七 咲子の場合 01
実央の母がやってきたのは、十月の半ばだった。
「元気そうでよかったわ。一人でここに暮らしていたら、不安なこともあるでしょう」
「でも一人じゃないから」
「一人じゃない?」
母――咲子の荷物を受け取りながら、実央は二階の客間に案内する。
(そういえば、オガミさんのことだけはなんとなく皆に言えなかったけど)
実央が民宿ひとよに到着して以来、家族が参加するSNSに近況の報告や、ひとよの近くの山の様子などはしている。けれど当初から何故か、オガミについてのことだけは書く気になれなかったのだ。
(今思えば、オガミさんが神様だったからなのかも)
何か不思議な力が働いていたとしても、おかしくはない。
「あぁ、商店の人が食材を届けてくれるんだっけ」
咲子は一人納得したようで、頷きながら部屋に入る。
「懐かしいわ。ここの部屋、一番人気の部屋だったのよ」
ひとよの中でも一番見晴らしの良い部屋。咲子は実央に連絡を入れたときに、この部屋に泊まりたいと告げてきたのだった。
「久しぶりに、この辺を散歩してくるわ。夕飯は、実央も一緒に食べましょう」
「寒くなるのが早くなってきてるから、夕方には戻ってきてね」
「ええ。私もそんなに長時間歩けるほど、元気じゃないから」
そう言って笑うと、咲子はスマートフォンを入れた小さな鞄を斜めにかけて、宿を出ていった。
***
「お母さんって、オガミさんと一緒に暮らしてた時期があるんだよね?」
台所で、オガミが一晩水に浸していた栗の鬼皮をむいていた。ざらざらした部分に包丁を入れ、ぐるりと外の皮を剥いていく手際は、見ていて気持ちが良い。
「咲子ちゃんとは、彼女が短大に行くために上京するまで、一緒に暮らしてたかな」
鬼皮を剥いたあとは、その下にある薄茶色の渋皮も剥いていくと、ボウルに張った水の中にとぽりと落としていく。次から次へと、流れるような手つきで進めていきながら、オガミは実央をちらりと見る。
「お母さんが谷に落ちちゃったことは、忘れてるのかもしれないけど」
それでも、八歳から十八までの長い間ともに暮らしていて、覚えていないのはおかしい。
「ここの家は、俺にとって住まいだ。だから、ここに住まう人間は俺の眷属になる」
「けんぞく?」
聞きなれない言葉に、実央は小首をかしげた。
「身内、みたいなものだ」
「お母さんもお祖母ちゃんも、その眷属ってやつになったわけでしょ?」
「ここに居を構えている間はな」
逆に言えば、ここが主たる住まいではなくなると、眷属ではなくなるということだろうか。
「神はその姿を見せない。記憶させない。それがきまりだ」
眷属でいる間は、身内だから覚えていてOKということだろうか。
「あれ、でも例えば同じ山の神といっても、木花之佐久夜毘売って富士山の神様でしょ? なんか神話とかは残ってるよね」
「まぁそれは後付けの物語だからな」
「そうか。本物の神様の行動とは限らないんだ」
日本書紀やら古事記やらの内容だ。当然当時編纂した権力者の意向が大きい。
「俺の名前も、俺の顔も、俺と過ごした記憶も、ここから別の場所に居を移していけば、忘れていく」
オガミはごく当然のような顔で、実央に言う。けれど、それは実央にとっては当然のことではない。
「だったら、いつか誰もが、オガミさんのことを忘れちゃうの?」
それはとても恐ろしいことのように感じた。
毎日ともに過ごしている相手のことを、まるでなかったことのように忘れてしまう。
彼のことを忘れている。そういうことすら気付かないのだ。
「だから俺たち神は、恵みをもたらす。人に、獣に、植物に。巡り巡るこの世界の小さな礎を、俺たちは恵みとして手渡すんだ」
ぽちゃん、と栗をボウルに入れる音が、殊更大きく響いた。
「だってそれじゃあ……。誰がオガミさんを覚えているの?」
「姿そのものなんて、覚えてなくてもいいんだ。ただ、俺たちの恵みが世界に在れば」
オガミはそう言うと、わずかに目を細める。
「まぁそうした恵みが忘れられて、祈りの声が消えていったから、俺はあのとき行き倒れていたんだけど」
「え、お祖母ちゃんが拾った経緯って、そういうことだったの?」
祖母との出会いを聞いていて、何故オガミが行き倒れていたのか不思議だったが、つまり人々が神への祈りを忘れていったことで、死にそうになっていたということだったのか。
「少し前、人が戦争をしていた頃までにはたくさんあった祈りの声も、ぱたりと消えてね。いやぁ、初めて消失の危機というものにあったんだよね、あのときは」
栗を全て剥き終えたオガミは、今度はむかごをボウルに入れる。水を入れて手でごろごろと転がしながら、汚れを落としていく。
「やよいさんが拾ってくれたあのときから、俺は彼女の祈りを受け止めて、神の力を少しずつ取り戻していったんだよ」
「祈り……。お祖母ちゃんは、オガミさんを拝んでいたの?」
「俺たちが必要とする祈りってのは、ただ手を合わせるようなものだけじゃない」
オガミは、やよいが死期を悟り熱海へと向かうときのことを思い出す。
「オガミさん。ここで一人で死んだら、子どもたちが後始末に困るから、私は熱海に向かうわね」
秋も深まったある日、やよいはオガミにそう告げた。
彼女の死期が近付いていることは、当然オガミにはわかっている。
「そっか。さみしくなるね」
咲子を助けたあの日から、ピンク色に染まったオガミの髪を見て、やよいはほほ笑んだ。
「私がいなくなったら、オガミさんは山の頂にある神社に帰るのかしら」
「うーん、どうしようかな。ここの宿がなくなるまで、のんびり客を受け入れるのも悪くないかも」
彼の言葉に、やよいは「まぁ」と目を丸くする。
「だったら、孫が来たら安心ね」
「やよいさんのお孫さんって、昔来てたお嬢ちゃんたち?」
「そうよ。しばらく会ってないけど、きっと元気にしてるわ。ただ、下の子はどうにもがんばりすぎちゃうきらいがあってねぇ」
八歳の頃までの記憶ではあるが、それでもやよいの中で実央の性格はしっかりと記憶されていた。頑張り屋のあの子は、きっといつか無理がたたってしまうから。そう続けるやよいは、この宿でするべき仕事を丁寧にノートに書いていった。
「あなたが来てくれてから、うんと楽になったのよ。私、オガミさんがいてくれて本当に良かったと思ってるわ」
出会ったころと比べて随分と小さくなった身長と、細くなった体を、オガミは優しく抱きしめる。
「元気でね、やよいさん。俺のことを忘れても、あなたに俺の守護が続くよう」
「やぁね。忘れるわけがないじゃない」
「でも、住まいはここから変わるから」
「私の帰る場所は、いつだってここよ。あなたと、夫と、子どもたちと孫と。皆で過ごしたこの場所が、いつまでだって私の帰る場所」
そうしてやよいは熱海の咲子の元へと、向かう。
熱海に移ったやよいは、一度もオガミのことを口にすることはなかった。それでも、オガミには彼女の祈りが届き続ける。
――あの宿が、あの山が、訪れた人を祝福してくれますように。
***
考えてみれば、オガミは男神。つまりは神なのだ。神が住むこの場所は、神社といえるのかもしれない。
「私、神社に住んでるってことになる?」




