四 倒産と会社員 03
「内緒」
人差し指を口元に運ぶと、彼は続ける。
「だからこそ宿の仕事や、畑仕事ができてるけど、さっきのユキノシタとかはさ」
滝に咲いていた花のことだ。
「ああいうのは、実央さんがこれまで生きてきた中で、こうしたら相手が喜ぶと経験則で知っていることや、実央さん自身の優しさで生まれた気遣いだと思うんだ」
真正面から褒められているようで、実央は思わず顔を赤くしてしまう。オガミの顔を見ていられなくなり、がんもどきに目をやった。カリカリに揚げられたがんもどきは、まるでいかつい親父の顔のようだ。
「それは長い間かけてきた、今のための下処理でしょ」
オガミの言葉に、実央は体の中の何かが緩んだ気がした。
「いまのためのしたしょり」
実央が復唱するのを聞いて、オガミは笑みを浮かべる。
「ほら、冷めちゃうから続きを食べよう」
オガミの顔の向こう側に、月に照らされた山の影が見えていた。
***
翌朝、滝を見に行こうと思っていた隆は、雨音を聞いてがっくりとしてしまった。
「結局なんだか、うまくいかないもんだよなぁ」
布団の中から窓の外を見る。
灰色の雲から落ちてくる雨粒は、思ったよりも量が多い。
「本降りか」
昨日降らなかっただけでも良かったのか。
そういえば、昨日だか一昨日、中部地方まで梅雨入りしたとニュースで聞いた記憶がある。関東甲信越も、梅雨入りは目の前なのだろう。
「だいたい梅雨入り宣言の途端、晴れたりするけど」
滝に行けないのであれば、もう少しゆっくり寝ていても良いだろう。
枕元に置いたスマートフォンを見れば、まだ七時だ。仕事のある日は六時半に起きていたが、もう急いで起きる必要もしばらくはない。少し重めの掛け布団を頭までかぶると、隆は体を丸めて布団の中にもぐりこんだ。
それから十数分そうしていたが、もぞもぞと顔を出す。
「眠れない」
いつもなら二度寝も三度寝もできていたのに。
「仕方ない、起きるか」
のそりと体を布団から引きはがし、体を畳の上に移動させた。ぺたりと座ると、窓に目を向ける。
「あー、これからどうすっかなぁ」
メーカーの営業として新卒からずっと、同じ会社で働いてきた。他の会社を知らないので、転職がうまくいくかはわからない。氷河期世代と言われた自分たちだが、どうにかもぐりこめた小さな企業だった。給料はけして高くなかったが、福利厚生は悪くなく、何より同僚たちに恵まれたと思う。やりたいと思ったことを、挑戦させてくれる環境でもあった。がむしゃらに働き、自社の商品を使っている人を見つければ、密かにガッツポーズを手元で作ったこともある。
「まずはハローワークだろ。それからイデコだかなんだかの手続きと、あぁ区役所にも行かないといけないか。保険や年金って仕事してなくても取られるんだよなぁ」
区役所にも、これからは平日に行くことができるのだ。けして嬉しいことではないのだが。
「とりあえず、顔を洗うか」
部屋の外にある共同の洗面所に出る。共同といっても他に客はいないので、専用のようなものだ。
顔を洗い、髭をそる。仕事がなくなったのだから、髭は伸ばしっぱなしでもいいのだろうが、それはなんだか座りが悪かった。
「あ、朝食の時間を確認してないな」
昨日買ってきたTシャツを着て、階段を降りる。階段の先には、帳場でメモをしている実央がいた。その手元に、隆の目線が止まる。
「――あら、おはようございます。雨、残念ですね」
隆の視線に気付いた実央が、顔を上げた。
「あの、女将さん」
ふらりと隆の足が宙に浮く。
「危ないっ!」
階段から足が浮いた瞬間に、実央が叫ぶ。同時に、台所から飛び出したオガミの体が跳躍し、隆の腕を手すり側に引き寄せた。
ダン! と大きな音がして、隆の体が手すりに当たる。隆がどうにか手すりを掴むと、その場の三人が詰めた息が同時に開放された。
「た、助かった……」
がくがくと足を揺らせる隆に、オガミが近づく。そのまま手を貸して、ゆっくりと会談を降りてきた。
「ありがとうございます。えぇと」
「こちら、料理長のオガミです」
