七 咲子の場合 02
実央の言葉に、オガミは笑った。
「俺が住む場所は、だいたい神社になるからね」
むかごの小さな根を指で摘まみながら、オガミは言う。彼の大きな指先に、むかごの根は小さすぎるように見えるが、難なく取り去っていった。
研いでザルにあげていた米に、むかごと水と酒、それにほんの少しの塩を入れる。土鍋に火をかけると、オガミは鶏肉の下処理を始める。
「――この国の人は、長い間山に、自然に畏敬を払ってきた。それがぱたりと消えた時期が、俺が倒れていたあの頃」
鶏のもも肉を丁寧に開くと、リンゴ半分をすりおろした液に漬け込む。りんごの残り半分は小さくスライスをした。さらにその残りが、実央の口に放り込まれる。
「んっ、おいしい」
「今年の初物だってさ」
「寿命が延びるね」
みずみずしい紅玉の切れ端が、口の中でしゃりしゃりと音を立てた。
「最近はまた、人の祈りの声が聞こえ始めてきたよ」
オガミはそう言って笑う。
「前に、山頂に神社があるって」
「あれは、もう随分と昔に、人が建てたものだ。おかしなもので、俺はずっとこの山にいるのに、ああして社を建てられると、そこにいたほうがいい気がするんだよね」
そうして、人々が祈りに来るのを受け止めてきた。
「今も、誰かが神社に?」
「たまにね。来てるのを感じるよ。でも、大事なのはあそこに誰かが来ることじゃないんだ」
人が自然に対して祈ること。
畏敬を感じること。
それが、神を神たらしめているらしい。
(お母さんが子どもの頃って、高度成長が始まった頃だよね)
日本人が、こぞって国を発展させていった時代だ。
「あのままなら、続くそのあとに俺は消失してっただろう」
(高度成長から続くのは、バブル期)
金に浮かれ、人が人としてゆっくりとおかしくなっていった一時期。
オガミは目を細め、ふ、と息を吐いて笑った。
「消えるなら、それはそれでいいと思ってたけど、やよいさんと出会って、この宿で人を迎えるようになると、どうにも執着が出てきちゃったよね」
水に浸していた栗を茹で始めると、折よく炊き込みご飯を仕込んでいた土鍋から、甘い香りが立ち昇る。
「誰かの祈りが、ここに人を呼ぶなら、俺は応えてあげないと」
「それって」
「ただいまぁ。ご飯のいい匂いがするわね」
実央の言葉に被さるように、咲子の声が玄関に響いた。
「ほら、咲子ちゃんが戻ってきた。ご飯もうすぐできるから、お茶でも出してあげて」
いつの間にか沸かせていたヤカンを片手で軽々と持ち上げると、紅茶を淹れる。夏の間に乾燥させておいたオレンジをマグカップに放り込み、実央に持たせた。
「久しぶりなんだし、ゆっくり話でもしてきな」
ピンク色の髪の男は、柔らかな表情を浮かべ、実央を咲子の元へと向かわせる。
「お母さん、良かったら食堂でお茶でもどう?」
二十代後半にもなると、母親と対面するのもどこか面映ゆい気持ちになるのだが、持たされた紅茶が、実央を素直にさせた。
食堂で向かい合いながら、紅茶をマグカップに注ぐ。ダージリンティの香りとともに、オレンジの甘酸っぱい香りがふわりとした。
「こんなおしゃれな紅茶を出してくれるなんて、すっかり女将業が板についてるんじゃない?」
「実は調理場を手伝ってくれてる人がいて」
実央は告げるか迷いつつも、きっと受け入れてもらえると思いオガミの存在を明かす。予想通り、咲子は不思議に思うこともなく、笑みを浮かべた。
「助けてくれる人がいるのはいいことだわ。あとでご挨拶しないとね」
食堂をぐるりと見まわすと、咲子は紅茶を飲み込み笑う。
「カーテンは新しいのに変えても、いいんじゃない?」
洗濯をして清潔ではあるが、確かに柄が少し古めかしい。
