六 やよいとオガミ 03
「では、お世話になりました」
昨日の客がそう言って挨拶をして出ていくと、やよいは台所へと戻った。オガミに頼んでお茶を淹れてもらってから、客室の掃除をしようと思う。
「お母さーん。遊んでくるね」
「気を付けるのよ! お昼には戻ること!」
小学校が春休みの間、咲子は宿の手伝いをしながら、昼は外で遊んでいた。冬の間は部屋で人形遊びをしていた咲子も、外で遊べる季節になると家を飛び出していく。昨日は雪だったので、その分外で遊びたいのだろう。手袋とニット帽をかぶり、しっかりと防寒対策をした咲子が玄関を出ていったのを、台所から二人の大人の目が見守った。
「そういえば、咲子ちゃんはもうすぐ誕生日だったっけ」
「ええ。来週よ。なにかごちそうを作ってあげて」
「春になるから、ウサギ肉でも狩ってこようか」
「オガミさんたら、狩りまでできるの」
「山の命ならね」
相変わらずの調子のオガミに、やよいは笑った。
それから客室の掃除をして、布団を干して、帳簿の整理をする。あっという間に数時間が過ぎていった。
「やよいさん、そろそろ昼飯にしようと思うけど」
「あら、もう正午を過ぎたのね。咲子はまだ戻らない?」
「まだだねぇ。遊びに夢中になってるのかな」
「ちょっと様子を見て来るわ」
やよいはそう言って、雪靴を履いて外に出る。昨夜の雪は今日の陽ざしで随分と溶けているが、日陰にはシャリシャリと固まっている雪がくすぶっていた。
「咲子、ご飯よー」
いつも遊んでいる辺りに声をかけるが、咲子の声も姿も戻ってこない。
「あら、どこに行っちゃったのかしら」
雪が積もっているから、別の場所に行ったのかとあたりを回る。けれど、どこを見ても、咲子の姿はなかった。
「咲子?!」
やよいの顔に焦りの色が浮かぶ。
「咲子! 咲子、どこにいるの!」
走り回り、声の限りに叫ぶが、返ってくるものはなにもない。
「やよいさん、咲子ちゃんは?」
その声が聞こえたのか。
宿からオガミも出てきた。
「オガミさん! 咲子が、咲子がいないんです」
いつものおおらかな、おだやかでパワフルな、そんなやよいの姿は消え去り、震える声で力の限りにオガミの両腕を握りしめる。
そんなやよいの手を、オガミがそっと包み込んだ。
「やよいさん、大丈夫だから。俺が咲子ちゃんを見つける」
いつもと同じような穏やかな声で、オガミはそう告げた。
そのまま、オガミは山の方へと向かう。
「オガミさん、あんた靴がつっかけじゃないか! そのまま山に入ったら」
やよいの声に、オガミは振り向く。
「大丈夫。安心して」
「お願い……。咲子を、どうか咲子を見つけて」
震える手を握り合わせ、やよいはかすれる声でそう吐き出す。
「やよいさん、しっかりと祈っててね」
オガミはそれだけ言うと、山へと向かう。ぎゅ、と雪を踏みしめた音がする。
「咲子ちゃんはどこだ」
小さな声でそう呟くと、オガミは細い山道の奥に目を向けた。
そこは二股に分かれた道がある。その端に、何かが滑った跡が見えた。
「あの下だ」
オガミの足が速くなる。
タン、と大きく踏み込んだと思ったら、木々の間の小さな谷へと体を落としていった。
地球の重力というものを感じさせない動きで、オガミの体はゆっくりと、まるで風に乗っているかのように降りていく。
その下には、小さな桜の木が並んでいた。
山桜が早いうちから咲いていたが、この雪で花が咲くスピードが止まっている。
その枝と枝の間に、咲子の体が挟まっていた。
「咲子ちゃん」
