八 取り残された私 03
「そりゃ神様だからね、顔はいいと思うけど」
あ、自覚はあったんだ。
そんなことを思うが、顔がいいことを理解しているのと、その作用を理解しているのは、きっと別なのだろう。
「オガミさん。人間のことわかってると思ったけど、わかってないのかもしれないなぁ」
「俺は神の中でもわかってる方だと、思ってるんだけど」
納得がいかないのか、実央の言葉にオガミは少しだけ拗ねたような声を上げた。
***
寒さに目が覚めた。
ここのところ随分と冷えてきていたが、昨夜雪が降ったせいなのか。
耳と頭がキンとなり、日の出前だというのに起きてしまう。
(もう少し、布団の中に)
そこまで考えて、それでも耳が冷たすぎて起きることを選ぶ。
(あー、寝るとき用の帽子が必要かも)
洋画なんかで見たことのあるナイトキャップは、もしかしたら寒い地域の必需品なのかもしれない。
のそのそと布団から出ると、石油ファンヒーターのスイッチを入れる。ピッと電子音を立てたあと、モーターの動きだす音がした。布団の横に放り出していた半纏を着て、もこもこの靴下に足を通す。
そうしている間にようやく火が付いたファンヒーターが、部屋の中を一気に温めていく。厚手のカーテンをめくれば、昨夜の雪は止んでいた。今の時期の日の出は六時半ごろ。空はまだ暗いが、それでも真夜中のような重さはない。
「五時半か」
日の出までは一時間あるが、目覚ましが鳴るまではあと三十分。とりあえず着替えて顔を洗い、コーヒーを飲みに台所に行こう。そう決めると、支度はあっという間に進んだ。
「あれ、今朝は早いねぇ」
すでに身支度を終えて台所にいたオガミは、実央の顔を見るなりインスタントコーヒーを淹れる。すでに沸かされてあったお湯を注いだマグカップを受け取る実央は、その一連の動きに片笑みを浮かべた。
「オガミさんって、私に甘いですよねぇ」
「実央さんは、俺の雇い主だから」
軽く眉をあげる彼の後ろの大きな窓には、台所の様子が映っている。その奥には、うす暗闇の畑と山、そして森のシルエットがうっすらと見えた。
ピンク色の髪が、窓ガラスに溶け込む。その髪の端に、小さく光るものが見えた。
「……あれ」
実央の目線を追うように、オガミも同じ方向に視線を運ぶ。そうして彼女が見ていたものに気付いて、小さく笑んだ。
「明けの明星――金星だね」
オガミの身長に見合った大きめの歩幅を二度繰り返すと、その窓をがちゃりとあける。明け方の冷たく澄んだ、キンとした空気が流れ込んできた。ガラス越しではなく、直接自分の目で見るその星に、実央はくぎ付けになる。
立ち上がり、オガミの立つ窓際へと駆け寄ると、三度瞬きを繰り返した。
「オガミさん」
小さく、震える声で名前を呼ぶ。
「はい、なんでしょう。実央ちゃん」
実央の脳裏にぶわりと蘇る過去の記憶の中に、オガミの顔が続く。それはまるで、本をぱらぱらと勢いよくめくったときに見える、動く漫画のようだった。
「私、オガミさんに星の名前を教えてもらいました」
「うん」
「お祖母ちゃんと一緒に食べたのは、オガミさんが作ってくれたご飯だ」
「うん」
「私が小さいときに転んで泣いたときに、おんぶしてくれたのもオガミさんだった」
「――実央ちゃんは、覚悟を決めたんだね」
オガミは実央の頬に手を添えて、瞳をじっと見つめる。
(吸い込まれそう)
彼の瞳はまるで深い山の洞穴の中のように真っ黒で、その中に宇宙につながる星が見えたような気がした。
「この民宿ひとよの住人として、ここの主として、生きていく覚悟ができた?」
やわらかな声が実央の脳裏に、まるで煮込んだ椎茸のようにじわじわと染み込んでいく。
少し前に母咲子が泊まりに来てから、ずっと考えていた。
自分がこの先どうするべきか。
私は今、何をしたいのか。
一朝一夕に決められることではない。
だから、毎日考えていた。
考えて考えて――。
そして、ようやく決めたのだ。
「オガミさん。私はここでお客様を迎え続けようと思う」
引き締めた口元の端が、少しだけ震えたかと思えば、すぐに頬が緩む。
険しい、厳しい顔をして宣言することではないと、実央は知っていた。
破顔した実央を、オガミは優しく引き寄せ抱きしめる。
「そう。じゃぁこれからもよろしくね」
背に触れる手は温かく、まるでそこから何か力が生まれてきそうな、そんな気がした。
「お客様がお目覚めだ。そろそろ朝食を作り始めるよ。実央さん」
いつもと同じようにほほ笑むオガミに、実央は大きく頷いた。
ココットのような小さな器にラップを敷き、そこに生卵を落とす。ラップの端をきゅっと閉じて輪ゴムでまとめると、沸騰したお湯に入れる。
「ラップにはひだができるように調整するのがポイントだよ」