「オガミさん、ありがとうございます。本当に助かりました」
「いや、無事でよかった」
一階まで降りてくると、へちゃりと床に腰を落としてしまった隆に、実央とオガミも同じようにしゃがみこんだ。
「うちの階段、急ですからね」
実央は下から階段を見上げる。
「お二人とも、お茶を淹れましょう」
オガミの言葉に、二人は食堂に向かった。
「そういえば、先ほど私に何かを言おうとされてましたよね」
隆に勧められて向かい合わせに座った実央は、温かい緑茶を飲みながら尋ねる。
窓にぶつかる雨音が少し強くなった。
「女将さんが使っていたボールペンなんですが」
「私が? あぁ、これですか」
かけていたエプロンのポケットから、愛用のボールペンを取り出す。
実央が前の仕事をしていたときからのお気に入りだ。
「書きやすいし、握りやすくて好きなんですよね。インクがなくなったら、替え芯を使って――え、なんで泣いてるんですか」
「あ……。すみません。その、泣くつもりはなくて」
隆の瞳から、ぼたりぼたりと涙が落ちる。
それはまるで外に降る雨粒のように大きくて、それでいて雨とは違いとても静かだった。
「そのボールペン、俺が働いていた会社のものなんです。――俺が、営業してたやつ」
「そうだったんですね! すごい! ご縁です」
実央の素直な反応に、隆は眉をハの字にして涙をこぼしたまま笑みを浮かべる。
「ただ、実は昨日会社が倒産して」
「えっ」
知らず、ボールペンを持つ手に力が入ってしまった。
「……それ、K社のスイスイシリーズと互換性あるから」
替え芯がなくなったとしても、使い続けてもらえたら。
そう思い、ついこぼしてしまった言葉に、実央は頷く。
「実は替え芯、あと二十本買いだめしてるんです」
「二十?」
「はい。私めちゃくちゃボールペン使う人間で。インクがなくなったときに、すぐに続きが書けないとストレスになるんですよね」
だから、二十本の替え芯があると笑う。
「それでも、それがなくなったら互換性のあるものを買いますね」
このペン自体は使い続ける。暗にそう告げれば、隆は頭を下げた。
「俺の社会人人生が、報われたような気がします」
「そんなおお――」
大げさな、と言おうとして、実央は言葉を止めた。
会社が倒産したと言っていた。
彼は、きっとずっとこの商品を、会社の商品を、そして会社の理念を売り続けてきたのだ。手にフィットし、使いやすいボールペンは、メーカーの意志を感じる。
「素晴らしい商品を届けていただき、ありがとうございます」
窓に打ち付ける雨は、いつしか止んでいた。
実央の言葉に、隆はゆるりと笑みを浮かべる。
「こちらこそ」
立ち上がり、深く頭を下げた。
「愛用いただき、ありがとうございます。これからもどうぞ」
会社がなくなっても、商品は残る。
生活者の手元へ、届けていた人の気持ちは残る。
自分がしてきた仕事というものは、そういうものなのだ。
「朝食ができたぞ」
オガミの声に、二人は顔を見合わせて笑った。
絹ごしの豆腐と鶏ひき肉。それに青さと小エビを加えて炒め煮した餡が、温かいそうめんにかかる。
ちゅるりと音を立てて飲み込めば、胃の中が温まった。
「少し酸味があるのもいいな」
隆の頼みで、実央もそのままともに朝食を食べている。
「帰ったら一人で飯食うことになるんで」
とは隆の言。
「にゅう麵っていうそうですよ」
「温かいそうめんのこと?」
「はい。同じ麺なのに、面白いですよね」
豆腐が優しくも、胃にしっかりと満足感をもたらしてくれた。
添えられた小鉢は、塩漬けのゆで卵のポテトサラダだ。卵の塩味と半熟具合が、マッシュされたジャガイモに絡んで、ご飯も欲しくなってしまう。
「雨、上がりましたが滝に行きますか」
食後のほうじ茶を飲みながら、実央が尋ねる。
隆はゆっくりと首を左右に振ると、伸びをした。
「次に来たときの楽しみにしときます。雨上がりで、また足元滑らせたらあぶないし」
付け加えられたその言葉に、実央は思わず笑みをこぼした。
「では、またのお越しをお待ちしておりますね」




