六 やよいとオガミ 01
昭和四十三年。
日本は高度経済成長に沸いていた。
「あら。大丈夫かい?」
穂高やよいは、目の前に横たわる男を見て声をかける。
鼻の辺りに手をやれば、呼吸は確認できるので生きてはいるようだ。
「ほれ、目を覚ましておくれよ」
ぺしぺしと頬を叩く。どうした理由で倒れているのかはわからないが、透き通るような白い髪に古びた着物のその男は、やよいの声にようやく目元を揺らす。
「ん……」
「あんたさん、ずいぶんとまつ毛が長いねぇ」
ふるりと揺れる目元に、やよいは惚れ惚れとした。
白髪の男は、けれどけしてそれに見合った年齢とは思えない顔だ。皴一つなく、何なら四十三歳のやよいよりも、若々しく見える。
目を開けた男は、やよいをじっと見つめると口を開こうとし――ぐううううと、大きな腹の音を立てた。
「あっはっは! 随分空腹みたいだね。いいよ、うちにおいで」
三年前に夫と死別したやよいは、戦時中から商っていた民宿を一人続けている。十八になった長男は、大学に進学すると家を出ていった。次に生まれた長女を幼くして亡くし、今は八歳の次女と二人で暮らしている。
「行き倒れだなんて、戦後も遠くなったってのに珍しい」
豪快に笑うやよいは、そう言うと森で摘んだキノコを入れたザルを片手に、男の手を引いた。まるで、小さな子どもにそうするように。
***
「オガミさん。このキノコってなんて名前なんですか」
秋になり、キノコの季節になった。
オガミはザルいっぱいのキノコを持ち帰ると、実央はスーパーで見たことのないそれらに興味が尽きない。
そんな彼女を見て、オガミはゆるりと笑った。
「それはハナイグチ。こっちはナラタケでこれがアミタケ。どれも本番は来月だけどね」
ピンク色の髪の毛に、少しだけ色を変えた葉が乗っている。
「オガミさん、キツネの帽子」
「――なつかしいな。それ、やよいさんの表現だ」
オガミの頭から葉を一枚取り除いた実央の手首をそっと取ると、オガミは目を細めた。
「そういえば、オガミさんとお祖母ちゃんって、どうやって知り合ったんですか」
「実央さんはこの先もここに残りそうだし、そろそろ話してもいいのかもね」
立ち上がると、オガミはヤカンに火をかける。アルマイト製のずんぐりむっくりとした大きなそれは、やよいが昔から愛用しているものだ。
「お茶を淹れるよ。少しだけ、俺の昔話に付き合って」
実央は、民宿にいた頃の祖母の記憶は八歳までしかない。とてもパワフルで、チャーミングな人だったということは覚えているが、残りの記憶は祖母が最後に熱海で過ごした数か月間のことだけだ。
(もっと、ここに来ておけばよかったな)
今更ながら、そんなことを思う。
祖母がどんなことを考えて、客を迎えていたのか。
どんな風に、もてなしていたのか。
そしてこの不思議な青年とはどんな関係だったのか。
つい最近、イギリスから届いたばかりの紅茶の香りが目の前に立ち昇る。
「新しい紅茶。あと、これ同封されてたお菓子」
「あ! ここのチョコレート美味しいんですよ。食べたことあります?」
「ううん。ピンクでハート形のケースだなんて、俺の髪色とおそろいだな」
今回は伯父がイギリスの有名なチョコレートと、ビスケットも同封してくれた。このチョコレートは、バレンタインデーの時期になると大きなデパートのフェアでだけ日本で販売されるものだ。一度買って食べたことがあるが、とても美味しかった記憶がある。
「オガミさんの髪の毛の色って、ピンクだけどちょっと不思議な感じですよね。濃いところと薄いところがきれいに合わさってて」
「山桜の色だからね」
初めて会ったときと同じように返すオガミに、実央は笑った。
「それで、お祖母ちゃんとの出会いは」
隣に座ったオガミが紅茶を口に含んだタイミングで、尋ねる。
オガミは目を細め、窓の外へと視線を運ぶ。
まるでその瞳に、今も当時のことが浮かんでいるかのように。
「お母さん、その人だあれ? お客さん?」
やよいが男を連れて宿に戻ると、小さな少女が駆け寄ってきた。
