八 取り残された私 01
冬になると、家の中だというのに冷え込む。
オガミは暑さも寒さも感じないのか、けろりとした顔をしているが、実央は違った。
「実央さんは、猫舌なのに寒がりなんだ」
「猫舌と寒がりの関係性は一切ありません!」
ババシャツと呼ばれるような裏起毛の下着に、ネル生地のシャツ。その上にカシミヤセーターを着て、さらにやよいが着ていた半纏をひっかける。
「今からそれじゃ、この先大変でしょ」
「これは安いチェーン店のカシミヤセーターだけど、冬はもっと分厚いやつを着るの」
カシミヤにこだわるのは、ウールのチクチクが苦手だからだ。
靴下の上から厚手の靴下をもう一つ履く実央に、オガミは温かいココアを差し出す。
「とはいえ、冬の暖房はお客さんにとっても大切か」
「そうですよ。だからストーブをつけて回るんです!」
各客室には石油ファンヒーターが、食堂と台所には反射式石油ストーブ――やかんを上に乗せられる、古いタイプの石油ストーブ――が置かれている。
「今日のお客様が寒がりじゃないといいよねぇ」
オガミは手に塩をまぶし、岩魚のぬめりを取り除く。幾度かこすったあとに流水で洗うと、内臓を取り出した。下処理を続けながら、空を見た。午後の重い日差しは、薄い雲で隠れほの明かりのようだ。
「このあと、雪になる。バス停からの道が、埋まるほどにはならないだろうけど」
「ええっ。雪なんて寒さマックスじゃないですか。とりあえず、石油が満タンか確認しなきゃ」
実央は大慌てで二階の客室へと、駆け上っていった。
***
懐かしい通学路を歩きながら、飯坂知世は鉛のような体を引きずって駅に向かっている。高校を卒業してから、二度目の同窓会の帰り道。昼に集まったこの会は、二時になる前に散会した。本当ならもっと明るい気持ちで、学校の敷地を出ている筈だったのに。
「一度目の同窓会のときには、何も思わなかったのになぁ」
高校を卒業して数年。大学二年生のときに一度目の同窓会が開催された。同級生は全員大学に進学していたので、誰もが大学生活のことを楽しそうに語っていたと、知世は思い出す。
それから二十年。
四十歳になった今年、二度目の同窓会が開催された。
知世が通っていた女子校は横浜にある。適度な都会といえるそのあたりは、結婚に対する感覚は東京のそれとほぼ同一だ。つまり、既婚者と未婚者は同級生の中で半々であるし、既婚者であっても子どものいない、少し前の言い方で言えばDINKSが三分の二を占めている。知世は未婚者側であったが、自分と同じように未婚の同級生は皆、出世街道をひた走っていた。
「なんっか、キラキラしてた」
知世も総合職として、新卒からメーカーに入社した。バックオフィスを担い、人事を担当してきた。けれど、昭和な会社は女性社員の出世をあまり歓迎せず、上層部は皆男性社員ばかり。せいぜい係長どまりの先輩女性社員を見て、この数年はやる気もすっかり失せていた。
それなのに、今日会った同級生たちはといえば、皆やる気に満ちていたのだ。もちろん、それなりに仕事や家庭の愚痴を言いあったりもした。けれど、どうにも誰もがポジティブで、SNSでバズるような素敵な生活をしているような口調なのだ。
「見せてもらった写真も、おしゃれだったよね」
マンションを買ったという友人や、ハワイに年に一度は行っているという友人。国内の温泉を制覇しているという友人もいれば、家族で外資系のホテルに泊まってテーマパークを満喫しているという友人たち。
もちろん皆が、本心から本当にすべてに満足しているとは思ってはいない。
それでも、知世よりは皆、日々を楽しんで前に進んでいるように見えたのだ。
「知世、二次会行くでしょ?」
そう声をかけてきたのは、二番目に仲が良かった友人だ。
「実は、ちょっと仕事に戻らないといけなくなっちゃって」
キラキラしている集団とこれ以上一緒にいる自信がなくなり、知世は思わず嘘をついてしまった。
「そっかぁ。残念だけど、仕事じゃ仕方ないね。私たち、今が頑張りどきだもんね」
昨日の夜までは、いや、この同窓会に参加する直前までは、皆と会った後は二次会に行って、お酒を飲んでわいわいと昔話に花を咲かせたいと思っていたのに。ここにいる誰もが、過去の話なんてしていなくて、今日や明日の話をしていた。
「皆によろしくね。また別で飲みにいこ」
思ってもいないような約束を口にすれば、友人も笑顔で「そうしよ」と返し、他の同級生の輪の中に入っていく。その後姿をしばし見た後、知世は駅へとゆっくりと歩き出す。ぐつぐつと煮込んだような音が、自分の腹の中でしているような、そんな気がした。
「……民宿ひとよ?」
ふと目に入った電柱に、そのチラシは貼り付けられていた。
民宿の名前と電話番号。