オガミはそう言って、三つそれを作った。
白米を炊き込み始め、ジャガイモをマッシュする。それはそれは手際がいい。
実央は、彼がこうして台所に立っているのを見るのが好きだった。
台所にはいろいろな音がする。
包丁がまな板に触れる音。鍋のお湯が沸騰する音。フライパンと炎がぶつかる音。水道の蛇口の勢いの良い音や、土鍋の中でご飯が炊けてくる音。
その中で一番好きなのは、オガミが台所の中をせわしなく行き交うときに生まれる、衣擦れの音だった。
布巾をパンとはたき開いてたたむ。手を拭く。エプロンが彼の履くデニムに擦れる。小さくかすかな音だけれど、オガミがここに実在して、働き者の料理人として動く。その音が、この小さな民宿を構成する大切な一つだった。
食堂の石油ストーブに火をかける。天板にやかんをおけば、しばらくすると湯気が立った。
「おはようございます」
部屋が温まる頃に、知世が降りてくる。目元が少し重そうなのは、まだ眠いからだろう。
オガミが用意した、生姜を入れた紅茶を出すと、彼女は一口飲んで驚いた表情を浮かべた。
「生姜なんですね。でも紅茶とあう……」
「はちみつに生姜を混ぜたものを、ダージリンティーに入れてるんです。体があったまりますよね」
そう言うと実央は、朝食のトレイを運び入れる。
「花びら卵のお味噌汁と、肉じゃが。それに大根の葉と焼き豚のおかか炒めです」
一つ一つを説明し終えると、実央はお茶を添えた。
ラップで白身にフリルを作った卵は半熟。味噌汁の中で割ると、とろりとオレンジ色に近い黄色がこぼれだす。一緒に具材で入っている大根の透明な部分に重なり、立体的に見えた。
「――お味噌汁って、かわいくなるんだ」
知世はそう呟きながら、味噌汁を飲み込む。大根と味噌の味に、半熟卵の甘さが加わって、口の中の食感が大混戦している。普段口にしない組み合わせに、知世はすっかり目を覚ました。
「こっちは肉じゃがって言ってたけど……。肉じゃが?」
目の前にあるのは、半円のドーム状に形作られた豚肉だ。薄切りの豚肉が、マッシュポテトに張り付いている。箸で豚肉とマッシュポテトを一緒に摘まむと、中から味が染みていると見ただけでわかる人参や玉ねぎが出てきた。
「うそでしょ! こんなのが肉じゃがなの?!」
とりあえずつまんでいるマッシュポテトと豚肉を口に運び、すぐに玉ねぎも口に入れる。
「確かに、肉じゃがだわ」
ドーム型が崩れ、マッシュポテトと豚肉が、他の具材と混ざり合った。口の中のポテトも肉も玉ねぎも、どれもが甘辛い肉じゃがの味がする。砂糖とみりんが少し多めなのか、家で作るものよりも、甘めな気がした。
「あー、これ動画撮っておけばよかったかな」
そう口にした後で、知世は違うな、と首を振る。
「ちゃんと覚えておくことが大事かも」
今自分が感じていることは、誰かと比較するために経験しているわけではない。
もしも記憶が薄れたとしても、それはそれで、いいではないか。それでも、あったことはなかったことには、ならないのだから。
炒め物を口に入れ白米を運ぶ。朝からこれだけの量を食べるのは、いつ以来だろうか。
知世はそんなことを思いながら、窓の外を見た。
積もった雪に、スズメよりも小さな鳥が降りてくる。黒褐色の翼の下に見える橙色。その組み合わせがかわいらしく、知らずほほ笑んでいた。
「おいしかった! ごちそうさまです!」
知世は両手を合わせ、立ち上がる。
「すみません。お風呂にもう一度、入りたいのですが」
彼女のごちそうさまの声に、台所から食堂に戻ってきた実央を見るなり、知世は声をかけた。その声は、明るい。
「大歓迎です。新しいタオルを、ご用意しますね」
軽やかに笑う知世に、実央も同じように笑みを浮かべた。
***
民宿ひとよの玄関前からバス停までの道は、なぜか雪が解けていた。
実央は知世を見送った後、すぐ後ろに立つオガミを見上げる。
「この道、もしかしてオガミさんですか?」
「どうだろうね」
オガミはいつものように飄々と笑うと、太陽が雲の合間から顔を出し始めた空気の中で、ピンクの髪を揺らせた。
「オガミさんの髪って、なんでピンクなんですか」
実央は彼の柔らかな髪を見て、小首をかしげる。
日本の神様なんだから、日本人と同じような黒い髪でもいいし、神々しい金やら銀の髪でもいいのに。
彼女の言葉の意味を理解しているのか、していないのか。
オガミは目を細めて、くしゃりと顔にしわを寄せて笑った。
「山桜みたいで、きれいだろ」
それは以前も聞いた言葉。
咲子を助けた山桜の、この山に咲く美しい桜の、この国の春を象徴する色の。
やさしく、気高い、色合いだった。
了
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