五 破局 01
夕飯を食べ終えた頃に、電話が鳴った。
今から宿泊したいという連絡に、実央は当然予約を受け付ける。
「この時間だと、バスはもうないだろ?」
「タクシーで来るって言ってました」
電話をかけてきた場所は市ヶ谷だと言っていた。そこから新宿に出て特急に乗ってくるのだろう。最寄りのターミナル駅からタクシーといっても、かなりの金額がかかる。それでも宿泊に来たいというのだから、やはりこの民宿に関して、どこかでクチコミが回っているのだろう。
「どんなクチコミなのかしらね」
思わず零した言葉に、オガミは笑みを浮かべているだけだ。
「ほら、受け入れ準備」
「そうだった! この時間だし、お布団敷いておこうかな」
二階に駆け上がり、実央は朝ゆっくりと眠れるように、西向きの部屋で受け入れの準備を始めた。
***
赤池千佐子は、空になった目の前の座席をじっと見つめていた。
手元には、ホテルの見積もりが数枚。どれも彼女の結婚式に関するものだ。
「どうしよ」
かさかさと乾いた声が、喫茶店の騒音にかき消されていく。
つい十分ほど前まで目の前にいたのは、千佐子の恋人の井上正樹。いや、元恋人というのが、正しいだろう。
千佐子と正樹は、たった今別れた。
きっかけは些細なものだ。
「だからなんで、この店にいなかったんだよ」
「私は欲しいものがあるから、遅れるなら隣の本屋で待ってるって送ったでしょ」
「既読になってないから、俺が読んでないことくらいわかるだろ」
「そもそも、待ち合わせの時間に一時間も遅れてきて、なんで偉そうなのよ」
正樹は時間にルーズだった。一方の千佐子は、約束した時間の五分前には到着していたいタイプ。二人はそもそも時間に関する倫理感がまるで逆だった。
「遅れるって連絡いれてるんだから、別にいいだろ」
「ねぇそういうところ、直して欲しいって前から言ってるよね」
遅れるという連絡を入れていればいいだなんて、傲慢だろう。約束をした時点で、相手の時間を拘束しているようなものだ。当然、お互いにだが。
「は? 言ってないだろ。お前はいつも自分が謝ってから、なんかぐだぐだ文句を言ってるだけだ」
正樹の言葉に、千佐子の表情が固まる。
確かに千佐子が正樹に改善してほしい部分を指摘をする場合には、自分の悪い部分を先にいって「私のこういうところが悪かったと思う。ごめんね」と告げていた。そのうえで、「でもあなたのここも直して欲しい」と指摘していたのだが、まさかそれが文句ととらえられていたとは、思ってもいなかった。
「だいたい、すぐ謝るくらいなら、最初からやらなきゃいいのにって思ってたんだよ」
続く正樹のセリフに、千佐子の頭は真っ白になった。
(何を言ってるの、この人)
彼のプライドを傷つけないように、お互い悪いところがあったよねという形にしていた。それが独りよがりのことだったと気付いたと同時に、目の前の男がまるで宇宙人のように思えてしまう。
(人が言ってることが理解できない化け物なのだろうか)
これまで何度も何度も告げていた直して欲しいこと――ことさら、時間や約束に関することには都度口にしていた――は、何一つ伝わっていなかった。
(だから、毎回毎回平気で遅刻してくるし、なんならドタキャンしてきたりしてたのか)
そのうえ、謝ることもしない。
(――もう無理だ)
ぷつり、と何かが切れた気がした。
「別れよう」
目の前にいる男には、言葉を取り繕っても無意味だ。端的な言葉でそう告げれば、正樹は鼻をフンと膨らませて頷く。
「別にそれでいいよ」
問題は、二人が結婚する予定でいたことだけ。
すでにホテルの予約と内金も入れていた。
今日は招待状についての打ち合わせをするために、この後ホテルに行くはずだったのだ。
「それじゃあ、違約金なんだけど」
「お前が別れるって言いだしたんだから、お前もちな」
「何言って」
「じゃ」
正樹はすぐに立ち上がり、まるで逃げるようにその場を出ていった。
目の前に置かれたままのホテルの見積もりの数字が、千佐子を責めてくる気がする。
「……前金と違約金。まずは違約金についてね」
時間にルーズな男は、金にもルーズ。
千佐子は以前どこかで聞いたことのあるそんなフレーズを思い出し、立ち上がる。
「とりあえず、ホテルに予約している打ち合わせ時間は守らないと」
ここ市ヶ谷の駅からそう遠くない場所にあるホテルに、千佐子は一人で向かった。
新宿から二時間半と少し。特急列車でターミナル駅に到着すると、ロータリーにいたタクシーに乗り込む。二台しかいなかったので、出払っているタイミングでなくて良かったと思う。
