八 取り残された私 02
「もしかして、お鍋の中ですか」
覗き込めば、白く濁った汁の中には、人参やレンコン、マイタケが見える。
「これは酒粕汁。中に焼いた岩魚が入ってるよ。良い出汁が出るし、身も食べれて旨いんだ」
それだけで白米が食べられそうだと思いながら、実央は冷蔵庫の中にあった肉の塊を思い出す。
「あれ、今日のメインはお肉ですか?」
「見つけちゃった? 良い牛肉が入ったんだ」
目を細めたオガミは、風呂場のある廊下を見遣る。
「今日のお客様、どうも心の奥から冷えてきてるみたいだから」
オガミはそう言って、今度は自然薯をすりおろし始めた。空気に触れてわずかに黄色味を帯びていくそれに、少しずつ出汁を加えていく。
「さて、実央さんはお風呂上がりのお客様に、これをお出しして」
「これはなんですか」
自分でも、英語の教科書のような質問をしてしまった、なんて思う。実央の言葉に、オガミも笑いをこらえた表情を浮かべた。
「ふふ。実央さんの言い方が面白くて」
ついに我慢ができなくなったのか。笑みを零しながら、オガミは小鍋から同じ色の液体をマグカップに掬い入れた。
「ホットリンゴ。そこまで熱くないから、すぐに飲めると思う」
手渡されたそれは、少しだけ湯気が立っている。猫舌の実央は、おそるおそるカップの縁に唇をつけた。
「――ん、甘くておいしい」
リンゴを絞ったジュースに、シナモンやオレンジ、他にもいくつかのスパイスとはちみつをたっぷり入れて煮込んだそれは、実央が気付かないうちに冷えていた内臓を温めてくれる。
「お客様がそれを飲んで一息ついたころ、食事の支度が終わる予定だよ」
オガミの手元の自然薯が見事にねばねばにとろけているのを見て、今夜の夕飯を想像する。
(牛肉と、自然薯と、ゴボウ?)
調理台に乗る食材に、実央は小首をかしげながらも、知世の部屋にカップを持って声をかけに行った。
知世は目の前に並ぶ食事に、思わず唾を飲み込んだ。
ごくりと喉を通った音が耳に響く。
(民宿だし、食堂で食事っていうから、全然期待してなかったけど)
大きなトレイに乗せられた、主菜と副菜に目を奪われる。
(皆が写真を見せてくれたような、派手な感じじゃないけど)
大きなプレートの真ん中にちょこんと置かれた食材にソースがかかっているようなものだったり、三段のトレイに乗ったスイーツだったり、そうしたわかりやすい高級さなどは皆無だ。けれど、主菜に副菜、それに漆塗りの大きな汁椀に色鮮やかな小鉢。そして極め付きはふっくらとしていて光を反射している白米。それらは、同級生たちのSNSにあがっていた、豪奢な食事にも一切引けを取らない。
(来てよかったかも)
先ほど貰った温かいリンゴジュースもおいしかった。知世はほんの十数分前を思い出す。甘さと酸味に加えて、シナモンの香りが鼻をくすぐり、癖になりそうだった。
「いただきます」
最初に目に入ってきたのは、主菜でも副菜でもなく、オレンジ色のきれいな花だった。いや、正しくは花を模した人参。
「きれい」
小鉢を手にとり、箸の先端でつつく。薄く削がれた人参を、まるでバラの花のようにくるりと重ねてあった。人参を固定するためだろうか。マッシュポテトの上にその花はあるが、それがまるで雪に咲く花のように見えて美しい。周囲には半透明のジュレがいくつか落とされてあって、それがまるで水滴のように人参のバラを瑞々しく見せていた。
そっとその一枚を引き抜き、ジュレとマッシュポテトとともに口に運ぶ。生の人参なのにやわらかく、かすかな塩味を感じる。ジュレからは出汁の味がした。それがマッシュポテトと馴染み、口の中で溶けていく。
「うわぁ、おいし……」
思わず漏れた自分の言葉に、知世はにんまりとした。
(おいしいものを、私は今食べてるんだ)
それはなんだか、特別なことのような気がする。
毎日真面目に働き、たいして出世もできないまま過ごしていた日々。
キラキラした生活とは無縁で、横浜駅から私鉄で三十分乗った先にある駅のワンルームマンションに、こだわりのインテリアもないまま住んでいた。
「もう結婚とかは期待してないけどね」
母親は知世にそう言った。
「子どもってほんと、いいものよ」
同級生はそう言った。
「夫と二人で働いてると、生活にゆとりができるのよね。これは夫が買ってくれたの」
結婚数年の同級生は、笑ってダイヤのネックレスを見せてくれた。
「俺今度、課長になるんだ」
同期の男性は、内示を受けた後にわざわざ報告にきた。
付き合っている人もいなければ、仕事も仕組み上女性は上にあがれない。
だからといって、一人でいることを満喫しているかと問われれば、何か楽しみがあったわけでもなかった。たまに映画を見に行って、帰りにチェーンのカフェでコーヒーとケーキを頼む。
(なんで私、それでいいと思ってたんだろう)
結婚するのもしないのも、自分の人生なのだから、母の期待なんてどうでもいい筈なのに。