「この人はねぇ……。あれ、あんたさん、名前は?」
男は少し困った顔で、オガミ、と名乗る。
「オガミさん。これは私の娘の、咲子」
「お花が咲くのさくで、さくこです。小学校二年生!」
手を差し出されたので、オガミはやよいと繋いでいない方の手を差し出した。
握手をすると、咲子はぱっと笑顔を広げる。
「お母さん、私まいちゃんちに行ってくるから」
「遅くならないうちに帰るのよ」
「はぁい」
友人の家に遊びに行くところだったらしい咲子は、やよいとオガミにバイバイと手を振って宿を出ていく。
「ほら入って。あんたひょろひょろのガリガリじゃないか。今時こんなに食べてないのがわかるなんて、どんな生活してたんだい」
台所に連れていき、丸椅子にオガミを座らせる。けれど、オガミはやよいの手を離そうとしなかった。
「あら、どうしたどうした。さみしいの?」
やよいの言葉に、オガミはじっと彼女を見る。
「あなたの、名前は」
「そういや名乗ってなかったね。穂高やよいだよ」
「やよい、さん。春の名前だ」
「その通り。私は三月の生まれでね。さっきの咲子は四月生まれ」
ちなみに七月生まれの長男は海正だ。
「ほら、採ってきた山の恵みで、あんたにキノコ汁作ってやるから」
やよいはそう言って、オガミの体を抱きしめる。背中をぽんぽんと軽くたたくと、オガミの体にゆっくりと体温が巡った。
「あんた、オガミさん、食べてないから体が冷たかったもんねぇ。少し温まったかな」
食べたら風呂も入っていくといい、とやよいは続ける。
「私は戦前の生まれでね。太平洋戦争のときは、それは大変だったもんだよ」
信州は東京からの疎開先になっていた。とはいっても、村からも少し離れているここには、人が来ることはなかったが。
「食べるものも少なくてね。皆で助け合って、山の神様の恵みもいただいたりして」
「山の、神様」
「そうよ。この山にも、あの山にも、神様はいるの。知ってる?」
とんとん、と包丁の音がする。キノコ汁に一緒に入れる、キャベツを切っているらしい。
オガミはやよいの手元を見ながら、頷く。
「ああ、よく知ってるよ。隣の山も向かいの山も、どこも神は――」
「あっちこっち開発してるみたいだけどさ、神様にちゃんと仁義通してるのかねぇ」
消え入るようなオガミの声に、やよいの声は力強い。
めっぽう明るい声で続いたその言葉に、オガミはわずかに笑みを浮かべた。
「どこも、山への信仰はなくなっていってる。山にある神社は朽ち果てて、人々の祈りの声は遠くなっていった」
「そうねぇ。誰もが東京に行くようになって、宮司の家も後継ぎが上京したって言ってたわ。さみしいもんだねぇ。私たちは、物が運ばれないときには山に食べさせてもらってたってのにさ」
味噌の甘くしょっぱい匂いが立った。
「あっ、沸騰させちゃった。いっつも煮立たせちゃうんだよねぇ」
やよいはそう言って、あわてて火を止める。大きな椀にキャベツと三種類のキノコを盛り付け、汁を注いだ。
「ほら、まずは腹ごしらえだよ。人間、食べないと死んじまう」
オガミは自分の顔くらいはありそうな大きな椀に、箸を伸ばす。よく知っている筈のキノコたちの味が、ずっと味わい深く感じた。
「……おいしい」
一気にすべてを食べ終えると、やよいは無言で椀を受け取りお代わりを淹れる。
「たっぷり食べな。今日食べたものが、明日の自分を作るんだから」
そうして都合三杯のキノコ汁を食べたオガミは、箸を置き両手を合わせた。
「俺は、きのこ汁を通して、やよいさんの祈りをいただきました」
「祈りだって?」
「うん。キノコ汁には美味しくなれと、食べる俺には、元気になれと」
オガミの言葉に、やよいは頷く。
「それはそうだね。料理ってのは、そういうもんだ」
「その祈りで、俺は命を吹き返した」
見れば、オガミの体は先ほどまでのひょろひょろのガリガリではなくなっている。
「オガミさん、そんなしっかりした体だったかね」
やよいの言葉に、オガミはくすりと笑った。
「人がいいな、やよいさんは」




