど」
一時帰国した伯父が、葬儀のあとの親族集合でやにわに口にした。
広島で子育てをしている姉は、夫にまだ長距離移動が難しい子どもたちを預けて戻ってきている。熱海に住む実央の両親は揃って座っていた。
「あそこ、行きにくいのよねぇ。車でも熱海からだとなかなか」
「お義母さんの民宿の周辺も、敷地なんだっけ」
「そうよ。山全部じゃないのが、救いかもしれないわ」
少し山に入った部分あたりまでが、民宿ひとよの敷地だという。
「私は広島に住んでるし、たぶん栄ちゃんも異動しても大阪本社だと思うのよね」
栄ちゃんとは、姉の夫のことだ。
実央が一人暮らししている場所は川崎。実家は熱海で、祖母の住んでいた民宿は長野にあった。気軽に行ける場所ではなく、年とともに足が遠のいたそこには、何か強い思い入れがあったわけではない。けれど、実央はこの話が出てからずっと、胸の中がざわざわと震えていた。まるで木々が嵐の前の風で、その枝々を動かすように。
「あの!」
自分が思っているよりも大きな声が出た。手を軽く上げる。まるで発表会のようだ。
軽い調子で話をしていた皆が、ぴたりと口を閉ざして実央を見る。
視線を感じ、実央は一瞬だけ息をつめた。けれどここにいるのは全員、気安い家族だ。
会議で意見を出すときのような緊張は、必要なかった。
「私、お祖母ちゃんの跡を継いでもいいかな」
口にしたら、大きな鼓動が一気に消えていった気がする。小さく上げた手を、ゆるりと下げて皆を見た。
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