「そういえば、私もここに戻ってきたときにはそう思ってたんだった」
見慣れてしまうと、忘れてしまうのかもしれない。
それは、人の存在や、神の存在と同じように。
「どう? お客さんはちゃんと来てる?」
「不思議なことに、途切れることなく」
毎日来るわけではないが、食べていくのに困らない程度には人が来る。
「よかったわ。ここがなくなるのは、私もさみしいと思ってたから」
咲子は短大に進むときに、この家を出た。
やよいは女でも高等教育を受けるべきだと考える人であったし、咲子もまた、東京で学びたいと希望し、上京したのだ。
女手一人で育て上げてくれた母を、この場所に置いていくことを気にしなかったかと言われると難しい。あの頃は、母はここで一人でも平気だと思っていたし――今となっては咲子はどうしてかはわからないが、オガミの存在が大きい――、それに十八を迎える年の子としては、見知らぬ世界へ出ていく興味の方が強かったのだ。
「年に一度はここに来てたけど、もっと会っておけば良かったって思うわ」
掃き出し窓の外を見ながら、咲子はそう口にする。
窓の外には、徐々に赤くなってきている空が浮かび、その色を映し出した雲が横に長く伸びていた。
「いろんなお客さんが来てたの。私が五歳の時に父さん――実央のお祖父ちゃんが亡くなってから、母さんは一人で頑張ってたから」
咲子はそこまで口にすると、台所に目を向ける。それから少しだけ首を傾げて紅茶を飲む。
「ここは母さんのお城だったわ。豪華ではないけど、人を迎え入れて、送り出す、そんなお城。私もいつしか、そんなお城の客人側になっちゃったけど」
実央は、オガミの言葉を思い出す。
――俺の名前も、俺の顔も、俺と過ごした記憶も、ここから別の場所に居を移していけば、忘れていく。
咲子は、この宿の住人から明らかに客となっていったのだ。
「母さんは、いつまでもここにいると思ってたのよねぇ」
「お祖母ちゃんが熱海に行くって言ったのって、お母さんが誘ったの?」
「前から、宿ができなくなったらおいで、とは言ってたけど」
それでも、それはもっとずっと先のことだと、朧げに思っていた。
「考えてみたら、母さんったらもう百歳だったのよね。全然そんな感じがしないから、忘れてたわ」
咲子はそう言って笑うと、少しだけ黙り込む。そうして、すん、とわずかに鼻を鳴らした。
「親ってのは、いつまでも元気で生きているって思っちゃうのよね」
実央はその言葉に、改めて咲子を見る。
今年六十六歳になる咲子は、まだまだ足腰は元気だ。目元のしわは確かに以前よりも増えた気がするが、白髪だってそんなに多くない。母がいなくなるという想像が、今はまるでつかなかった。
「大丈夫よ、実央! お母さん、まだまだ元気だから」
不安そうな顔をしていたのだろうか。実央の顔を見て、咲子は彼女の手を握った。
少しだけ柔らかで、ふっくらとしている指先が、実央の手を包み込んだ。それが驚くほど嬉しくて、どうしてだか目の奥が熱くなる。
「実央は、やりたいこととやるべきことがあったときに、やるべきことを選ぶでしょう?」
咲子は握った手を軽く上下にぽんぽんと動かすと、実央の瞳を見つめた。彼女の言葉に、実央は何も言えずに母の瞳を見つめ返す。
「だから今回、ここに来るって言ったときも、少し心配だったの」
姉は、やりたいことをやる人だった。物事にどんどんとトライして、失敗したら笑い飛ばす。実央はずっと、そんな姉のようになりたかった。
「ここを、ひとよを残さないといけないと、実央がそう思ってしまったんじゃないかって」
咲子の言葉に、実央は顔が熱くなる。