たったそれだけの情報なのに、知世は思わずスマートフォンを取り出していた。
『民宿ひとよでございます』
繋がった電話の先から聞こえてくるのは、女性の声。
(ここでも女性か)
そんなことを思ってしまった自分に、知世は驚いてしまう。
(宿の人は関係ないじゃん)
『お客様?』
いつまでも黙っている知世に訝しんだのか、電話の向こうから重ねて言葉が綴られた。けれど、そこに知世を侮る色はない。当然のことなのに、なぜかほっとする。
「あ、すみません。今日の夜の宿泊って可能でしょうか」
宿の場所の確認などを忘れ、思わず予約を取った知世だったが、電話を切って再び電信柱を見ると、そこには不用品買取と迷いネコの張り紙だけがあり、民宿の名前などどこにもなかった。
玄関をノックする音がする。小さな音で、聞き逃してしまいそうなそれに気づいたのは、オガミだった。
「お客様が来たようだよ」
ココアを飲んでいた実央は、その言葉に慌てて玄関に向かう。火を使っていた台所とは違い、廊下はひんやりとしている。
(廊下にも暖房を置かないとだめだわ)
体をぶるりと一つ震えさせて、玄関の引き戸を慌てて開けた。
「いらっしゃいませ。女将の実央でございます」
「急な予約、すみません」
「いいえ。うちはそういうお客様が多いので大丈夫ですよ」
にこにこと笑みを浮かべて、実央は宿帳を開く。けれど、彼女の手を見てすぐにそれを閉じた。
「女将さん?」
「お客様。まずは食堂へご案内いたします。温かい飲み物を召し上がってください」
紫色に近くなっていた爪に、震える指先。
予約の電話がかかってきた時間から、今の到着時間を考えると、おそらくは東京か神奈川、千葉の海側から来たのだろう。コートも薄手で、寒そうだった。
彼女を食堂へと案内する。そこは実央が先に石油ストーブをつけていたこともあり、玄関や廊下とは雲泥の差と言えるほど温かい。台所では、オガミがはちみつをたっぷり入れた紅茶を用意していた。
「――あったかい」
差し出された紅茶のカップを両手で包み、ほう、とため息を一つ吐き出すと、実央が差し出した宿帳に名前を記入する。
飯坂知世、と少し丸みのある文字で記入すると、知世は自分の文字にがっかりした。自分が子どものときには、大人になればもっと『大人が書くような』文字になると勝手に思っていた。最近はパソコンを使うので自筆を使うことはほぼないが、こうした縦書きの宿帳に、まるで毛筆家のようとは言わなくとも、美しい文字を残せればいいのに、なんて思ってしまう。
「飯坂様、寒かったかと思います。お食事の前にお風呂に入られますか?」
「お風呂……」
「温泉なので、温まるかと思います」
「入ります」
温泉、と聞いた途端、知世はすぐに返す。
「あっ、私温泉が好きで……」
少しだけばつが悪そうな表情を浮かべる知世に、実央は一つ頷く。
「わかります。私も温泉、大好きなので。うちの温泉は、露天ではないですが窓が大きく開いてるので、気持ち良いと思います」
寒かったら閉めても大丈夫です、と続ければ、知世は目元を緩ませた。
「楽しみです。荷物を部屋に置いたら、早速入らせてもらいます」
二階の客室にも暖房を先に入れてあったので、扉をあけた途端やわらかな温度が出迎えてくれる。
「廊下だけちょっと……寒いんですけどね」
やっぱり廊下にも暖房が必要だな。
実央はそんなことを思いながら、知世の泊まる部屋を出てひやりとした階段を下って行った。
時計を見れば午後六時過ぎ。この時期はすでに外は真っ暗で、玄関の外は宿の外灯の光だけがぼんやりと浮かび上がり、ひとよを照らしている。
玄関の鍵を閉めようとたたきに降りた実央は、ふと外の様子を見ようと引き戸を開けた。からりと軽い音を立てた扉の先には、しんとした沈黙とうっすらと地面を染めた白い雪が見える。
「わ、寒いはずだ」
ぶるりと体を震わせながら呟けば、白い息が外灯に照らされてふわりと浮かんだ。空を見上げると、しんしんと落ちてくる白い塊が、まつげにかかる。
鍵をかけ、帳場の暖房を廊下に引っ張り出した。これで少しは廊下が温まるだろう。
帳場に置かれた机の上には、マユミの枝がすらりとその身を青い一輪挿しに立たせていた。先端には赤く熟れた実を宿している。
「いい匂いがしますね」
台所に入ると、オガミが鍋をくるりとかき混ぜているところだった。
「岩魚を焼いた匂いかな」
その言葉に実央は調理台をぐるりと見まわす。
「さて、どこにあるでしょう」
いつも魚を焼いている炭火台にも、調理台にも岩魚の姿はどこにもない。さてはと冷蔵庫を開けてみても、中にも置かれていなかった。
くすくすと笑いながらなおも鍋をかき回しているオガミを見て、実央はようやく気付く。




