七 咲子の場合 03
そうじゃない。
私がここに来たいと思ったのは。
そう口にしようとして、ふと気が付く。
(私、どうしてここを継ごうと思ったんだっけ)
あのとき、何故だかここに来ないといけないと思ってしまった。
それは、私が自分でやりたいことだったのだろうか。
「実央さん。ご飯できましたよ」
逡巡する実央の後ろから、声が響いた。
「あら、あなたが調理場を手伝ってくださっているという?」
台所と食堂の間を繋ぐのれんをくぐり、オガミが姿を現す。咲子の言葉に、オガミはぺこりと頭を下げた。
「はい。オガミと言います。実央さんにはいつも、良くしていただいています」
実央は咲子とオガミのやりとりを見て、少しだけ悲しくなる。
(本当に、お母さんはオガミさんのことを覚えてないんだ)
そしてオガミはそれを、当然のように受け止めている。
「実央さん、手伝ってもらっていいですか」
「はい! お母さん、ご飯とってくるね」
オガミの後を追って、実央が台所へと向かう。いつものように食事用のワゴンを用意すると、ちらりとオガミを見た。
(オガミさんは、本当に平気なのかな)
神様というものは、人とは違う感情構造なのかもしれない。
それでも、誰かに忘れられるということが平気だと言い切るのは、なんだか違うような気がした。
「今日は洋風だよ」
「いやぁ、むかごの炊き込みご飯をよそいながら言われても」
「それもそうか」
オーブンから取り出したお皿は、オガミが直接トレイに乗せる。
「あ、グラタンだ!」
「そう。咲子ちゃんの好物」
「知らなかった! お母さんってグラタンが好きなんだ」
考えてみれば、母親の好物なんて知らなかった。いつも実央や姉の好きなものを用意してくれていた母は、自分が食べたいものをきちんと食べられていたのだろうか。
(やりたいことと、やるべきこと。お母さんだって、同じじゃん)
父親の好物はハンバーグだ。姉の好物はエビの炒飯だし、実央の好物はカキフライ。母親になったからといって、咲子だけが好きなものを我慢する必要なんてなにもなかった。
「前に来たお客様、覚えてるか?」
「えぇと」
「なんでもいい、のお客様」
それは、実央が最初にこの宿で迎えた人だった。
「なんでもいいは、どうでもいいわけじゃない」
「そう。咲子ちゃんも、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
実央は眉根を寄せる。
「ほら、そんな顔しない。聞いてみないとわからないだろ。人は人、咲子ちゃんは咲子ちゃん、実央さんは実央さん」
オガミは実央の眉間に指を伸ばし、ぐーっと伸ばした。その絶妙な力の入れ具合に、実央は思わずふはりと笑う。
「さ、二人で楽しい時間を」
小鉢まで乗せ切ると、実央はワゴンを押して食堂へと入っていった。
チーズがかかるグラタンの上には、山椒が振られている。すっきりとした香りが、チーズの下にある白みそのクリームソースと混ざりあい、たくさん食べてもくどく感じさせない。グラタンの具材はキノコと鶏肉、リンゴ、それに栗だ。オガミ曰く、この栗がメインの食材だという。
「このグラタン、お母さんの好物なのよ。栗が特に好きでねぇ。オガミさんって、すごいわね」
咲子が頬を緩ませて、次々に口に運ぶ。
実央は猫舌なので、蓋になっているチーズ部分をくるりとフォークで巻いてずらす。こうしておけば、中側が早く冷めるのだ。
その間に実央は、柿とカブのサラダに手を伸ばす。同じように薄くスライスされた柿とカブが、半分ずつ重なるように盛り付けられている。レモン汁がかかっているらしく、少し酸味があった。
「お母さんの好物って、グラタンの他には何があるの?」
里芋の味噌汁を飲み込みながら尋ねれば、咲子はうふふと笑う。
「エビの炒飯も、カキフライも好きよ」
「それ、お姉ちゃんと私の好物じゃん」
にこにこと笑う咲子は、小鉢の中の人参とクルミを口に運ぶ。
「ハンバーグはそうでもないんだけどね」
小鉢の中には、いんげんが残っていく。
それを見て、そういえばと思い出す。
「お母さん、もしかしていんげんあんまり好きじゃない?」
「キュッってする食感が苦手でねぇ」
人参といんげんのクルミ胡麻和えは、咲子の小鉢の中でいんげんの胡麻和えという状態になって残されている。
(オガミさん、お母さんの好きじゃないものを出してどうするのよ)
苦笑いを浮かべそうになる実央だが、おかげで気付くこともできた。
「だから、家でいんげんって出なかったんだ」
「本当は二人には、好き嫌いのないように、いろんなお野菜を食べさせたかったんだけどねぇ。自分で作るのに、食べたくないものなんて、料理したくないでしょ」
咲子はそう言って笑う。
「人は好きなもの、好きなことだけでできてるわけじゃないのよ、実央」
むかごご飯は、口の中でむちむちと粘りを出す。それが呼び水のように、白米のうまさを引き出して、相乗効果で箸が止まらなくなる。
「嫌いなことや、いやなことを避ける。それもまた大切な日常だわ」
実央はようやく冷めて口に入れることができたグラタンを咀嚼すると、咲子の言葉に頷く。
口の中でほろほろと崩れる栗が、粉っぽさと甘さで満たしてくれた。
***
「朝食はホイルに包んだ塩握り。中身は母さんの漬けた梅干ね」
咲子はそう指定すると、朝食は宿では食べないと宣言した。
「せっかくこっちまで来たから、駅近くに住んでる友達に会うのよ」
駅近くとは、ターミナル駅のことだ。高校の頃の友人が、結婚後にその辺に家を建て、今も暮らしているという。お握りはバスの中で食べるそうだ。
「温泉にも入れたし、美味しいご飯も食べれたし。なにより、実央が元気そうにしているのが確認できたから、よかったわ」
玄関の外で咲子を見送る実央に、咲子は笑いかける。そうして実央の体を引き寄せて、咲子は彼女を抱きしめた。
「ここの山は、美味しいものがたくさんあるわ。山の恵みをしっかり食べて、元気でいなさい」
咲子の言葉に、実央は瞬く。
「いい? 今日食べたものが、明日の自分を作るのよ」
それは、祖母やよいの口癖であり、そしてオガミの口癖でもあった。
実央は思わず口元をほころばせる。
「お母さん。私、ここの宿を継ぐのは、ちゃんとやりたいことだよ」
ぎゅう、と母の背に回した手に力を入れて、実央も母を抱きしめる。
耳元で「そう」と咲子の安堵したような声が聞こえた。
「あっ、バスの時間だわ。体には気を付けなさいね」
「お母さんも」
実央がそう返したとき。
「咲子ちゃん」
玄関からのそりと顔を出したオガミが、母をそう呼ぶ。
咲子は数度瞬きを繰り返すと、ゆっくりと頭を下げた。
「実央を、お願いします」
そうしてすぐに、バス停へと駆け出して行く。
その後姿を、オガミは目を細めて見ている。
「お母さん、オガミさんのこと思い出したのかな」
実央のつぶやきに、オガミは一つ伸びをして「さぁな」と返す。
「俺が作ったものを、美味しく食べてくれる。山の恵みは俺の恵みだ。それが食べた人の体を作り、心を作っていく」
オガミはくるりと体を旋回させ、台所へと体を向ける。
後ろに立つ形になった実央をふりむき、笑った。
「今日食べたものが、明日のその人を作る。それで十分なんだよ」
ピンク色の髪がわずかに光ったように、そう見えた。




