五 破局 02
「夜食……。いいかも」
特急電車で弁当を食べてはいたが、なんとなく物足りなかった。
「部屋で食べることになりますか? それとも」
食堂、と書かれた扉があることに気付き、千佐子は尋ねる。そういえば部屋には布団も敷いてあった。寝る場所で食事をとることは、忌避した方が良いだろう。
彼女の目線が食堂の文字を辿っていることに気付いた実央は、頷く。
「お酒は召し上がりますか」
「あるんですか?」
思わず前のめりで答えてしまったことに、千佐子はなんだか居たたまれのなさを感じてしまう。けれど実央は気にすることもない。
「ビール、ワイン、梅酒くらいしかありませんが」
千佐子を誘導するように、実央が食堂の扉をあける。ガラスをはめ込んだ木の扉は、わずかにギギと音を立てて、千佐子を迎え入れた。
「わ、この梅酒美味しい」
「一昨年漬け込んだものです」
やよいが毎年、梅仕事の一つとして仕込んでいたものだ。今年は実央が、オガミと二人で漬け込んでいる。同じように梅酒だけではなく、梅干や梅シロップなどの梅仕事も、少し前に終えたばかりだった。
「女将さんが?」
「これは私の祖母である、前女将が漬けたもので」
実央の言葉に、千佐子は頷く。それ以上、彼女が踏み込んでくることはなかった。
千佐子の前には、小皿に盛り付けた酒肴がいくつも並ぶ。
「こっちは……お豆腐?」
「豆腐の塩麹漬けです。添えられている葉ワサビの醤油漬けと一緒に召し上がってください」
漬け込んで水分が抜けた豆腐が薄くスライスされている。それを箸先で摘まむと、千佐子は葉ワサビを乗せて口へと運んだ。
「んっ、美味しい。チーズみたい」
ねっとりとした食感に、葉ワサビの少しだけピリッとした味が、しつこさを消す。
千佐子の誘いで、一緒に飲むことになった実央は、うっかり酒を飲みすぎないように、グラスに口をつけてわずかに傾けると、唇を湿らせてすぐに離した。
次に千佐子が箸を向けたのは、椎茸のチーズパン粉詰め。パン粉とチーズを混ぜたものを椎茸に詰め込み焼いて、上から黒胡椒をかけたものだ。
「じゅわっとしてるのに、カリカリもしてて、なんだか不思議な食感」
酒が回ってきたのだろうか。千佐子の瞳が緩やかにとろけていく。
「これは少しボリュームがあるやつだ」
ふふ、と小さく笑みを零し、千佐子は他よりも一回り大きな皿に目を向ける。牛肉とジャガイモを同じサイズの短冊状に切ったものといんげんを、オイスターソースで炒めたもので、いつもよりも少し濃い味付けになっていた。
「あぁ、これは白米が欲しくなるわぁ」
「ご飯お持ちしましょうか」
「あるんですか? ほんの……五口分くらい欲しいかも」
「お持ちしますね」
実央が台所に戻れば、すでにオガミが小さな器にご飯を盛り付けていた。軽く蒸しなおしたらしく、器ごと温かくなっている。
「オガミさんって、やっぱり予知能力があるんじゃ」
「あると言ったらどうする?」
いつもなら曖昧に笑うだけなのに。
実央は驚いた顔を曝け出す。それを見て、オガミは笑う。
「もう! オガミさんはすぐそうやって」
「ほら早くお客様にお持ちして」
「そうだった」
せっかく温めてくれたものなのだ。このほかほかを届けないといけない。
そうして千佐子のもとに手渡されたご飯は、牛肉やらジャガイモやらいんげんやらを乗せて彼女の腹の中におさまった。白いご飯がオイスターソースで色を変える。
「女将さん、梅酒のお代わりいただけますか」
ロックで飲んでいた梅酒が空になっていた。注ぎ足すと、千佐子はすぐに口に運んだ。
「実は私、今日恋人と別れたんです」
一気に梅酒を呷った千佐子は、カランと氷の音をさせてテーブルにグラスを置くと、実央の瞳を見てそう告げる。うるんだ瞳には、けれど涙はない。上気した頬から酔っていることがわかる。もしかしたら、口にするきっかけを探していたのかもしれない。
「それも、三か月後に結婚式をする予定の相手と!」
「ええっ」
思わず声を出してしまった実央に、千佐子はびっくりでしょう、と続けた。
「でもね、良かったのかもしれないの」
あのまま結婚していたとしても、遠からず破綻していただろう。今思えば千佐子は自分で我慢していたと思うが、現在進行中で彼に恋をしていたときには、我慢しているとは微塵も思っていなかったのだ。けれど、その状態が長く続くとは思えない。
千佐子は今日起きたことを実央に話す。彼女が話している間、実央はじっと千佐子を見て、その指先がわずかに震えていることに気付かないふりをした。何度か手を握ったり開いたりを繰り返していたのは、縋る何かを求めながらも、それが見つけられない状態だったのかもしれない。