「この住所の場所までお願いします」
民宿なので名前を言ってもわからないから、住所を伝えてほしい。電話口の女性はそう言っていた。千佐子は素直に教えられた住所を、運転手に告げる。車載のナビに住所を入れた運転手は「随分と山の方だね」なんて笑っていた。
そうしてタクシーに乗って数十分で、千佐子は民宿ひとよまで辿り着いた。
あれからホテルで結婚式の契約の解約を行って、控えとして渡された書類の中に混ざっていたのが、ひとよの電話番号のメモだった。
担当が入れてくれたのか、そうではないのかはわからない。
そのまま家に帰る気にもなれなかった千佐子は、ふらりとそこへ電話をかけてしまったのだった。
ホテルで担当者と約束していた時間が遅かったこともあり、市ヶ谷の駅に到着したのはもうすっかり日が落ちた後。七月下旬にもなると、太陽が落ちても歪んだ空気の暑さは変わることがない。
新宿駅の乗り換えで弁当を買った千佐子は、移動の間に夕飯を済ませた。
「ごめんください。お電話した赤池です」
タクシーが走る山道は外灯がまばらで、ほんの一メートル先も見えない。ようやく着いた民宿の入り口に小さな明かりがなかったら、通り過ぎてしまいそうだった。
少しだけ扉を開けて声をかけると、すぐに中から引き戸が大きく開けられる。
「お待ちしておりました。女将の実央です」
市ヶ谷の駅で買ってきた着替えと化粧品、スキンケア用品を詰め込んだエコバッグを手に、千佐子は宿帳に記名した。
「お部屋にご案内いたしますね。お風呂も沸いていますので、すぐにご利用いただけます」
二階の客室に案内してもらうと、そこにはすでに布団が敷かれてあった。
「遅いお時間のご到着でしたので、僭越ながら先に敷かせていただきました」
「ありがとうございます。とても助かります」
風呂場の案内をしてもらうと、実央はそのまま台所へと姿を消す。
千佐子はのろのろと脱衣所で服を脱ぐと、洗い場へと向かった。
「あ、このシャンプー」
以前使っていたシリーズと同じパッケージが置かれてあり、千佐子は口元を緩める。
メイクを落とし、髪と体を洗い流すと、なんだか少しだけすっきりした気がした。
「もしかしてこの民宿、温泉かけ流しなの?」
木でできた湧き出し口から絶えず流れる湯に、千佐子は思わずつぶやく。ゆっくりと浴槽に足を入れていくと、暑い時期だというのに体が冷えていたのか、少しだけ熱く感じる。ゆっくりと体を沈めると、深いため息が腹の底から漏れた。
「あぁ、疲れた」
風呂場の窓は開け放たれている。
東京とは違い、夜になると温度が少し下がってくるらしい。吹いてくる風も、熱風ではなかった。
外は真っ暗で、空と思しき場所には無数の星が輝いている。彼方に見える黒い塊は、山だろうか。
「星ってこんなにたくさん見えるのか」
東京では星が見えないというのは、大きな嘘だ。新宿のような高いビルが連なる場所では見えにくいが、ほんの五分や十分電車で移動した市ヶ谷や目黒あたりなんて、それなりに星は輝いて見える。千佐子の住む調布まで出れば、星はさらに見えた。
けれど、この民宿から見える星の数は格段に違う。
山影の端から端まで、びっしりと小さな四等星までが見えるような気がした。
「新月か」
月明かりがないのも、星がきれいに見える要因だろう。
「どうりで、真っ暗闇でタクシーで不安になるはずだ」
道行が不安になるほどの暗闇に、タクシーの運転手は慣れているのかスピードが落ちることはなかった。
正樹と出会った頃を思い出す。
彼とは同じ職場だった。向こうから言われて付き合い始めたが、会社の暗黙のルールとして社内恋愛が禁止だったので、千佐子が転職した。転職先も良い会社だったので結果的には良かったが、今思えば向こうから告白されたのに何故自分が職場を変えたのかわからない。
時間を守らないこともそうだが、気付けば千佐子は我慢してばかりだった。まるで暗闇の中を過ごすかのように、千佐子は正樹とうまくやるためにいろいろなことに目をつぶっていたのかもしれない。
すい、と体を動かすと水面に小さな波がたつ。それをぼんやりと見つめながら、千佐子はもう一度、深いため息を吐いた。
***
今夜の宿泊者がお風呂から出た気配を感じて、実央は台所から顔を出す。
まるで待ち構えているかのようでもあるが、ここで声をかけるのが一番早いと思ったのだ。
「お客様、もしよろしければお夜食はいかがでしょうか」
すでに十二分な食事をとってきていて、満腹かもしれない。それでも、宿帳に名前を書いていた時の彼女の表情が、忘れられなかったのだ。
実央の言葉に、千佐子は足を止める。