子どもや夫がいようといまいと、それはその人の人生に於いての価値観なのだから、どうでもいい筈なのに。
仕事の昇進については――どうでもいいとは思えないけれど、それでも本当に嫌ならば転職すればいいのに。
知世は他の料理に目を向ける。
主菜は大きなプレートに白いとろろがかぶせられているものだった。
「これも、雪みたい」
とろろに箸をつぷりと沈み込ませれば、中にある肉の汁がじゅわりと広がった。白の中に赤茶の色が混ざりこむ。
「お肉……ステーキだ」
一口大にカットされた牛肉は、しっかりとした厚みがある。上にかかるとろろと一緒に口の中に入れると、しっかり塩味を利かせたステーキが、出汁入りとろろの味でまろやかになった。肉の脂がとろろに中和され、甘くなる。
「なにこれ。お肉はやわらかいし、とろろは甘いし」
口の中から肉が消え去ると、知世は続けて肉を口に運ぶ。それと一緒に白米も放り込んだ。
「やっぱりお肉にはご飯よね」
間に飲み込んだ汁は、魚の出汁がじっくりと出ている。
「この魚なんだろ。香ばしい」
魚とマイタケの出汁が混ざる酒粕汁は、内臓の奥の奥までしみ込んでいくような気がした。
風呂だけでも、温かい飲み物だけでも届き切らなかった、体の一番奥にぽとぽとと運びこまれていく。
体温がじんわりと上がっていくような気がした。指の端々、そして足先まで血液が巡り、瞼が開き視界が明るくなる感覚。知世はまるで、今まで自分が見ていたものと違う世界にきたかのような、そんな錯覚に囚われてしまう。
「ん? これはなんだ?」
副菜として出されているのは、蕎麦がきの胡桃餡かけだ。灰褐色の楕円形の塊は、ぷにぷにとしている。箸で引き割れば、少しもっちりとしているそれに餡を絡めて舌の上に乗せた。
嚙みつくと、口の中に蕎麦の香りが広がる。
「え、これお蕎麦なの?!」
蕎麦とともに、胡桃のカリカリとした食感と塩味が後を追うように続く。
「ご飯を食べてこんなにびっくりすることって、あるんだ」
最後に野沢菜でさっぱりさせると、お茶を飲み込んだ。
昼間にオガミが山から採ってきたマユミの枝を見ながら、実央は酒粕汁を飲み込む。
「その枝、何か気になるの?」
赤い実をつん、と指先で突つくと、オガミは笑う。煮込んで砕けた岩魚のかけらを口に含むと、じゅわりと魚の味と酒粕の味が混ざり合った。
「なんかかわいい実だなって思って」
「これはマユミって木だね」
「マユミ? 友達の名前みたい」
中学の友人で、大野真弓という名前の子がいる。あだなはマミちゃん。肩くらいの髪をふわふわと揺らせていた彼女を思い出した。
「漢字だと真実の真に、弓」
「えーっ。マミちゃんと一緒だ」
そういわれれば、彼女の瞳はこんなふうにくりんと丸かったかもしれない、なんて思ってしまう。
「この木は弓の材料として、昔は使われてたんだよ」
「へぇ」
弓だなんて言われても、いまいちピンとこない。
「それだけ強くて、しなやかな木ってこと」
「しなやかな木」
台所に飾られているマユミは、大き目のコップに無造作に挿されているだけだ。折れにくいこの木は、冬の雪を冠しても、しなやかにその枝を空に伸ばしているのだろう。
「あ、レンコン入ってる」
酒粕汁の具材を口に入れて、実央は思わず顔をほころばせた。
「ほくほく~」
味の染み込んだレンコンを口に入れて、そう呟く。脳の奥で、何かがじくりと動いた。
「うまい?」
「うん。おいしい」
煮込まれていても繊維のしっかり残った噛み心地に、実央は咀嚼を繰り返す。
歯を噛みしめるたびに、ゆらゆらと記憶がよみがえってくる。
(ほくほく~、ってお祖母ちゃんと一緒に)
レンコンの天ぷらを食べたとき。
ジャガイモを揚げたものを食べたとき。
いつも祖母と一緒にそう口にしては、はふはふと口を開けて冷ましていた。
そのとき、料理をしていたのは誰?
一緒に笑っていたのは?
「あの、すみません」
実央は口内のレンコンを慌てて飲み込む。声の主は当然、知世だ。
「さっきの、お風呂上りにいただいたリンゴのジュース。もう一度いただくことはできますか?」
「ああ、もちろんですよ。実央さん、マグカップを」
オガミがすぐに立ち上がり、小鍋に火をかける。どうやら作り置き分があるらしい。
温まったそれをマグカップに注ぐと、知世の前に立つ。
「はい、どうぞ。少し熱いので、気を付けてくださいね」
両手をそっと包み込むようにして、知世に手渡す。
「あ……、ありがとうございます」
知世は顔を赤くしてオガミを見上げると、急いで部屋へと戻っていった。
「ねぇ実央さん。お客様、顔が急に赤くなったけど、体調悪いのかな」
二人のやり取りを見ていた実央は、苦笑いを浮かべ、両肩をすくめる。
「オガミさんは、自分の顔がいいってことを、自覚したほうがいいですよ」
明日の朝7:10の更新で完結予定です