オガミが地面まで降りると、不思議なことにそこに積もっていた雪は、あっというまに溶けていく。足を滑らせて落ちてしまったらしい咲子は気を失っていたが、オガミの声にゆっくりと瞳を開けた。
「オガミさん?」
「いい子だね、咲子ちゃん。そこから動かないで」
オガミが優しく笑むと、ゆうらりと風が吹いた。その風が、咲子を抱き上げる。
「わわっ! すごーい!」
そのままオガミのもとに届けられた咲子は、彼にしがみついた。
「オガミさんが迎えにきてくれたの? 私、落ちて……落ちて、怖かった」
抱きかかえられたら、落ちた時のことを思い出したのだろう。急に泣き出した咲子の髪を、オガミはそっと撫でる。
「大丈夫だよ。咲子ちゃんは、目が覚めたら全部忘れてるからね」
そう言って彼女の額に、オガミは自らの額をこつりと触れさせた。するとすぐに咲子はふわりと目を閉じて、眠りについた。
「あーあ。黙っていようと思ったけど」
心配であとを追ってきたのだろう。
谷の上から、一部始終を見ていたやよいの視線に気が付いた。
それでも、声をかけずにずっと見守っていたらしいやよいに、オガミは苦笑いを浮かべる。
「とりあえず、戻りますか」
オガミの体に風がまといつくと、ゆっくりとその体が浮かび上がった。山桜がその風に乗り、花びらを散らす。ふわりと谷の上に待つやよいのもとにオガミが戻ったときには、嵐のような花吹雪が彼を守るように舞っていた。
「ただいま、やよいさん。咲子ちゃんは無事だよ」
驚いた瞳の彼女に咲子を手渡すと、やよいの瞳から大きな涙がいくつもこぼれる。
「咲子、咲子!」
「今は眠ってるけど、目が覚めれば、ここから落ちたことも全部、忘れてるはずだから」
オガミはそう言って、この場を去ろうとやよいに背を向けた。
「ちょっと! オガミさん、どこに行くの!」
「え?」
咲子を抱きかかえたまま、やよいはオガミに叫びかける。
「あんたさんの家は、こっちでしょ」
やよいの言葉にオガミは目を見開き、そうして笑った。
「そうだった」
オガミが眠る咲子をおんぶして、二人は宿に戻る。
部屋の布団に寝かしつけた後、やよいはオガミの両手をとった。
「ありがとう。咲子を助けてくれて、本当にありがとう」
「咲子ちゃんは、もう俺の娘みたいなものだからな」
「オガミさんは――山桜の精かなにかなの?」
やよいの言葉に、オガミはきょとんとした表情を浮かべる。
「俺が、山桜の?」
「だって、あなたの髪、きれいな山桜色に変わってるわ。咲子を助けてくれたときも、花びらが舞ってたし」
オガミは自分の髪に手をやると、「あー」と笑いだす。
「そっちかぁ」
目を細め、立ち上がった。
アルマイトのやかんに水を入れて、火にかける。
「お茶、飲むでしょ」
「そうね。ほうじ茶をお願い」
急須に茶葉を放り込み、オガミはやよいを見た。
「やよいさん、俺の名前はね」
***
ミルクティを飲み込むと、実央はオガミの顔を見た。
彼の髪の毛はピンク色だ。
「オガミさんって、実はものすごく年をごまかしてる?」
実央の言葉に、オガミは笑う。
「本当に、実央さんとやよいさんはよく似てる。核心に近付いても、ど真ん中は突いてこないんだもんなぁ」
ティーカップに人差し指をとぽりとつけると、オガミは濡れた指先でカウンターテーブルに文字を書いた。
「実央さん。俺の名前を漢字で書くとね」
ゆっくりと描かれる文字に、実央は目を見開いた。
――男神
そうしてオガミは一つ笑うと、窓の外に風が舞い、黄色と赤に染まったもみじたちをくるりと旋回させたのだった。