実央にも、かつて付き合っている人がいた。仕事が忙しくなって、なんとなく疎遠になってしまったまま、フェードアウトで恋が終わったのは、お互いにそこまでの感情だったのだろう。
自分は追いかけなかったくせに、今となってなんとなく追ってきて欲しかったと思うのは、都合の良い感情だ。それでも、はっきりと終わりという決着をつけなかったことに、どこか浅い後悔を持ち続けている。
――別に、もう好きでもないのに。
「我慢してた私も、悪いのかもしれないけど」
千佐子はそう呟く。
恋愛は、どちらか片方だけに責任があるわけではない。確かに我慢していた方も悪いのかもしれないが、だからといって相手の好意を当然として踏みにじるのは、恋愛云々の前に、人として最低な行為だと、実央は思う。
「もう一杯いかがでしょう」
「いただいても?」
千佐子のグラスに梅酒のお代わりを注ぎ、実央は自分のグラスに残っている梅酒を、今度はきちんと飲み込む。
「我慢と言ってしまえば、そうなのかもしれないですが」
実央は自分の手元を見つめて、口を開いた。
「千佐子さんのそれは、相手を思いやってのことだったとも、言えませんか」
好きだから相手の瑕疵に目をつむる。それは傲慢でもあるが、それこそが恋ともいえるだろう。思いやるというのは、優しさだけではない。相手が過ごす時間を穏やかにさせることでもあるのだ。
だとしたら。
千佐子は梅酒でのどを湿らせると、手元の動きを止めた。
「次は、お互いに思いやれる人と、ともに過ごしたいわ」
それが幸せというものなのかもしれないから。
クリーム色のカーテンがかかる掃き出し窓を見て、千佐子はかすかに笑う。
そこには、蛍光灯に照らされて疲れた顔を浮かべた自分の顔が、ガラスに浮かび上がっていた。
***
夜遅くまで起きていたにも関わらず、千佐子は早くに目が覚めた。
一階の台所から、味噌汁の良い香りがしてきたからかもしれない。
身支度を済ませて階段を降りると、玄関が開け放たれていた。覗き込むと、玄関前を掃き掃除している実央がいる。
「おはようございます、実央さん」
名前を呼ばれ振り向くと、千佐子が笑っていた。
「女将さん、は肩書の名前ですからね」
千佐子の言葉に、実央も笑みを浮かべる。
「すぐに朝食になります。どうぞ食堂へ――千佐子さん」
食堂の掃き出し窓からは朝日が入り、部屋を照らしていた。昨日と同じ席に座っていると、実央が朝食を運んでくる。
朝二階の部屋まで香りが届いてた味噌汁は、ナスとみょうがが具材。枝豆の炊き込みご飯は、お茶碗を華やかに見せていた。
「枝豆の炊き込みご飯なんて、給食以来かも」
いただきますと手を合わせた後にお茶碗を持つと、千佐子はそう呟く。口に運ぶと、もち米が入っているらしく、むっちりとした粘着きがある。
「あー、いいわ」
枝豆は採れたてなのだろうか。ぷりぷりとしていて、口の中で踊った。
「朝に魚なんて、贅沢」
主菜は小鮎を山椒で煮込んだもので、ふっくらとした身が山椒のさわやかさと相まって、ご飯が進む。箸休めはズッキーニと紅ショウガをピーラーで薄く向いたものを重ねて丸めて、花のように見立てたものだ。甘酢で漬け込んだ紅ショウガの味を、ズッキーニのもったりとした味わいが受け止めている。
「全然違う味わいなのに、一緒に食べるとバランスよくなるの、不思議ねぇ」
まるで恋愛みたい。
実央は台所で千佐子のつぶやきを聞きながら、そんなことを思う。
海苔入りの出汁巻き卵で、千佐子はもう一膳お代わりをした。
「丁寧に味付けされた食事を、ありがとうございます」
ごちそうさまの言葉にそう付し、千佐子はお茶を持ってきた実央を見る。
「実央さん、やっぱり手をかけていることは、悪いことじゃないって思えたわ」
熱いほうじ茶をすすると、千佐子は笑う。
「こんなにおいしいご飯をいただけて良かった。食事も恋も、手はかけたらかけただけいいのかもしれない」
「あら、でも」
千佐子の言葉に、実央は小さく首をかしげた。
「手を抜いた料理も、案外悪くないですよ」
その言葉に、千佐子は噴き出す。
「確かに! ――実はね」
立ち上がり、目を細める。まるでいたずらっ子のような表情を浮かべ、千佐子は実央を見た。
「キャンセルの請求書、宛先を元カレの実家にしてもらったんだ」
前金は千佐子が払っていた。
恋愛の終わりは、二人の責任だ。
ならば、責任もともに持つべきだろう。
戻ってこない前金に、千佐子は次の恋への決意を放り込んだのだった。




